真嘉比あるき&写真展
2019年2月21日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comment : 0
きたる3月、那覇市真嘉比で、地域あるき(2日)と写真展(24日)を行います。
那覇新都心に隣接し、すっかり都会になってしまった感がある同地区ですが、この激しく変化する姿こそ、沖縄の戦後そのもののような気がします。
そこには、戦後の那覇に仕事を求めて集まったヤンバルや離島出身者の暮らしや、助け合いながらよりより地域をつくってきた先達の背中も垣間みえるようです。
この機会に是非、みんなで語り合いながら楽しく歩き、また、懐かしい写真を見ながら各々の物語を語り合うひと時を過ごしませんか?
<三嶋>

街に飲み込まれた戦場
2018年12月20日 Category: Myある記 Comments : 2
那覇市真嘉比は73年前の沖縄戦で、戦場となった場所のひとつである。
米海兵隊がチャーリーリッジと呼んだ高台が集落の北側にあり、集落の南側にはハーフムーンと呼ばれた丘があって、真嘉比の西に位置するチャーリーヒルやシュガーローフ と連携したこれらの日本軍の防御ラインでは、南進する米軍との間で激しい戦いが繰り広げられた。
真嘉比地区の戦闘は、1945(昭和20)年5月13日、米第29海兵連隊がチャーリーリッジに進出して始まったが、周辺の拠点に立てこもる日本軍の攻撃や、首里城方面から打ち込まれる日本軍の砲撃を受け、物量に勝る米軍もこの地に釘付け状態となり、甚大な損害を出す結果となった。
地肌がむき出しとなり焼けただれた姿をさらずハーフムーン。1945年6月。
シュガーローフ から見たハーフムーン(中央の森)。1997年10月撮影。
建設中の道路(那覇中環状線)が330号線と接続するころで、モノレールはまだ敷設されていない。現在DFSが建つ交差点左には、米海兵隊がチャーリーヒルと呼んだ丘があった。
2009年12月。那覇新都心から松川方面に抜ける那覇中環状線の工事が始まったころ。米海兵隊がハーフムーンと呼称した丘(森)が、形をなくしつつある。
地元でウフドウムイ(大道森)と呼んでいたこの地は、戦後、日本兵の遺骨収集も不十分なまま手付かずの状態で残されていた。
しかし、シュガーローフと同じように道路建設で破壊されることを憂慮した人たちが声を上げ、2008年にNPO法人ガマフヤーの呼びかけで市民参加の遺骨収集作業も実施された。
<※2016年3月26日付本ブログ参照>
那覇中環状線が完成した現在、ハーフムーンの丘は跡形もなく消えさり、画一的な街並みが出現した。
73年前、激しい戦いの末、真嘉比北側のチャーリーリッジは5月17日に、シュガーローフ は翌18日に米軍の手に落ちた。が、ハーフムーンに立てこもる日本軍は、首里城の沖縄第32軍司令部が5月31日にを撤退するまで、頑強に抵抗を続けた。
この地域の戦闘で死傷した日米の将兵は約5000人。米海兵隊は、部隊の再編や兵士に休養を与えながら戦ったが多大な犠牲を出し、あまりの過酷な状況に耐えきれず、精神に異常をきたす兵士も続出(1289人)したとされる。ましてや、不眠不休で戦った日本軍兵士の状況は、いかばかりだったか。
次々に仲間が倒れていく中で、一人一人の兵士たちは何を思い、死んでいったのだろう。
軍隊という不条理な組織のなかに埋没し、個々人の兵士の姿は見えにくいものの、軍人以外、入隊前は社会人や学生だった人たちがそこにはいた。
国を背負わされて死んでいく状況を、今日のボクらが想起することは至難だが、それでも数多くの日米の若者たちがここで血を流し、命を落とした事実を葬ってはならない。次の時代を担う人たちのためにも。
<三嶋>

真嘉比あるき
2018年12月2日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
11月24日、今年度に予定している「真嘉比ある記」の予備調査を実施した。
那覇市真嘉比は学生時代に友人がいたり、かつての通勤路でもあるので、見慣れた場所ともいえる。しかし、今回のガイド、地元出身の砂川氏の体験混じりの説明を聞くと、また別の顔が見えて面白かった。
戦前の真嘉比は純粋な農村だったというが、モダンな住宅やアパートが隙間なく立ち並ぶ現在のようすから、そんな風景を思い描くのは難しい。
戦後の真嘉比には、ひめゆり通りや国際通り界隈を中心に復興する那覇に、職を求めて各地から人々が集まった。
銘苅、天久の土地を強制収用し、マチナトハウジングが真嘉比の西隣りに出現すると、米軍の家庭にハウスメイドとして通う人たちも多かった。
現在の高屋自治会会長も、この地域は“合衆国”で、あちこちから集まった人でできていると語る。会長自身も八重山の出身だそうだ。戦争で戦前が消滅した地域に、先島や北部から職を求めて出てきた人々が、戦後、寄り添いながら形作ったムラといえるだろう。
かつては急激な人口流入でインフラも追いつかず、タクシーに乗車拒否されるほどの悪路が、真嘉比の代名詞だった。
しかし、現在、那覇新都心地区の再開発の波は真嘉比にまでおよび、戦後の街並みを大きく変貌させている。
細くて曲がりくねっていた集落内の道は、大きく直線的に整備され、生活感のある赤瓦やセメン瓦、トゥータン屋もほとんど姿を消した。
大道・松川から首里に至る道(県道29号線)に対し、裏通りのような「まかん道」も真嘉比の名所だった。
首里から辻に遊びに行く男たちが人目を避けて通ったとか、「逆だち幽霊」の伝説も残る寂しい道で、道の両側には最近まで多くの墓があった。
しかし、気がつけば松川交差点まで一直線につながるように拡張整備されていて、マックやスタバが立ち並ぶ今風の通りへと変貌している。
便利でよくなったんだけどねえ。何だか…
<三嶋>

城間光雄さんのこと
2018年11月18日 Category: Myある記 Comment : 0
はやいもので、城間光雄さんが逝って、1年が過ぎた。
私は氏が体調を崩したあとで知り合い、そのあと約8年ほどの付き合いしかなかったため、木工作家として活躍していたころの姿は知らない。
しかし、その名前は以前からメディアを通じて知っていたし、曲がった県産材をそのまま使った、大胆であっけらかんとした家具の写真を見た時、なるほどこういうアプローチもあるんだと驚いたことを覚えている。
斬新な発想とモダンなフォルムが、沖縄に新たな可能性をもたらすと思えたし、事実、その後、関係者に与えた影響は、素人の私から見ても少なくなかったようにみえる。
彼の作品を全国に知らしめたのは、美術工芸の専門誌である季刊『銀花』の第99号(1994年)に取り上げられてからのようだ。
そのなかで、“本土に比べれば1周遅れのランナー”とつぶやく城間さんを、インタビュアーは「反面、伝統に縛られない強みも感じているにちがいない。自在な発想と豊かな個人の創作を続ける中に、未来につながる伝統の核をはらんでいないともかぎらない」と書いている。
この雑誌掲載が大きな転機となり、本土のデパートなどから作品の展示・販売会に招かれることが増えた。そして知念村の工房・木創舎(きづくりや)を拠点に、忙しく全国を飛び歩く日々が続いていたようだ。
それだけに、病魔に侵されてからの苦しさは人一倍大きかったに違いない。ままならない体調に、苛立つことも多かったと思われる。
しかし、私が知り合ったころは病を受け入れる心境に達していたのか、激しい感情の起伏を人に見せることはなかった。会話はいつも冗談と毒舌交じりで、それを承知して集まる仲間が絶えなかった。
そして、死を意識するなかで城間さんが注力したは、仲間たちと取り組む近くの森に眠る底川(スクガー)集落跡の保存活動であり、絶滅危惧種キバナノヒメユリの育成と普及活動であった。
1960年代まで続いた集落跡を案内し、かつては知念半島全域に咲き誇っていたという花の保存を訴えた。
それは、沖縄の森と草花を愛でた木工作家の遺言だったかもしれない。
資料を整理したり、思い出の場所を訪ねてみようと話し合ってもいたのだが、それも叶わないままとなってしまった今、ひとしお後悔の念が募っている。
<三嶋>

ジャーガル道の戦後2
2018年11月7日 Category: Myある記 Comments : 2
前回に続き、北谷町と沖縄市をむすぶ「ジャーガル道(謝苅道)」についての紹介。
ここに載せたモノクロ写真は1952(昭和27)年に撮影され、今年、NPO法人琉米歴史研究会に返還されたもの。地元の方々の話で、そのうちのいくつかは場所を特定することができた。
謝苅道を美浜に向けて下る人たち。
前回も紹介した町田病院の看板と、石段が左に見える。
上記の写真とほぼ同じ場所。「謝苅一区」のバス停が立っている。
左手の小高くなった場所に町田病院があったが、痕跡は何も見当たらない。
道路は舗装整備されただけで、戦前から変わらないと聞くが、新たな道路建設の準備が近くで始まっている。
町田病院があった裏手の路地。
現在も戦後とあまり変わらない雰囲気の路地。
先に進むと謝苅道の下をくぐるトンネル(水路)があるが、戦前に造られたものとのことだ。
写真の右手に見えるのは部落で使われたカー(泉川)。手作りの石碑には「吉原三班/泉川/1957年8月8日建設」の文字が刻まれている。
かつては暮らしに欠かせない場所だったのだろうが、今は省みる人もいないのか、ひっそりと雑草に埋もれようとしている。

謝苅道と撮影位置図
沿道で出会ったと思われる少女たち。
場所は特定できないが、道路下に見える茅葺の家屋やカーブの雰囲気から、謝苅道であることは間違いないようだ。
戦後の貧しさの中でも笑顔を向ける子供たちに、同じく戦争を経験したであろう撮影者は、国を超えた希望の光を見出したのだろうか。
健在なら80歳近い年齢になっているはずのこの少女たちに、見覚えがないか地元で聞いてみたのだが、確たる情報は今もって得られていない。
<三嶋>
