健堅あるき報告
2018年10月17日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
去る10月7日(日曜)に実施した、本部町の「健堅あるき」報告。
昨年春の「渡久地あるき」に続いて、今回も健堅に住む中村英雄さん(89歳)に同行していただき、「十・十空襲」にまつるわる体験談を聞くとともに、その痕跡などを訪ねた。
目の前の海で、昭和19年10月10日に沈んだ旧海軍の潜水母艦・迅鯨の慰霊碑は、戦後、中村さんの自宅を偶然訪れた元乗組員、高屋博氏との出会いを経て、共同で建立することになったもの。以後、中村さんは毎朝の掃除と10月10日の慰霊祭を、しばらく前まで一人で続けてきた。
中村さんたち3人の少年は、右下に見える瀬底島の浜に救助した乗員を運び、矢印の場所に隠れた。米軍機は南西の方角(写真右)から北東(写真左)に向けて飛び、爆弾投下や機銃掃射を行った。
第一南海丸は、石垣島・宮古島から那覇港を経由して来たと思われる徴用船で、迅鯨と同じく十・十空襲に見舞われて沈んだ。
前部のデッキに鉱石を積み、後部デッキには、対馬丸(8月22日沈没)に乗った疎開学童の荷物を積んでいたという。
また、大島紬などの反物やタオル、ミシンなどもあって、付近のウミンチュは夜になると船に潜り、さまざまな品を引き上げた。
だが、その作業は楽なものではなく、中村さんとともに迅鯨の乗員を救出した一つ年上の先輩も、船から出られず溺死した。月明かりが頼りの素潜りである。舞い上がった泥で出口を見失ったことが、死因と考えられた。
中村さんたちが埋葬した遺体は、1946年1月に米軍の攻撃を受け、渡久地港の前で座礁した金剛丸の軍属と思われる。
その中に、2人の朝鮮人強制労働者がいたことが最近になって分かり、関係者が韓国から訪ねてきたことも新聞で報道された。
敵機や敵の船を発見するための監視哨は、2階建ての1階が埋まっているものの、当時と同じ山の上に残っている。
中村さんは十・十空襲の前日、9日の朝5時から夕方5時までここで任務についていた。翌10日の早朝には舟に乗り、漁場に向かう途中で迅鯨の火災に遭遇する分けだが、この監視哨でも当日、悲劇が起こっていた。
朝から当番についていた中村さんの同級生が、敵機の攻撃で電話が通じなくなった監視哨から、来襲の報を那覇に知らせるべく、伝令として麓の警察署まで山を駆け下りたのだが、その途中で消息を断ち、遺体も見つからなかったというのである。
また、9日まで中村さんと行動を共にしていた先輩の一人は、翌10日早朝、大栄丸に乗り込んで出漁したが、米軍機と浮上してきた潜水艦による攻撃を受けて船が沈没。18人の仲間とともに亡くなっている。
本部における十・十空襲の実相は、今だに不明な部分があり証言が食い違うことも少なくない。
記録が乏しいのは、戦時下だからでもあるだろう。が、歴史に向き合おうとしないばかりか、都合が悪いことは隠そうとさえするこの国の風土や日頃の習性が、そこに伏流してはいないか。
その意味でも、中村さんの証言はほんとうに貴重であろう。
そして何より、多くの試練を乗り越えてきた波乱の軌跡が、多くの示唆と元気を私たちに与えてくれるのである。
<三嶋>