窓のない家
2025年2月23日 Category: Myある記 Comment : 0
最近、窓のない家を時折目にする。オシャレな雰囲気が漂っているが、通りに面した側に窓がない家である。
そんな家を見ると何か落ち着かず、不快感といっていいような、不思議な気持ちは何だろうかと考えた。すると、それは窓がないことが、「周囲との関わりを拒絶する意志を示している」から、ではないかと思うに至った。
周囲との調和が当たり前の社会では、家と周囲を隔てる発想はなかった。良し悪しは別として、そこにプライベートはなく、外界と屋内を隔てる壁はなかったといえるだろう。
小津安二郎の名作映画『東京物語』には、通りをゆく近所のおばさんが、窓越しに室内の笠智衆と会話するシーンがあったと思うが、かつては家庭と外の世界を隔てる障壁は驚くほど低くかった。
このような、すべてがさらけ出された生活空間ではなく、保安面からも個人・家族を守ろうとする住宅が求められるようになるのは、近代になってからだろう。

かつての社会は地域とのつながりが強く、地域全体が家族のような信頼の上に成り立っていた。それがユイマール(相互扶助)の仕組みを生み、保たれてきた。
しかし、戦後に進んだ都市化が共同体の仕組みや意識を変え、同時に地域社会を支えていた絆も薄れてきた。受け継がれてきた行事や伝統芸能などの世界では、今もその関係は機能しているといえるが、都市型地域では消滅しており、ユイマールも死語になった状態だろう。
しかし、だからといって、自ら地域との絆を断ち切ると宣言するのは、行き過ぎではないか。時代はここまで来たのか、とショックを受けたのである。
厳しい自然条件や社会状況を経てきた沖縄では、自らが生きるためにも周囲との助け合いを不可欠としてきた。ジンブン(知恵)を生かしながら、手に入る素材でモノをつくり、助け合って生き抜いてきたのが沖縄ではなかったか。
戦中・戦後もそうして人々は生き抜いてきた。そんな労苦の跡をながめたり、話を聞いていると、満ち足りた現在の社会が立ち行かなくなった時、われわれはどう乗り越えるのだろうかと、暗い予想をしてしまう。


読谷村座喜味。2011年8月撮影。


<三嶋>

路線バス無料の日
2024年9月22日 Category: Myある記 Comment : 0
9月の水曜日と日曜日は、路線バスが無料になるというので、家内にさそわれ乗ってみることにした。
どこまで行ってもタダというので、遠くまで行ってもいいのだが、若かったころの冒険心が消え失せた老境の身としては、とりあえず恩納村ぐらいは大丈夫か、と同村の図書館を目指して足をすすめてみた。
バスに乗るのは何年ぶりかと思いながら、ネットで路線図やら調べると、複雑で分かりづらいのは相変わらず。
とにかくバス停まで行ってみたが、なかなか目当てのバスが来ない。やっと来たかと思ったら満員(やっぱりタダだから人が多い)で乗れず。ようやく来た次のバスで目的地に着き、時計を見て結構時間がかかったことに驚いたが、時間を気にしていてはバス移動はダメだわね。

(写真:沖縄県公文書館)
時間はかかったものの、久しぶりに乗ったバスは、思っていたより快適だった。なにより、運転手の対応が以前(ずいぶん前だけど)より格段によくなっていることに驚いた。英語での対応もスムーズだったし、丁寧な運転で好感がもてた。


そういえば学生時代、たまに首里バスに乗ったが、あのころを思いだすと、運転が荒かったなあ。運転手もやる気がないのか、格好も結構ラフだった。乗客にお構いなしに発車したり急停車していたし。今よりはるかに道が混んでいたし、給料も良くなかったんでしょうね。
このバス事情のように、沖縄らしいといえば沖縄らしい、いい(イイ)加減さがボクは決して嫌いではなく、あのころ本土から沖縄に来た人が、バス事情の酷さを新聞投書欄で嘆いたりすると、同感よりも「本土と違う価値観や感覚もあるんだよね~」と沖縄側を擁護する気持ちが強かったのだが、しかし、あれは確かに酷かったよなあ。
<三嶋>

摩文仁に残る戦争の爪痕を歩いて
2024年7月6日 Category: Myある記 Comment : 0
沖縄県平和祈念資料館友の会が主催する、「平和学習フィールドワーク」に参加した。昨年も開催され、山側のコースに参加したのだが、今回は海までのコース約400mを歩くとのことである。
「体力に自信のない方は参加しないでください」との注意事項のせいか、参加を見合わせた人もいたようだが、今回は、海岸にある艦砲射撃の弾痕を研究している、琉球大学の仲座栄三先生が解説するということもあってか、参加者が思った以上に多かった。

コースの設定や準備に追われたであろうと想像し、関係者の努力に感謝する。

艦砲射撃で二つに割れていると仲座先生が解説。

参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。撮影1945年6月28日。
<写真:沖縄県公文書館>
79年前、旧摩文仁村(現在は糸満市)の海岸では、米軍が海上から日本兵や住民に投降を連日呼びかけていた。6月20日には将兵800人、住民4,000人が投降している。
同日は、89高地(摩文仁の南東斜面)を守る小規模の日本軍が玉砕した日であり、翌21日、ガイガー米第10軍司令官が沖縄の確保を発表している。

<写真:沖縄県公文書館>
6月23日は第32軍司令官の牛島満と参謀長の長勇が自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日であるが、終結の日は当初22日とされていた。1962(昭和37)年に摩文仁の丘で行われた、全琉戦没者慰霊祭も6月22日開催であり、琉球政府はこの日を「慰霊の日」と定め休日に指定していた。
しかし、3年後の1965年、「慰霊の日」は6月23日に変更された。その理由は、第32軍の高級参謀で1945年6月19日まで摩文仁に止まった八原博道が、著書『沖縄決戦』で、二人の将軍は23日に自決としたためとする説が有力なようである。
反対に、22日説としたのが米軍資料に基づく上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』で、ムタグチという司令部付調理人の証言を取り上げ、同日午前3時40分ごろ、通常礼装に身支度した牛島・長が壕の入口3mほどの所で切腹し、坂口大尉が介錯したと記述している。真相はどちらなのであろうか。
さて、われわれは「黎明之塔」から「健児之塔」に降り、チンガーを訪ねたあと「南冥の塔」の近くからいよいよ海岸を目指して道なき道を進んだ。このところ雨がないこともあり、猛烈な暑さである。生い茂る樹木と不安定な足場によろめきながら、慎重に足を進める。

(師範学校本科2年 池村恵潤氏)の名を記した板。


緑の草木に覆われた、とてつもない大きな珊瑚があちこちに立ち、倒れ掛かり、いく手をさえぎる。とても普通に歩けるような所ではないが、岩や木につかまって体を支え、アップダウンを繰り返しながら海岸を目指す。
手で土を掘れるような場所はなく、横たわって体を休めるような平地もない。岩の割れ目などを見つけて隠れるしか、戦火を凌ぐ方法は無かったであろう当時を偲ぶ。
汗にまみれ、疲労を感じ始めたころ、ようやく波の音が聞こえる場所に来た。

79年前には、多くの兵士や避難民が、沖合の米軍艦船に向かって投降した場所である。

岩と同化して動かない珊瑚礁の鉄片は、人気のない美しい海岸が、けれど紛れもなく79年前には戦場であったことを突きつける。
中国脅威論や台湾有事などがマスコミを賑わし、便乗して自衛隊のミサイル配備や基地設置などが続く沖縄だが、沖縄戦の実相を忘れた空論に踊らされている気がしてならない。
今こそ79年前を振り返り、戦争の愚かさと命の尊さを思い返す必要があろう。たった79年前の悲劇が、もう忘れられようとしている。
<三嶋>

なんかモヤモヤ
2024年6月19日 Category: Myある記 Comment : 0
5月末のある日、暑いなか那覇新都心を歩いていると、アレ、なんか変?と、交差点で足が止まった。ちょっとした木陰を提供していたガジュマルの木が、ない!切り株が残るだけだ。
誰が?とか、勝手に切っていいの?とか疑問が湧き上がる。こんなに簡単に切られていいの?とも思う。
そして、怒りと悲しみが混ざったような、モヤモヤが湧き上がってきた。

いろんな思いが駆け巡るなか、そういえば、沖縄の街路樹に関係する新聞記事があったなあと探してみると、国際通りの記事がいくつか出てきた。
それによると、1954(昭和29)年2月には、クスとヤブニッケイ93本が植栽され、1955(昭和30)年5月には、本部町伊豆味からモクマオウ71本が運ばれて植えられている。
また、1958(昭和33)年7月には、「数年前に植樹されたヤナギの街路樹が詩情を詠んでいる」とある。ヤナギは、歌謡曲などで親しまれた「銀座の柳」にちなんで植えられたものだ。
しかし、これらの街路樹が、いずれも定着しなかったのはなぜだろう。行政の資金難なのか、市民にそんなゆとりはなかったのか、それとも愛情不足なのか。
1968(昭和43)年2月15日の沖縄タイムスには、「沖縄で緑化運動が広がるが、那覇市内の街路樹は大切にされていない」の記事も見える。

画面の左、遠くに見える建物が那覇国際高校。
たかが街路樹1本のことだが、アレコレ考えていると、いろんなことが浮かんできた。
そういえば学生時代、先生の一人が「沖縄のヤシが風景を変えてしまった」と嘆いていたなあ。本土復帰あたりを境に、トロピカルイメージを売りにする沖縄観光にとって、南国のイメージづくりにヤシは欠かせないアイテムだった。

何だか、切られたガジュマルのことを考えているうちに、まとまりのない話になった。
そして、なんかモヤモヤする気持ちは、おさまらないままである。
<三嶋>

城間の戦跡をあるくフィールドワークに参加して
2023年4月30日 Category: Myある記 Comment : 0
摩文仁に引き続き、平和祈念資料館友の会主催で行われた「浦添城間アイテムポケットとマチナト飛行場」という、フィールドワークに参加したのでその報告。
浦添市城間の北西部に位置する、米軍がアイテムポケットと呼んだ地域である。
小生は以前、一人で訪ねたことがあり、よく分からないまま引き返したことがあったので、リベンジのつもりだったが、今回は事務局長・仲村真さんの詳しい解説のおかげでいろいろ分かったことがあるし、収穫が多かった。関係者に感謝である。
友の会で作られた冊子を読むと、城間アイテムポケットでは1945年4月20日から27日にかけ、日米両軍の凄まじい攻防が展開され、突破した米軍は、中飛行場(戦後キャンプ・キンザー)まで一気に進撃したようだ。
同時期、日米両軍は東シナ海~太平洋を結ぶ線上にある、安波茶や伊祖、宮城、屋冨祖、西原などでも激戦を展開していた。そして、宜野湾村の嘉数高地における攻防戦では終結が近づきつつあり、前田高地(ハクソー・リッジ)では闘いがピークを迎えつつあった。

キャンプ・キンザーでは、かつての丘陵地隊も今は削られ、形を変えているが、日本軍の機関銃陣地が配置されていたライアン高地は、まだ形をとどめているようだ。ここでは地下にトンネルが張り巡らされ、頑強な蜂の巣のような防御施設だったとされる。そして、日本軍第62師団第64旅団の独立歩兵第21大隊、2個中隊の兵士600人と、数百人のウチナーンチュが守りを固めていた。





資料によると、アイテムポケットでは特に4月25日から26日にかけて、闘いがピークを迎えたようだ。
25日にライアン高地に到達した米兵31人は、20分間の戦闘で31人の日本兵を殺害する。彼らには平均6発の銃弾しか残っていない状態だったというが、支援を受けて奮戦し、26日の激戦を制して、夜までにアイテ・ポケットを制圧する。
そのなかには、日本兵10人を射殺した海兵隊員や、仲間の負傷に激怒して日本軍陣地に突入し、穴から穴へ走りながら日本兵を殺害した隊員の話なども紹介されている。さまざまな闘いが数えきれないほどあり、そして幾多の兵士が死傷している。
多くの若者が兵士として戦場に送られ、死を迎え、生き残った。言うまでもなく闘った兵士一人一人には名前があり、家族があり、夢や希望があったはずだ。生身の個人がそこにいたことを、改めて思う。
今となってはその多くは忘れられようとしているが、私たちの今は、彼らの闘いの延長上にある。愛国者を讃えよと言うのではない。ただ、名も知られないまま消えた命が、数知れずあった事実を忘れてはならないと、今更ながら思うのである。
<三嶋>
