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路線バス無料の日

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 9月の水曜日と日曜日は、路線バスが無料になるというので、家内にさそわれ乗ってみることにした。

 どこまで行ってもタダというので、遠くまで行ってもいいのだが、若かったころの冒険心が消え失せた老境の身としては、とりあえず恩納村ぐらいは大丈夫か、と同村の図書館を目指して足をすすめてみた。

 バスに乗るのは何年ぶりかと思いながら、ネットで路線図やら調べると、複雑で分かりづらいのは相変わらず。

 とにかくバス停まで行ってみたが、なかなか目当てのバスが来ない。やっと来たかと思ったら満員(やっぱりタダだから人が多い)で乗れず。ようやく来た次のバスで目的地に着き、時計を見て結構時間がかかったことに驚いたが、時間を気にしていてはバス移動はダメだわね。

ワンマンカーになったころの首里バス。1965(昭和40)年6月撮影。首里バスが、首里市営バスとして再び那覇~首里間を走り出したのは、1950(昭和25)年7月。翌年、(株)首里バスになり、撮影された年からワンマンカーとなるが、本土復帰後の1974(昭和49)年8月に銀バスと合併し、首里バスは姿を消している。
(写真:沖縄県公文書館)

 時間はかかったものの、久しぶりに乗ったバスは、思っていたより快適だった。なにより、運転手の対応が以前(ずいぶん前だけど)より格段によくなっていることに驚いた。英語での対応もスムーズだったし、丁寧な運転で好感がもてた。

1960(昭和35)年撮影の那覇バスターミナル。前年の8月に造られたもので、現在は同じ場所に新しい施設が建っている。いろいろな組織や図書館も入った建物の、1階部分がバスターミナルとして機能し、観光客なども多く利用している。(写真:沖縄県公文書館)
1961(昭和36)年9月、やんばると思われる道路(悪路ですね)を走る貸切の昭和バス。昭和バス(その後の琉球バス)は、1953(昭和28)年ごろ国頭線に参入し、業界の競争が激しくなったと新聞にある。1960年前後は多くのバス会社が、ワンマンカーや観光バス、急行バスを登場させ活気があふれている。しかし、1963年4月にバス争議が持ち上がり、全面ストが長期間続き大混乱。このころからモータリゼーションが始まり、利用者が減り始めたことも、バス業界が陰りを見せた背景にはあるのだろうか。(写真:沖縄県公文書館)

そういえば学生時代、たまに首里バスに乗ったが、あのころを思いだすと、運転が荒かったなあ。運転手もやる気がないのか、格好も結構ラフだった。乗客にお構いなしに発車したり急停車していたし。今よりはるかに道が混んでいたし、給料も良くなかったんでしょうね。

 このバス事情のように、沖縄らしいといえば沖縄らしい、いい(イイ)加減さがボクは決して嫌いではなく、あのころ本土から沖縄に来た人が、バス事情の酷さを新聞投書欄で嘆いたりすると、同感よりも「本土と違う価値観や感覚もあるんだよね~」と沖縄側を擁護する気持ちが強かったのだが、しかし、あれは確かに酷かったよなあ。

<三嶋>

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摩文仁に残る戦争の爪痕を歩いて

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 沖縄県平和祈念資料館友の会が主催する、「平和学習フィールドワーク」に参加した。昨年も開催され、山側のコースに参加したのだが、今回は海までのコース約400mを歩くとのことである。

 「体力に自信のない方は参加しないでください」との注意事項のせいか、参加を見合わせた人もいたようだが、今回は、海岸にある艦砲射撃の弾痕を研究している、琉球大学の仲座栄三先生が解説するということもあってか、参加者が思った以上に多かった。

ボリュームのある配布資料を、平和祈念資料館友の会(代表・仲村真氏)からいただく。
コースの設定や準備に追われたであろうと想像し、関係者の努力に感謝する。
「平和の礎」から慰霊碑がある丘陵に向かう。左に見える一番高い部分の岩が、
艦砲射撃で二つに割れていると仲座先生が解説。
日本軍司令部があった89高地(摩文仁の南東斜面)で、アメリカの国旗掲揚式。
参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。撮影1945年6月28日。
<写真:沖縄県公文書館>

 79年前、旧摩文仁村(現在は糸満市)の海岸では、米軍が海上から日本兵や住民に投降を連日呼びかけていた。6月20日には将兵800人、住民4,000人が投降している。

 同日は、89高地(摩文仁の南東斜面)を守る小規模の日本軍が玉砕した日であり、翌21日、ガイガー米第10軍司令官が沖縄の確保を発表している。

1959(昭和34)年ごろの89高地(摩文仁の南東斜面)。1952(昭和27)年6月22日に除幕された「黎明之塔」が見える。同塔は「日沖合作で建立」と同年5月25日付「沖縄新民報(第193号)」にある。現在の塔は1962(昭和37)年に建て替えられ、吉田茂が揮毫している。
<写真:沖縄県公文書館>

 6月23日は第32軍司令官の牛島満と参謀長の長勇が自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日であるが、終結の日は当初22日とされていた。1962(昭和37)年に摩文仁の丘で行われた、全琉戦没者慰霊祭も6月22日開催であり、琉球政府はこの日を「慰霊の日」と定め休日に指定していた。

 しかし、3年後の1965年、「慰霊の日」は6月23日に変更された。その理由は、第32軍の高級参謀で1945年6月19日まで摩文仁に止まった八原博道が、著書『沖縄決戦』で、二人の将軍は23日に自決としたためとする説が有力なようである。

 反対に、22日説としたのが米軍資料に基づく上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』で、ムタグチという司令部付調理人の証言を取り上げ、同日午前3時40分ごろ、通常礼装に身支度した牛島・長が壕の入口3mほどの所で切腹し、坂口大尉が介錯したと記述している。真相はどちらなのであろうか。

 さて、われわれは「黎明之塔」から「健児之塔」に降り、チンガーを訪ねたあと「南冥の塔」の近くからいよいよ海岸を目指して道なき道を進んだ。このところ雨がないこともあり、猛烈な暑さである。生い茂る樹木と不安定な足場によろめきながら、慎重に足を進める。

珊瑚礁の岩陰に設置(平成4年)されている、この地で死去した学徒兵
(師範学校本科2年 池村恵潤氏)の名を記した板。
避難民が使っていたであろう食器の破片。再び使われることのない生活の痕跡がしみついた道具が、ジャングルの中で、今も人知れず眠っている。
ビルで考えれば、4、5階建てぐらいになるだろうか。見上げると、首が痛くなるほどの大きな珊瑚礁の塊が、青空を背景にあちこちにそそり立っている。

 緑の草木に覆われた、とてつもない大きな珊瑚があちこちに立ち、倒れ掛かり、いく手をさえぎる。とても普通に歩けるような所ではないが、岩や木につかまって体を支え、アップダウンを繰り返しながら海岸を目指す。

 手で土を掘れるような場所はなく、横たわって体を休めるような平地もない。岩の割れ目などを見つけて隠れるしか、戦火を凌ぐ方法は無かったであろう当時を偲ぶ。

 汗にまみれ、疲労を感じ始めたころ、ようやく波の音が聞こえる場所に来た。

大きく空を切り裂いて立ち並ぶ岩の隙間を抜けると、目の覚めるような美しい海が広がる。
79年前には、多くの兵士や避難民が、沖合の米軍艦船に向かって投降した場所である。
波打ち際の珊瑚の窪みに残る艦砲弾の破片。1~5cmほどであろうか。黒く、貝殻や海草かと見過ごしがちだが、磁石を近づけるとくっつきため、鉄であることが分かる。

 岩と同化して動かない珊瑚礁の鉄片は、人気のない美しい海岸が、けれど紛れもなく79年前には戦場であったことを突きつける。

 中国脅威論や台湾有事などがマスコミを賑わし、便乗して自衛隊のミサイル配備や基地設置などが続く沖縄だが、沖縄戦の実相を忘れた空論に踊らされている気がしてならない。

 今こそ79年前を振り返り、戦争の愚かさと命の尊さを思い返す必要があろう。たった79年前の悲劇が、もう忘れられようとしている。

<三嶋>

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なんかモヤモヤ

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5月末のある日、暑いなか那覇新都心を歩いていると、アレ、なんか変?と、交差点で足が止まった。ちょっとした木陰を提供していたガジュマルの木が、ない!切り株が残るだけだ。

誰が?とか、勝手に切っていいの?とか疑問が湧き上がる。こんなに簡単に切られていいの?とも思う。

そして、怒りと悲しみが混ざったような、モヤモヤが湧き上がってきた。

カメラのキタムラの向かい、四角にあったガジュマルの切り株。

いろんな思いが駆け巡るなか、そういえば、沖縄の街路樹に関係する新聞記事があったなあと探してみると、国際通りの記事がいくつか出てきた。

それによると、1954(昭和29)年2月には、クスとヤブニッケイ93本が植栽され、1955(昭和30)年5月には、本部町伊豆味からモクマオウ71本が運ばれて植えられている。

また、1958(昭和33)年7月には、「数年前に植樹されたヤナギの街路樹が詩情を詠んでいる」とある。ヤナギは、歌謡曲などで親しまれた「銀座の柳」にちなんで植えられたものだ。

しかし、これらの街路樹が、いずれも定着しなかったのはなぜだろう。行政の資金難なのか、市民にそんなゆとりはなかったのか、それとも愛情不足なのか。

1968(昭和43)年2月15日の沖縄タイムスには、「沖縄で緑化運動が広がるが、那覇市内の街路樹は大切にされていない」の記事も見える。

2001(平成13)年1月の那覇新都心。街路樹はまだ植えられていない。
画面の左、遠くに見える建物が那覇国際高校。

たかが街路樹1本のことだが、アレコレ考えていると、いろんなことが浮かんできた。

そういえば学生時代、先生の一人が「沖縄のヤシが風景を変えてしまった」と嘆いていたなあ。本土復帰あたりを境に、トロピカルイメージを売りにする沖縄観光にとって、南国のイメージづくりにヤシは欠かせないアイテムだった。

1997(平成9)年7月。ヤシの木が中央分離帯に並ぶ、北谷町の国道58号。

何だか、切られたガジュマルのことを考えているうちに、まとまりのない話になった。

そして、なんかモヤモヤする気持ちは、おさまらないままである。

<三嶋>

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城間の戦跡をあるくフィールドワークに参加して

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 摩文仁に引き続き、平和祈念資料館友の会主催で行われた「浦添城間アイテムポケットとマチナト飛行場」という、フィールドワークに参加したのでその報告。

 浦添市城間の北西部に位置する、米軍がアイテムポケットと呼んだ地域である。

 小生は以前、一人で訪ねたことがあり、よく分からないまま引き返したことがあったので、リベンジのつもりだったが、今回は事務局長・仲村真さんの詳しい解説のおかげでいろいろ分かったことがあるし、収穫が多かった。関係者に感謝である。

 友の会で作られた冊子を読むと、城間アイテムポケットでは1945年4月20日から27日にかけ、日米両軍の凄まじい攻防が展開され、突破した米軍は、中飛行場(戦後キャンプ・キンザー)まで一気に進撃したようだ。

 同時期、日米両軍は東シナ海~太平洋を結ぶ線上にある、安波茶や伊祖、宮城、屋冨祖、西原などでも激戦を展開していた。そして、宜野湾村の嘉数高地における攻防戦では終結が近づきつつあり、前田高地(ハクソー・リッジ)では闘いがピークを迎えつつあった。

メイクマンの屋上から見たキャンプキンザー。基地を削って走る道路が、2018年3月に開通した県道浦添西原線(港川道路)。写真手前の樹林には、道路に沿う形でシリン川(小川)が流れ、斜面に造られたいくつもの壕が残っている。写真中央の丘がライアン高地

 キャンプ・キンザーでは、かつての丘陵地隊も今は削られ、形を変えているが、日本軍の機関銃陣地が配置されていたライアン高地は、まだ形をとどめているようだ。ここでは地下にトンネルが張り巡らされ、頑強な蜂の巣のような防御施設だったとされる。そして、日本軍第62師団第64旅団の独立歩兵第21大隊、2個中隊の兵士600人と、数百人のウチナーンチュが守りを固めていた。

琉球ダイハツの西側の森に沿って、いくつも残る壕の跡
壕を見学する参加者。80代の方も元気に参加し、若い女性の姿を多数見かけるなど、みなさんの関心も高かった
アイテムポケット。ドリーネ(石灰岩がすり鉢状に削られた所)から続く、川底が枯れたような場所。キャンプキンザーの廃棄物なのか、コンクリート片なども多く散らばっている
デッドホース(死馬)渓谷。日本軍が軍馬を避難させていたと思われる場所。岩陰に残る黒く焼けた跡は、米軍の火炎放射器のせいと思っていたが、『沖縄 日米最後の戦闘』には、4月21日の攻撃に失敗した米軍の第3大隊K中隊が、負傷兵を洞窟に隠して後退した翌朝、日本兵が手榴弾や松明を洞窟に投げ込んで負傷兵を追い出し射殺・窒息死させたとあるので、その焼け跡なのかもしれない
最後に訪れた、米軍がポッター尾根と呼んだ付近に残る戦前の墓。横に流れるような爆発痕、弾痕があることから、至近距離で破裂したのではないかということだった。

 資料によると、アイテムポケットでは特に4月25日から26日にかけて、闘いがピークを迎えたようだ。

 25日にライアン高地に到達した米兵31人は、20分間の戦闘で31人の日本兵を殺害する。彼らには平均6発の銃弾しか残っていない状態だったというが、支援を受けて奮戦し、26日の激戦を制して、夜までにアイテ・ポケットを制圧する。

 そのなかには、日本兵10人を射殺した海兵隊員や、仲間の負傷に激怒して日本軍陣地に突入し、穴から穴へ走りながら日本兵を殺害した隊員の話なども紹介されている。さまざまな闘いが数えきれないほどあり、そして幾多の兵士が死傷している。

 多くの若者が兵士として戦場に送られ、死を迎え、生き残った。言うまでもなく闘った兵士一人一人には名前があり、家族があり、夢や希望があったはずだ。生身の個人がそこにいたことを、改めて思う。

 今となってはその多くは忘れられようとしているが、私たちの今は、彼らの闘いの延長上にある。愛国者を讃えよと言うのではない。ただ、名も知られないまま消えた命が、数知れずあった事実を忘れてはならないと、今更ながら思うのである。

<三嶋>

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摩文仁のフィールドワークに参加して

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 平和祈念資料館友の会が行った、「沖縄戦終焉の地 摩文仁丘陵の深部を行く」というフィールドワークに参加したので、ご報告。

 体力のない人や子供の参加が除かれ、ヘルメット・手袋着用などの条件が付けられたが、それも仕方がないと思われるほど険しいコースだったが、たいへん有意義であった。戦後、ほとんど人が入ったことがないという場所を歩くという、貴重な体験をすることが出来たし、この地で生き残った方の体験を聞き取った方の話を聞くこともでき、充実した1日となった。

 草刈りやコース設定、資料の準備など、準備段階の苦労を考えると、友の会事務局長の仲村真さんや、関係者の苦労は大変だっただろうと想像する。みなさんに感謝である。

南冥の塔の奥から密林に入り、師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいた壕などを訪ね、崖を登って摩文仁集落の畑に出るコース
1961年7月撮影(沖縄県県公文書館)。南冥の塔は1954年9月14日、ハワイの二世兵士・山本達雄氏が、戦死者を悼み自費で建立。1万2千柱が弔われている
(琉球新報1977.6.25朝刊)
大きな琉球石灰岩が入り組んでいる地形で、足場が悪く、アップダウンを繰り返すコース。まとわり付く草木を払い除けながら進むと、あちこちに潜り込めるような隙間が見える。
事前に友の会の人たちが見つけていた砲弾の破片

 砲弾はまさに鉄の塊である。それが破裂して不規則に飛び散り、燃えながら飛んでくるのである。展示会などで、破片を持ったことがある人もいるかと思うが、予想を超える重量に驚いたのではないだろうか。

暗闇の中で、78年の時を重ねた壺やビン、クシ、靴底などの破片が生々しく迫る
数メートル下がった岩の割れ目から、身を縮めて入った洞穴。戦火に追われた住民や、
日本軍の兵士が潜んでいたのだろうか
師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいたとされる壕。あまり見たことがない様な、大きな琉球石灰がいくつもそそり立つ間に、ポッカリと出来た空間で休息し昼食を取った
最後の関門。30メートルほどの崖を上ると、集落の崖下墓(按司墓?)がある場所に出る。そして自然に出来たと思われる「通り穴」を抜けると、ようやく地表に戻った気分である

 「通り穴」を抜けた斜面にある1メートルほどの岩は、学徒隊の友人をそこで亡くした方が、よく弔いに訪れていたという話を聞く。

 負傷して動けなくなった友人を担いてここまで来たが、手榴弾を渡したまま別れ、背後で自決する爆発音を聞いたことから、戦後もずっと苦しんでいたとのこと。ある時には、蝶々がまとわりついて離れなかったそうで、これは友人の魂が還ってきたと語っていたそうである。

 帰宅して思い出したが、そういえば同じ様な話があったと調べたら、デール・マリッジという米国人が、『日本兵を殺した父』(原書房・2013年)という本の中でご本人を紹介していた。山田義邦という方である。

 著者のデール氏はボクとほぼ同じ年齢だが、沖縄戦でPTSD(心的外傷後ストレス)となった父親が死去したあと、父親が体験した沖縄戦を本格的に調べ始める。資料を集め、生き残っていた父親の中隊の戦友たちに会い、沖縄を訪れ、父親のPTSDの原因を突き止め、父親の追体験をしている。その中で前述の山田氏にも会い、話を聞いたのである。

 精神を壊した兵士の話は、シュガーローフの戦闘などで多く発生したというが、勝利者として母国に引き揚げたあとの人生にも、戦争が陰を落としていたということは、これまであまり省みられなかったと思う。 

 アメリカでさえそうだから、ましてや日本では相当の数の元兵士が苦しんでいたはずだ。今となっては遅すぎるのだが。戦争は兵士の家族まで壊すと改めて思う。

 貴重な体験をさせてもらい、いろんなことを考えさせられたフィールドワークであった。

<三嶋>

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