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戦後史の一端を顧みる

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 旧玉城村親慶原と旧佐敷村新里には、1946(昭和21)年7月から1949(昭和24)年7月までの約3年間、米軍政本部と沖縄民政府が置かれていた。

 台風被害をきっかけに両者が那覇に移転すると、同地区は人口が急減するが、1951(昭和26)年には、米軍のCSGと呼ばれた知念補給基地(キャンプ知念)が設置されたため、本土復帰するまで、住民の多くはここで働くことが常態化した。

 このCSG(混成サービス群)が、CIA(米国中央情報局)の基地であるとニューヨーク・タイムス紙が明らかにするのは、本土復帰直前の1971(昭和46)年だった。テレビや映画でよく登場するCIAという名を聞き、ギョッとする人は多いだろうが、この基地は事件や事故とは縁遠く、住民の多くはこの基地に好感を抱き、基地に依存した生活が形成されていた。

親慶原コミュニティーセンターで散策の前に地元の方と交流。

 戦前までの親慶原は、静かな農村だった。首里などから移住した士族が開いたヤードゥイ(屋取)だったが、戦後になり環境は激変した。

 米軍政本部と沖縄民政府、CSGが身近に形成され、その中で住民は生活をともにしてきたのである。現金収入がある暮らしは、他シマの人々から羨ましがられたようだ。

 CSGは「沈黙の基地」と言われるほど騒音や犯罪と無縁であり、基地周辺に盛場が形成されることもなかった。基地では約600名の住民が働き、基地とは良好な関係が築かれていた。

 ただ、秘密主義が貫かれた基地では、従業員は自分の職場しか見聞きできず、誰がどこで何をしているのか分からず、不気味な静けさが支配していたという。

親慶原の有名店、「チャーリー・レストラン」に架けられたCSGを描いた絵。アメリカの味を提供して親しまれてきた同店だが、近くで開店したコストコの影響を受け、店舗営業を閉鎖した。

 CSGは、1951(昭和26)年から52(昭和27)年にかけ、作家・鹿地亘が誘拐された事件(キャノン事件)の中にも登場する。詳細は謎に包まれているが、松本清張の『日本の黒い霧』などによると、米ソが絡んだ謀略事件のなかで、CSGも舞台のひとつになったようだ。

 鹿地亘は戦前、中国で共産党を支援した経験のある活動家だったが、キャノン少佐が率いる米軍の情報機関に誘拐され、約1年後に解放された。

 その背景には、冷戦構造の中で繰り広げられたソ連・アメリカの情報戦があるようで、謀略の渦のなかで頻繁に監禁場所を変え、最後はCSGに送られたあと解放された。

 事件は今も詳細不明だが、CIAの拠点のひとつだったCSGの存在と役割の一部が、うかがえる事件だったことは間違いない。

コミュニティーセンターの東側にある、小山の頂上に置かれた「お宮」。1951(昭和26)年に建てられた区の中心的拝所で、神に感謝する文言が英語と日本語で書かれていたためか(現在は消えかかっている)、かつてはここで礼拝を行う米兵もいたそうだ。
知念高校運動場跡の石碑。知念高校は4度の移転を強いられている。1945(昭和20)年11月に旧知念市志喜屋で開校するが、すぐ百名に移転し、約4カ月後の1946(昭和21)年4月、親慶原に移転。そして1952(昭和27)年2月18日、現在の与那原町に落ち着く。親慶原では約6年間開校していたが、復帰後初の県知事となる屋良朝苗が、1947(昭和27)年4月からここで校長を勤めていた。

 運動場跡の北東部には、米軍の大型機墜落の歴史も眠っている。

 おそらくB29だと思われる「大型機」は、1955(昭和30)年4月28日午後、近くの山林に墜落。乗員全員が死亡し、洗濯中の主婦ら4人が負傷したという(1955.4.29 沖縄タイムス)。

 同紙によると、墜落した飛行機は「B29のような大型機」で、馬天方面から久高島方面に向かっている途中墜落。炎は約3時間ほどで自然鎮火したとされるが、事故の重大さに比べて新聞紙面の扱いが驚くほど小さく、そのことに二重の驚きを覚えた。当時の米軍による、報道規制の厳しさがうかがえるようである。

親慶原の集落内は、昔ながらの細い路地が入り組み、初めてだと車の運転も少し難しい。

 親慶原は、わずかな期間とはいえ沖縄の中心的役割を果たした地域である。そこではさまざまな人々が集まり、多くの出来事が起こり、消えていった。今ではよく分からないことも多いが、そこで見えてくる当時の人々の姿は、輝いている。

 混乱の時代を必死で生きる人々は、時代に翻弄されながらも、家族や地域を守り、共に生を紡いでいただろう。そんな人々の労苦や想いは、今を生きるわれわれに受け継がれているのだろうか。

 時代の曲がり角に来ているような思いに駆られる昨今、戦後を生き抜いた人たちのエネルギーや逞しさが、ここでもいっそう眩しく感じられたのである。

<三嶋>

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今も情熱は冷めやらず

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 「復帰前」、旧具志川村(現うるま市)昆布では、米軍による土地接収に対する闘争が繰り広げられた。

 以前から、この昆布の土地闘争は知っていたが、足を踏み込むきっかけがなかった。しかし、「天願あるき」をやったあと、その隣に位置する昆布に入るにはいいタイミングではないかと思い、公民館を訪ねてみることにした。

 すると、闘争に関わっていた佐々木未子さんが案内するということになり、ほとんどおまかせ状態で解説を頼むこととなった。

 佐々木さんは、昆布で組織された「土地を守る会」の会長、佐久川長正さんの娘。高校時代から反対運動に関わり、伊江島の阿波根昌鴻さんなどと交流しながら、闘ってきた人だ。米軍に怯むことなく相対し、19歳のときにはその後、闘争の場でよく歌われた歌、「一坪たりともわたすまい」を作詞したことでも知られている。

 当日は公民館で佐々木さんの概略を聞いたあと、現場に移動して闘争小屋の跡地などを訪ねた。佐々木さんは終始熱く当時を語り、理不尽な米軍に怒るその姿に参加者は惹きつけられた。

反対闘争の現場となった場所から天願桟橋をのぞみ、当時を語る佐々木未子さん。
当時からほとんど姿を変えていないように見える天願桟橋。背後に石川、金武が見える。

 佐々木さんによれば、米軍は、天願のキャンプコートニーと天願桟橋の一体化を計画していたという。したがって、その間にある昆布の黙認耕作地(24000坪)が、邪魔だったのである。

 しかし、示された土地の借地料は、1坪コーラ1本分の10セント。キビ作に追いつく額ではなく、土地を守り抜こうと決意した39人の地主たちが立ち上がった。彼らは「土地は農民の命だ」と体を張り、「土地を守る会」を結成し、米軍に立ち向かったのである。

 地域には戦争で夫を亡くした未亡人も多かっただけに、闘争は生活権をかけた闘いという認識が広がり、昆布だけではなく具志川村全体が米軍に立ち向かった。

 米軍にすれば、24号線(現県道75号線)沿いにある接収予定地が、一般の目に触れやすいため、実力行使をためらったのではないかと思われるが、1966(昭和41)年12月には、天願桟橋から直接上陸してきたベトナム帰還兵と、闘争小屋に詰めていた若い連中との間で喧嘩が発生した。

 そして、石を持った米兵が集団で襲撃する事態となり、咄嗟に男達を小屋の裏から逃した後に女性たちが残った。女性たちだけの様子を見て米兵の集団はたじろいだものの、旗を折るなどの蛮行を行なった。たいへんな恐怖であり、忘れられないと佐々木さんが語る。

知花弾薬庫で毒ガスを積み、天願桟橋に向かう米軍車両。
1971(昭和46)年7月19日。(写真:沖縄県公文書館)
天願と昆布との境にあり、基地に囲まれた道を海岸に向かって進む。
きちんと整備された土地は綺麗だが、張り巡らされフェンスのなかに住民が入ることはできない。
桟橋近くにある砂浜。以前はカニやアサリ、ナチョーラ(海人草・虫下しとして服用した)を捕ったり、岩にしがみつき、濡れながら天然のヒジキを捕っていたよ、と思い出も聞いた。

 昆布の土地闘争は、1966(昭和41)年1月から1971(昭和46)年6月まで続けられ、沖縄で唯一、米軍に計画を諦めさせて勝利した闘いである。

 約5年半におよぶ闘いの間、住民たちは闘争小屋を建て、座り込みを続けて米軍に立ち向かい、勝利を勝ち取った。

 「復帰」のあとも続く米軍との軋轢は、簡単に終わりそうにないが、世界中が右寄りに傾く今だからこそ、昆布の闘いを胸に刻み、糧にする必要があろう。屈服することなく、強大な敵に立ち向かった佐々木さんたちの闘いをみて、自分たちの覚悟が試されていると感じた1日であった。

<三嶋>

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移民の町をあるく

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 今回の「金武・並里あるき」は、地元史を研究し、案内ボランティアなどもされている仲地暁さんにガイドをお願いし、特に當山久三に焦点をあてたものとなった。

 よく知られているように、金武は移民の町である。

 1899(明治32)年に、當山久三がハワイ移民を送り出して以来、多くのウチナーンチュが海を渡ったが、その先駆けとなった地が彼の出身地・金武なのである。

 そのこともあって当日は、當山久三の像がある役場裏の山に集まり、東にすすんで「オランダ森」や當山の生家跡を訪ね、大川(ウッカガー)までのコースとなった。

 しかし、当日の天気は朝から雨模様。

 「晴れ男」の小生の神通力も通じず、崩れた天気を恨んだが、何とか予定のコースを歩き、胸を撫で下ろした。

リニューアルなった當山紀年館で、地元の嘉数さんから、當山久三の資料や移民に関する情報を聞く。(撮影:佐藤)

 當山紀年館は、當山久三の功績を記念し、1935(昭和10)年建設されている。県内でも数少ないコンクリート建造物で、昭和期の沖縄を代表する、地元出身の建築家・大城龍太郎が設計した。

 しかし、長く放置されていたため、取り壊し案も出ていたというが、有志が立ち上がって保存が決定し、立派な展示室に生まれ変わったものである。

大田政作主席も参加して行われた、當山久三の銅像再建除幕式。1961(昭和36)年9月30日。
写真:沖縄県公文書館蔵

 紀年館の前にある當山久三の像は、彼の功績を記念して1931(昭和6)年に建立された。戦時中には金属回収のため撤去されたが、1961(昭和36)年に再建。写真はその時のものである。

 写真にあるように、主席が来たり、子どもも集まるほど当日はにぎわったようだが、意外にも、當山久三は地元ではあまり理解されていない、と案内の仲地さん。

 理由はよく分からないが、新しい考えに目覚め、社会を変革しようと立ち上がる人物は、古い体制にある人たちにとっては、受け入れられなかったのかもしれない。

 當山は、自由民権家の謝花昇と活動をともにし、その紹介で、足尾鉱毒問題を世に問いかけた田中正造とも、交流があったという。社会変革の運動を経て行き着いた先が、移民だったのかもしれない。

 それは「ソテツ地獄」を逃れる手段だったのか、新天地への雄飛だったのかよく分からないが、複数の謎がまだ解明されない人物として、當山久三は興味深い。

1945(昭和20)年4月26日の金武の町並み。写真:沖縄県公文書館蔵

 沖縄戦がはじまり、恩納・安富祖・喜瀬武原から金武村に侵入した米軍は、1945(昭和20)年4月5日一帯を占領。5月6日には、米海軍建設大隊が金武飛行場建設を開始した。

沖縄戦がまだ終結をみない、1945(昭和20)年6月11日に撮影された金武観音寺。寺の周りに張り巡らされた有刺鉄線が確認できるが、寺にある財宝を狙って侵入する、米兵を防ぐためのものという。写真:沖縄県公文書館蔵
1946(昭和21)年12月12日に撮影された、戦災の傷が残る金武小学校校舎。
写真:沖縄県公文書館蔵

 金武小学校は、沖縄初の鉄筋コンクリート2階建て校舎。熊本出身の清村勉が設計し、1925(大正14)年8月に完成したものである。

 10・10空襲後はアダンの葉などで擬装されていたが、翌1945(昭和20)年3月24日に周辺が爆撃を受け、学校周辺の数十戸の家屋は焼失したという。

オランダ森入り口。あいにくの雨の中、傘をさして話を聞く。(撮影:佐藤)

 オランダ森の入口近くには、松岡政保の生家跡を示す石碑がある。松岡は金武出身のハワイ移民体験者。行政職や企業経営を経て保守政治家となり、1964(昭和39)年、任命されて行政主席となった。

 英語が堪能なこともあって、米軍に近い人物だったと思われているが、主席公選を求める声が高まるなか、就任の際に「最後の任命主席でありたい」と語り、話題を集めたエピソードが残るように、ウチナーンチュとしてのアイデンティティは失わなかったのだろうか。

オランダ森に立つ松岡政保銅像。

 1853年5月26日、浦賀に姿を見せる前に沖縄を訪れたペルリ艦隊の調査隊は、石川から金武に入り、オランダ森で宿営した。

 その後、北に位置する漢那を経て西海岸に向かったが、金武に留まった際の話のひとつとして、『ペルリの琉球訪問記』に、「琉球の海岸の如き美しき景色を未だかつて見たことがない。また琉球人の智力の鋭いことは勿論、服装や風貌は、はるかに支那人よりはよく、かつ上品できまりよい所があった」と書かれているという。

開設した水道施設を視察するキャラウェイ高等弁務官。1962(昭和37)年11月17日。
写真:沖縄県公文書館蔵

 写真は金武でもっとも知られる名勝のひとつ、大川(ウッカガー)と思われる。渇水の時にも渇れたことがない、といわれるほどの豊かな水量を誇り、地域の人々の暮らしを支え、見守って来た場所である。

キャンプ・ハンセン米軍基地。1998(平成10)年

 金武の村は、豊かな耕地や豊富な水に恵まれた農業地帯だったが、戦争を経て環境が激変した。68%の土地が米軍の軍用地に接収され、1956(昭和31)年に米軍基地キャンプ・ハンセンが完成すると、「基地の街」と化したのである。

 そして、実弾演習や基地がらみの事件・事故が繰り返され、今にいたるも何一つ解決に至っていないのは周知の事実だろう。

 金武町にはハワイを目指した當山久三のほか、フィリピン移民の父ともいわれる大城孝蔵も生まれている。彼らが移民に託した精神は、子どもたちにも受け継がれるよう、現在の行政も力を入れているようだ。

 しかし、その一方では、町には巨額な軍用地料が落ちてくるため、本音では基地返還を望まない軍用地主が多いという町の現実がある。

 大国のパワーバランスの上に立たされ、常に複雑な思惑が入り乱れる沖縄ならではの事だが、シンドイ生活からの脱出を願った移民も、ぬるま湯でいいとは思わなかったのではないか。

 しかし、「武士は食わねど高楊枝」と強がりを言うと、「武士じゃねーし」と返って来た。

<三嶋>

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戦後が続く天願を歩いて

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 10月に行った「天願あるき」実施報告。

 台風接近で、9月の散策が出来なかったせいか、いつも以上に参加者が多く、配布マップが足りなくなる嬉しい悲鳴。

 また、区長をはじめとする地元の方々の参加も多く、かつてのエピソードなどで盛り上がり、楽しく歩くことができた。地域の皆様に感謝である。

 地区では丁度、月に一度の大掃除の日だったため、人手を借りて迷惑をかけたが、それにもかかわらず親切に対応していただき、恐縮した次第。そのこともあって、天願は開放的で、明るい地域だなあという印象を強く受けた。

キャンプ・コートニーのゲート1付近から見た天願集落。天願の集落は旧具志川市の北側に位置する。南側には、うるま市役所などがある「みどり町」が隣接する。もともと天願地区で、1994(平成6)年に分離し、急速に都市化が進んでいるエリアである。
米軍が上陸する直前、1945(昭和20)年2月に撮影された天願集落。旧天願川の川筋と、そこに架かる天願橋や茶木根橋のほか、家並みもまだしっかりと残っているのが分かる。
天願自治会発行『常しえに輝く天願の彩~写真に見る天願の今・昔~』より。

天願は戦後沖縄の、出発点のひとつとなった場所である。

 地域の歴史は古く、戦前までのどかな農村だったが、戦時中から米軍が広範囲にわたって占領し、現在のキャンプ・コートニーに引き継がれている。

 戦後、天願の人々が、収容所からムラに戻れるようになったのは、1945(昭和20)年10月以降だが、すでに軍の管理下に置かれた集落に、住民はバスなしでは自由に出入りすることは出来なかった。

 1947(昭和22)年には、軍で働く人たちのための住居を百軒つくることが許され、「百軒部落」と呼ばれた集落に、11月2日から人々が移り住んだ。

天願川をまたぎ、県道75線に架かる現在の天願橋。安慶名十字路を北上し、この橋を渡るとすぐ左が天願集落。右手に見える森林から先がキャンプ・コートニー。
天願川の南にある、かつての旧闘牛場(現在はゲートボール場)近くに置かれた石(コンクリート)。戦後、この場所に出来た天願小学校で、旗やポールなどを立てたと思われるもので、「天願校」の文字が読み取れる。参加者のなかには、ここの小学校に通っていたという女性たちもいて、当時の話を聞くことができた。
ターチ橋と呼ばれていた旧天願橋で、案内役をお願いした照屋さんから説明を聞く参加者。橋の下には、今もかつての天願川の流れがあり、河川改修で真っ直ぐになった天願川に注いでいる。すぐそばにある、かつてティーチ橋と呼ばれた茶木根橋とともに、二つの橋はムラの名所だった。しかし、旧天願橋は、米軍の侵攻を阻止するため日本軍が爆破した。現在は、平和教育の場として利用する小中学校が多いようだ。
集落内を走る通りのあちこちで目にした、英語を使った注意書き。米兵は基地の中では交通ルールを守るが、基地の外ではそうでもなくて、危険運転も少なくないそうだ。
天願集落の北から、キャンプ・コートニーのPXゲートに通じる道路。道路の右側にはモータープールがあり、道路沿いにはフェンスが続いている。周辺には、戦時中までクムイ(溜池)や製糖工場があったが、現在は広大な米軍基地と、牧草が生えた土地が見られるだけである。

 現在、天願地区にある米軍基地は、字の70パーセントほどを占めるという。戦前の集落は基地に取られたため、行事などで墓や御嶽に行く場合、役所の許可を得て入らなければならない煩わしさがある。

 軍用地にまつわる話には借地料に関するものも絡むが、センシティブな事柄だけに、気軽に尋ねるのはためらわれた。米軍に対する抵抗・協調の意識が個人の中にも渦巻き、現在進行形なのだろうと想像したからである。

 しかし、天願がどんな歴史を背負い、何があった場所なのかを受け取り、記録することも、沖縄の戦後史の一断面を、風化させることなく伝える一助になるだろう。

 地元の方々の笑顔を思い浮かべながら、わずかではあっても沖縄の戦後史の一部を窺い知れたことに、感謝した次第である。

<三嶋>

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海中道路の先にある宮城・上原集落をあるく

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 8月の定例あるきは、かつての与那城村(現うるま市)の宮城島。

 この島は、小生が来沖した1974(昭和49)年に初めて連れて行ってもらったところである。それがちょうど50年前ということに気づいて、年の経つ早さに驚かされたのだが、島の裏側にある集落の佇まいや、細い坂道がうねうねと続く姿から、ずいぶん遠くに来たような、うら寂しい気持ちになった(島の人には失礼だが)ことは、薄らと覚えている。

シヌグ堂展望台から見た上原集落。左側奥に伊計島が見え、手前に池味湾が見える
電柱がずらりと並ぶ海中道路。左に平安座島、右に浜比嘉島が見える。
CTS(石油備蓄基地)闘争は、地域に禍根と環境破壊を残して終わていた。1995(平成7)年5月

 そのごこの地には何度も来たが、辺土名島・宮城島・伊計島と走るとつい宮城島をスルーしてしまう事が多く、立ち寄った記憶も乏しい。

 そのため、あらためて宮城島をあるきながら、知らない場所を訪ね、地元の人の話を聞いてみたいと考え、小学校跡地に建つコミュニティーセンターに行き、区長さんに話を聞いてみたのである。

 すると、地元の有志で観光案内の組織をつくっているというので、ガイドをお願いし、一緒に宮城・上原集落を散策してみたのである。

コミュニティーセンター敷地に建つ、宮城小学校閉校記念碑。
宮城小学校と隣の宮城中学校は、2012(平成24)年廃校となった。現在、島の子どもたちは平安座島にある、「うるま市立彩橋(あやはし)小中学校」に通っている。
周辺4つの島の小中学校はすべて廃校となり、地域の学校は彩橋小中学校だけである。
宮城集落。中央右の大きな施設が宮城コミュニティーセンター。
上原・宮城の公民館も老朽化のためここに移動しているため、二人の区長が同じ建物にいる。
宮城集落内。たいへん暑い日が続く毎日である。
家の中に引きこもっているのが賢明だ。通りに人影もない。
スンチナーと呼ぶ広場の展望台から見た池味集落と漁港。
海中道路が建設される以前は、この入江の右側にある桟橋(写真には写っていない)から、
与勝半島の屋慶名に渡る船が出入りした。
上原のメインストリート(?)に建つ新里商店。
店の前を西に向かい、坂道を登り切ると、
島とは思えないような広い耕作地がある高台(イーバル)に出る
宮城島で一番有名と思われるヤンガー。
ムラのカーには水量に応じて百千萬億の名が割り振られ、2番目に水量が多いこのカーは「萬川」とも呼ばれた。確かに水量が豊富で澄み切っており、まとまった雨がしばらく降っていないこの日も、溢れるほどの水が下のグムイ(池)に流れていた。
集落よりも高い、山の中腹にあるハルガー。
ムラで1番の水量があることから「億川」とも呼ばれた。ここから小学校や集落に水が引かれ、タンクに溜められ、簡易水道として利用されていた。

 最近は、コロナ禍の反動とも思えるほど沖縄中が喧しく、あちこちで観光客の姿を目にしない日はないほどだが、海中道路を渡った島々では、表の通りから一歩中に入ると、昔ながらの静かでおだやかな風景が広がっていた。

 しかし、少子高齢化がすすむ昨今、島チャビ(離島苦)の悲哀を味わってきたこの地では、橋が架かって利便性が高まったものの人口減少が続き、空き家も増えている印象だ。

 「限界集落だよ」という言葉も聞いた。確かに、学校がなくなり、若者が家を離れた地域に取り残された高齢者は、どうしろというのだろう。

 政治や行政批判を繰り返してもラチが明かないが、厳しい環境のなかで生き抜いてきたシマの歴史や住民の気持ちを考えると、腹立たしさや悔しさ、悲しさ、諦めなど、割り切れない思いがフツフツと湧き上がる。

 ただ、コミュニティセンターに集って夏休みを過ごす地域の子供たちの駆け回る姿は、危機的状況を何度も乗り越えてきたであろう住民の血を受け継ぐものであり、そのバイタリティーや明るさに希望が見える思いがした。

 それは宮城島だけの話ではない。沖縄に住む誰にも当てはまる事ではないだろうか。

<三嶋>

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