地域が助け合い、苦難を乗り越えてきた
2025年3月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
南風原町では以前、「津嘉山あるき」をおこなったことがあるものの、あまり馴染みがあるとはいえないため、今回、あらためて学ぼうと思い立ち、歩いてみることにした。
選んだのは、南風原文化センターがある喜屋武(キャン)である。
幸いなことに、地域をよく知る大城和喜さんに案内をお願いできたので、当日はいつにもまして楽しいなあるきとなった。
大城さんは、南風原文化センターの設立から関わり、長く館長を務められた方。当初から地域とのつながりを重視し、さまざまな事業や展示企画を住民目線で実施してきた。
住民参加の展示や、新鮮な切り口の提案などを実践してきたのは、大城さんとスタッフの意欲に加え、地域の協力があったからだろう。

地元の言葉に誇りとこだわりを持つ大城さんによると、喜屋武は「キャン」ではなく「チャン」と言うそうである。
「ちゃんと言ってね」と駄洒落も飛び出し、大城さんの語りに参加者も笑いが絶えなかったが、陸軍病院壕があった黄金山に登ると、当時の状況がしのばれ、みな神妙な面持ちとなった。
南風原陸軍病院壕は、全国で初めて文化財指定された戦争遺跡である。保存状態が良かった20号壕が、2007(平成19)年6月から一般公開され、山の北東側から入ることができるが、今回は時間の都合からパス。頂上周辺を歩いたあと、山の西側を降り、集落をめぐって、「飯上げの道」から帰るルートをとった。

黄金山頂上は、樹木が伸びて周囲を見渡すのは難しいが、見張りの兵士が配置されていたというから、当時は四方がよく見晴らせたのだろう。周辺には兵士が移動するために造られた通路が残り、爆発した穴や埋葬地などが確認できるという。戦場跡に立ち、当時の話を聞くだけで、緊迫した空気が今も漂っているような気分になる。
戦後、おびただしい数の人骨が散乱した山を、地元では「ガイコツ山」と呼んでいたという話が、リアリティをもって迫ってきた。

黄金森の一部をなす御嶽のある森から、西に下った一帯に、旧家群が広がっている。「飯上げの道」の南側に、「名護の殿」という拝所があるが、名護家も喜屋武のはじまりの頃にあった家だという。現在の中央公民館の後ろに広がる丘陵地から、南西部に広がりながら、ムラは発展したようだ。

学徒が命がけで往復した道。
「飯上げの道」では、一斗樽に詰めたご飯を、看護婦やひめゆり学徒が早朝と夕方、数百メートル離れたムラから山に運んでいた。
2名から4名ほどが、約100人分のご飯(約14kg)を入れた樽を担いだが、降り注ぐ砲弾を避けながら、暗い山道を登る運搬は容易ではなく、途中で、幾人もの人が命を落とした。
南風原陸軍病院では、女子学徒約200名の看護協力のもとで、傷病者を治療していたが、撤退の指示が出た5月25日には、収容中の患者2000名余を、軍医らが青酸カリや手榴弾で殺害・自決に追い込んだという話が伝えられる。
看護補助要員として動員された女子学徒は、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222名と、教師18名。学徒らが「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるのは、戦後、映画などで取り上げられるようになってからである。

喜屋武(チャン)の心意気を示す熱戦は、“ケンカ綱”とも呼ばれ広く知られる。2004年8月撮影。
現在の喜屋武は都市化が進み、かつて広がっていた農村の風景はほとんど目にすることができない。が、共同体意識は色濃く残り、綱引きや絣織などのような伝統行事、工芸の世界に今も反映されているという。
個人より集団で力を発揮するため、スポーツでも団体競技に強く、陸上競技のような個人競技には弱いという話も伝わる。
綱引きは現在、6月25日と26日に行われ、アガリ(東)とイリ(西)に分かれて引かれる。当日は、東の人々が公民館下で「ハーイヤ・ハーイヤ」と囃子はじめ、人数が揃ったところで東西の綱が寄せられ、カヌチ棒を入れて交互に引き合うこととなる。
西側の綱だけに枝綱が付けられ、東の綱にないのがユニークだが、東が高い位置になるため、ハンディをつけてバランスをとっているとされる。
しかし、綱引きの勝負にこだわり、多大なエネルギーを注ぎ込む喜屋武の人々のエネルギーは凄まじい。
勝負への執念とか、心意気を表す「綱のイカリ」という言葉があり、困難な状況に直面したときに役だつための、先人の思いが込められているという。先人への尊敬と感謝を忘れず、ムラに尽くそうとする人々の思いは、時を経てもなお変わらないのであろう。
戦争の悲惨や、戦後の困窮を乗り越えてきた地域の団結力は、今なお健在なのである。

<三嶋>

戦後史の一端を顧みる
2025年1月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
旧玉城村親慶原と旧佐敷村新里には、1946(昭和21)年7月から1949(昭和24)年7月までの約3年間、米軍政本部と沖縄民政府が置かれていた。
台風被害をきっかけに両者が那覇に移転すると、同地区は人口が急減するが、1951(昭和26)年には、米軍のCSGと呼ばれた知念補給基地(キャンプ知念)が設置されたため、本土復帰するまで、住民の多くはここで働くことが常態化した。
このCSG(混成サービス群)が、CIA(米国中央情報局)の基地であるとニューヨーク・タイムス紙が明らかにするのは、本土復帰直前の1971(昭和46)年だった。テレビや映画でよく登場するCIAという名を聞き、ギョッとする人は多いだろうが、この基地は事件や事故とは縁遠く、住民の多くはこの基地に好感を抱き、基地に依存した生活が形成されていた。

戦前までの親慶原は、静かな農村だった。首里などから移住した士族が開いたヤードゥイ(屋取)だったが、戦後になり環境は激変した。
米軍政本部と沖縄民政府、CSGが身近に形成され、その中で住民は生活をともにしてきたのである。現金収入がある暮らしは、他シマの人々から羨ましがられたようだ。
CSGは「沈黙の基地」と言われるほど騒音や犯罪と無縁であり、基地周辺に盛場が形成されることもなかった。基地では約600名の住民が働き、基地とは良好な関係が築かれていた。
ただ、秘密主義が貫かれた基地では、従業員は自分の職場しか見聞きできず、誰がどこで何をしているのか分からず、不気味な静けさが支配していたという。

CSGは、1951(昭和26)年から52(昭和27)年にかけ、作家・鹿地亘が誘拐された事件(キャノン事件)の中にも登場する。詳細は謎に包まれているが、松本清張の『日本の黒い霧』などによると、米ソが絡んだ謀略事件のなかで、CSGも舞台のひとつになったようだ。
鹿地亘は戦前、中国で共産党を支援した経験のある活動家だったが、キャノン少佐が率いる米軍の情報機関に誘拐され、約1年後に解放された。
その背景には、冷戦構造の中で繰り広げられたソ連・アメリカの情報戦があるようで、謀略の渦のなかで頻繁に監禁場所を変え、最後はCSGに送られたあと解放された。
事件は今も詳細不明だが、CIAの拠点のひとつだったCSGの存在と役割の一部が、うかがえる事件だったことは間違いない。


運動場跡の北東部には、米軍の大型機墜落の歴史も眠っている。
おそらくB29だと思われる「大型機」は、1955(昭和30)年4月28日午後、近くの山林に墜落。乗員全員が死亡し、洗濯中の主婦ら4人が負傷したという(1955.4.29 沖縄タイムス)。
同紙によると、墜落した飛行機は「B29のような大型機」で、馬天方面から久高島方面に向かっている途中墜落。炎は約3時間ほどで自然鎮火したとされるが、事故の重大さに比べて新聞紙面の扱いが驚くほど小さく、そのことに二重の驚きを覚えた。当時の米軍による、報道規制の厳しさがうかがえるようである。

親慶原は、わずかな期間とはいえ沖縄の中心的役割を果たした地域である。そこではさまざまな人々が集まり、多くの出来事が起こり、消えていった。今ではよく分からないことも多いが、そこで見えてくる当時の人々の姿は、輝いている。
混乱の時代を必死で生きる人々は、時代に翻弄されながらも、家族や地域を守り、共に生を紡いでいただろう。そんな人々の労苦や想いは、今を生きるわれわれに受け継がれているのだろうか。
時代の曲がり角に来ているような思いに駆られる昨今、戦後を生き抜いた人たちのエネルギーや逞しさが、ここでもいっそう眩しく感じられたのである。

<三嶋>

今も情熱は冷めやらず
2024年12月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「復帰前」、旧具志川村(現うるま市)昆布では、米軍による土地接収に対する闘争が繰り広げられた。
以前から、この昆布の土地闘争は知っていたが、足を踏み込むきっかけがなかった。しかし、「天願あるき」をやったあと、その隣に位置する昆布に入るにはいいタイミングではないかと思い、公民館を訪ねてみることにした。
すると、闘争に関わっていた佐々木未子さんが案内するということになり、ほとんどおまかせ状態で解説を頼むこととなった。
佐々木さんは、昆布で組織された「土地を守る会」の会長、佐久川長正さんの娘。高校時代から反対運動に関わり、伊江島の阿波根昌鴻さんなどと交流しながら、闘ってきた人だ。米軍に怯むことなく相対し、19歳のときにはその後、闘争の場でよく歌われた歌、「一坪たりともわたすまい」を作詞したことでも知られている。
当日は公民館で佐々木さんの概略を聞いたあと、現場に移動して闘争小屋の跡地などを訪ねた。佐々木さんは終始熱く当時を語り、理不尽な米軍に怒るその姿に参加者は惹きつけられた。


佐々木さんによれば、米軍は、天願のキャンプコートニーと天願桟橋の一体化を計画していたという。したがって、その間にある昆布の黙認耕作地(24000坪)が、邪魔だったのである。
しかし、示された土地の借地料は、1坪コーラ1本分の10セント。キビ作に追いつく額ではなく、土地を守り抜こうと決意した39人の地主たちが立ち上がった。彼らは「土地は農民の命だ」と体を張り、「土地を守る会」を結成し、米軍に立ち向かったのである。
地域には戦争で夫を亡くした未亡人も多かっただけに、闘争は生活権をかけた闘いという認識が広がり、昆布だけではなく具志川村全体が米軍に立ち向かった。
米軍にすれば、24号線(現県道75号線)沿いにある接収予定地が、一般の目に触れやすいため、実力行使をためらったのではないかと思われるが、1966(昭和41)年12月には、天願桟橋から直接上陸してきたベトナム帰還兵と、闘争小屋に詰めていた若い連中との間で喧嘩が発生した。
そして、石を持った米兵が集団で襲撃する事態となり、咄嗟に男達を小屋の裏から逃した後に女性たちが残った。女性たちだけの様子を見て米兵の集団はたじろいだものの、旗を折るなどの蛮行を行なった。たいへんな恐怖であり、忘れられないと佐々木さんが語る。

1971(昭和46)年7月19日。(写真:沖縄県公文書館)

きちんと整備された土地は綺麗だが、張り巡らされフェンスのなかに住民が入ることはできない。

昆布の土地闘争は、1966(昭和41)年1月から1971(昭和46)年6月まで続けられ、沖縄で唯一、米軍に計画を諦めさせて勝利した闘いである。
約5年半におよぶ闘いの間、住民たちは闘争小屋を建て、座り込みを続けて米軍に立ち向かい、勝利を勝ち取った。
「復帰」のあとも続く米軍との軋轢は、簡単に終わりそうにないが、世界中が右寄りに傾く今だからこそ、昆布の闘いを胸に刻み、糧にする必要があろう。屈服することなく、強大な敵に立ち向かった佐々木さんたちの闘いをみて、自分たちの覚悟が試されていると感じた1日であった。

<三嶋>

移民の町をあるく
2024年11月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今回の「金武・並里あるき」は、地元史を研究し、案内ボランティアなどもされている仲地暁さんにガイドをお願いし、特に當山久三に焦点をあてたものとなった。
よく知られているように、金武は移民の町である。
1899(明治32)年に、當山久三がハワイ移民を送り出して以来、多くのウチナーンチュが海を渡ったが、その先駆けとなった地が彼の出身地・金武なのである。
そのこともあって当日は、當山久三の像がある役場裏の山に集まり、東にすすんで「オランダ森」や當山の生家跡を訪ね、大川(ウッカガー)までのコースとなった。
しかし、当日の天気は朝から雨模様。
「晴れ男」の小生の神通力も通じず、崩れた天気を恨んだが、何とか予定のコースを歩き、胸を撫で下ろした。

當山紀年館は、當山久三の功績を記念し、1935(昭和10)年建設されている。県内でも数少ないコンクリート建造物で、昭和期の沖縄を代表する、地元出身の建築家・大城龍太郎が設計した。
しかし、長く放置されていたため、取り壊し案も出ていたというが、有志が立ち上がって保存が決定し、立派な展示室に生まれ変わったものである。

写真:沖縄県公文書館蔵
紀年館の前にある當山久三の像は、彼の功績を記念して1931(昭和6)年に建立された。戦時中には金属回収のため撤去されたが、1961(昭和36)年に再建。写真はその時のものである。
写真にあるように、主席が来たり、子どもも集まるほど当日はにぎわったようだが、意外にも、當山久三は地元ではあまり理解されていない、と案内の仲地さん。
理由はよく分からないが、新しい考えに目覚め、社会を変革しようと立ち上がる人物は、古い体制にある人たちにとっては、受け入れられなかったのかもしれない。
當山は、自由民権家の謝花昇と活動をともにし、その紹介で、足尾鉱毒問題を世に問いかけた田中正造とも、交流があったという。社会変革の運動を経て行き着いた先が、移民だったのかもしれない。
それは「ソテツ地獄」を逃れる手段だったのか、新天地への雄飛だったのかよく分からないが、複数の謎がまだ解明されない人物として、當山久三は興味深い。

沖縄戦がはじまり、恩納・安富祖・喜瀬武原から金武村に侵入した米軍は、1945(昭和20)年4月5日一帯を占領。5月6日には、米海軍建設大隊が金武飛行場建設を開始した。


写真:沖縄県公文書館蔵
金武小学校は、沖縄初の鉄筋コンクリート2階建て校舎。熊本出身の清村勉が設計し、1925(大正14)年8月に完成したものである。
10・10空襲後はアダンの葉などで擬装されていたが、翌1945(昭和20)年3月24日に周辺が爆撃を受け、学校周辺の数十戸の家屋は焼失したという。

オランダ森の入口近くには、松岡政保の生家跡を示す石碑がある。松岡は金武出身のハワイ移民体験者。行政職や企業経営を経て保守政治家となり、1964(昭和39)年、任命されて行政主席となった。
英語が堪能なこともあって、米軍に近い人物だったと思われているが、主席公選を求める声が高まるなか、就任の際に「最後の任命主席でありたい」と語り、話題を集めたエピソードが残るように、ウチナーンチュとしてのアイデンティティは失わなかったのだろうか。

1853年5月26日、浦賀に姿を見せる前に沖縄を訪れたペルリ艦隊の調査隊は、石川から金武に入り、オランダ森で宿営した。
その後、北に位置する漢那を経て西海岸に向かったが、金武に留まった際の話のひとつとして、『ペルリの琉球訪問記』に、「琉球の海岸の如き美しき景色を未だかつて見たことがない。また琉球人の智力の鋭いことは勿論、服装や風貌は、はるかに支那人よりはよく、かつ上品できまりよい所があった」と書かれているという。

写真:沖縄県公文書館蔵
写真は金武でもっとも知られる名勝のひとつ、大川(ウッカガー)と思われる。渇水の時にも渇れたことがない、といわれるほどの豊かな水量を誇り、地域の人々の暮らしを支え、見守って来た場所である。

金武の村は、豊かな耕地や豊富な水に恵まれた農業地帯だったが、戦争を経て環境が激変した。68%の土地が米軍の軍用地に接収され、1956(昭和31)年に米軍基地キャンプ・ハンセンが完成すると、「基地の街」と化したのである。
そして、実弾演習や基地がらみの事件・事故が繰り返され、今にいたるも何一つ解決に至っていないのは周知の事実だろう。
金武町にはハワイを目指した當山久三のほか、フィリピン移民の父ともいわれる大城孝蔵も生まれている。彼らが移民に託した精神は、子どもたちにも受け継がれるよう、現在の行政も力を入れているようだ。
しかし、その一方では、町には巨額な軍用地料が落ちてくるため、本音では基地返還を望まない軍用地主が多いという町の現実がある。
大国のパワーバランスの上に立たされ、常に複雑な思惑が入り乱れる沖縄ならではの事だが、シンドイ生活からの脱出を願った移民も、ぬるま湯でいいとは思わなかったのではないか。
しかし、「武士は食わねど高楊枝」と強がりを言うと、「武士じゃねーし」と返って来た。

<三嶋>

戦後が続く天願を歩いて
2024年10月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
10月に行った「天願あるき」実施報告。
台風接近で、9月の散策が出来なかったせいか、いつも以上に参加者が多く、配布マップが足りなくなる嬉しい悲鳴。
また、区長をはじめとする地元の方々の参加も多く、かつてのエピソードなどで盛り上がり、楽しく歩くことができた。地域の皆様に感謝である。
地区では丁度、月に一度の大掃除の日だったため、人手を借りて迷惑をかけたが、それにもかかわらず親切に対応していただき、恐縮した次第。そのこともあって、天願は開放的で、明るい地域だなあという印象を強く受けた。


天願自治会発行『常しえに輝く天願の彩~写真に見る天願の今・昔~』より。
天願は戦後沖縄の、出発点のひとつとなった場所である。
地域の歴史は古く、戦前までのどかな農村だったが、戦時中から米軍が広範囲にわたって占領し、現在のキャンプ・コートニーに引き継がれている。
戦後、天願の人々が、収容所からムラに戻れるようになったのは、1945(昭和20)年10月以降だが、すでに軍の管理下に置かれた集落に、住民はバスなしでは自由に出入りすることは出来なかった。
1947(昭和22)年には、軍で働く人たちのための住居を百軒つくることが許され、「百軒部落」と呼ばれた集落に、11月2日から人々が移り住んだ。





現在、天願地区にある米軍基地は、字の70パーセントほどを占めるという。戦前の集落は基地に取られたため、行事などで墓や御嶽に行く場合、役所の許可を得て入らなければならない煩わしさがある。
軍用地にまつわる話には借地料に関するものも絡むが、センシティブな事柄だけに、気軽に尋ねるのはためらわれた。米軍に対する抵抗・協調の意識が個人の中にも渦巻き、現在進行形なのだろうと想像したからである。
しかし、天願がどんな歴史を背負い、何があった場所なのかを受け取り、記録することも、沖縄の戦後史の一断面を、風化させることなく伝える一助になるだろう。
地元の方々の笑顔を思い浮かべながら、わずかではあっても沖縄の戦後史の一部を窺い知れたことに、感謝した次第である。

<三嶋>
