石嶺あるきのご報告
2020年2月19日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comment : 0
2020年2月16日(日曜)、「石嶺あるき」が無事、終了しました。
1丁目の皆さんに声を掛けてもらっていたので、いつもより多少多いかもと軽く考えていたら、60名を超える方々が詰めかけビックリ。
う~ん読めないですね。
おかげで(?)こちらの対応がバタバタで、説明資料が不足したり迷惑を掛けてしまいました。申し訳ないです。ごめんなさい。
また、出発当初は日も差していた天気が、途中でにわかにかき曇り雨になるとは。
トホホの気分で中止を迫られましたが、しばらくしたら小降りになったので、強行突破することに。高齢者には少々きつかったかもですが、何とか終了してホッとした次第です。
ありがとうございました。

火ヌ神にて。地元民が定期的に清掃しているし、サクラも咲いているしで綺麗でした。

小雨のなか、終盤近くの太平橋で。地元代表の玉城さんに、いたる所で話をしてもらったので大助かりでした。
ところで、来月3月15日(日)には、石嶺の「写真展&公民館カフェ」を企画しています。
懐かしの写真や、琉大博物館(風樹館)の資料などを並べて、コーヒーを飲みながらユンタクしようというものです。
朝10時から夕方5時まで開けますので、誰でもお気軽にお越しくださいね。
1日だけなのでお見逃しなく!
また、そのための古い写真を集めますので、3月1日(日)午後1~5時、本字集会所に持ち寄れる人は強力してください。よろしくお願いしますね。

これからも、楽しいみんなの町を維持するため、皆さんの力を貸してください。
<三嶋>
真嘉比あるき終了
2020年2月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
2020年2月11日(火・祝日)、「真嘉比あるき」を実施しました。
RBCから取材の申し込みがあったのでドキドキしましたが(笑)、何とか格好はついたかなと自画自賛。
あるきは思っていた展開と「若干違ったかな」でしたが、まあそれはそれでイイでしょう。
真嘉比の前区長・玉城さん、花城さんの話が聞けたので、たいへん助かりましたね。
ありがとうございました。

天気も温度も、歩くにはちょうどイイ感じ。
快適でした。

RBCの6時代のニュースで紹介されました。
こっちからは何もしなかったのに丁寧に作ってもらって、ありがたいですね。

今度の日曜・16日には「石嶺あるき」をやりますので、よろしくです。
みなさん、来てね~!
<三嶋>
「石嶺あるき」のお誘い
2020年2月6日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comment : 0
怒涛の春が、いつものようにやって来ています。
今回は、「石嶺あるき」の告知です。
前回あげた「真嘉比あるき」もまだ終わってませんが、忘れていた(笑)ので、緊急告知となりました。
呆れた人も少なくないでしょうが(許して)、懲りずに応援よろしくです。
日時は2020年2月16日(日)、午前10時~12時。

したがって2月の3週は、11日が真嘉比、16日が石嶺あるきとなりますね。
いまさらながらですが、忙しくてすみませんね。
重ねてよろしくお願いします。
<三嶋>
第3回「真嘉比あるき」を行います
2020年1月20日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comments : 2
お久しぶりです。
まだ何とか続いてますよ。
今回は、第3回「真嘉比あるき」告知です。
昨年に引き続くので、「またか」と思う人もいるかもしれませんが、そんなことは気にせずお付き合いいただければ、みんなハッピーだわ(笑)。
2020年2月11日(火曜祝日)、午前10時~12時です。

昨年からいろいろ忙しく、こちらもサボってしまいました。
一回サボるとクセになるんですよね。
ごめんなさい。
これからは、また頑張っていきますので、よろしくです(ほんとか?)
<三嶋>
消えゆく旧東恩納博物館
2019年3月30日 Category: Myある記 Comment : 0
琉米歴史研究会の喜舎場静夫さんと、久しぶりに帰沖された川平朝清さん(91歳)を迎え、うるま市石川の旧東恩納博物館を訪れた。
県立博物館の出発点となった場所だが、最近、取り壊しが決まったことから、同館で通訳を勤めていた川平さんに喜舎場さんが知らせ、最後の「別れ」をセッティングしたもの。同時に、次世代にも伝えたいと、沖縄尚学高校や広島・大阪の高校生に向けたワークショップも行われたので、有意義なひと時に立ち会わせていただいた。

中央・川平朝清さん、右端・喜舎場静夫さん

旧東恩納博物館を訪れた高校生たち
旧東恩納博物館は、1945(昭和20)年8月、米国海軍政府のワトキンス政治部長・ハンナ教育部長らにより、石川市東恩納に沖縄陳列館として設立された。
戦前は大学教授だったハンナ少佐(博士)らは、琉球文化の素晴らしさに敬意を払い、戦火で失われたその復興を願うと、首里城や円覚寺の焼け跡を自らまわり、数々の美術工芸品等を拾い集めてその保存と陳列を図ったほか、芸能復興や教科書編さんなどにも努めた。
ハンナ少佐はわずか1年ほどの滞在だったのだが、打ちひしがれていたウチナーンチュが勇気と誇りを取り戻すことを願い、寄り添うための努力を惜しまなかった。破壊と殺戮ばかりではなく、そんな心ある米軍人もいたのである。
現在の県立博物館に収蔵されている戦前の品々の多くは、この沖縄陳列館(東恩納博物館)由来なのだが、その原点ともいうべき場所が、今、失われようとしている。


1946(昭和21)年ごろの東恩納博物館(上)とその庭(下)
<写真:琉米歴史研究会>


現在の建物と瓦礫に埋まった庭
朝鮮戦争を契機として戦後復興を成し遂げた日本社会は、高度成長期を経て、今もなお(すでに破綻しているという声をよそに)米国を中心とする「強欲資本主義」を追認している。
「本土並み」の平和と暮らしを希求した沖縄も、本土と同化するかたちで経済成長路線をひた走ってきたのであるが、その陰で、沖縄らしい自然や文化、芸術を重視して来た人たちの声は、疎んじられて来た。ウチナーンチュの魂や誇りをそこに見出し、次世代に残す責務があるという指摘はかき消されて来たのである。
その意味でも、東恩納博物館の功績は讃えられてしかるべきだろう。
しかし、那覇新都心の中心部にできた、新しい県立博物館・美術館のにぎわういとは対照的に、原点ともいうべきこの場所は、収蔵品が首里の博物館に移動して以来、役割を終えた場所として放置されてきた。
個人所有であったことがその理由と思われるが、沖縄の戦後史を語る公的な建造物として位置付け、何らかの形で保存・活用することはできなかったのか。
その責を行政に求めるのは容易いのだが、市民・県民の後押しが足りなかったのも事実だ。自分もふくめた県民一人ひとりに、地域の歴史・文化に対する自覚が不足していた、と反省するのである。
足元にある先人の遺産をないがしろにして、地域の未来を築くことはできない。
関係者をふくめて、一人ひとりがこの建物と場所を失うことになった事実を、重く受け止める必要があると思うのである。
<三嶋>
