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沖縄ある記
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戦後が続く天願を歩いて

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 10月に行った「天願あるき」実施報告。

 台風接近で、9月の散策が出来なかったせいか、いつも以上に参加者が多く、配布マップが足りなくなる嬉しい悲鳴。

 また、区長をはじめとする地元の方々の参加も多く、かつてのエピソードなどで盛り上がり、楽しく歩くことができた。地域の皆様に感謝である。

 地区では丁度、月に一度の大掃除の日だったため、人手を借りて迷惑をかけたが、それにもかかわらず親切に対応していただき、恐縮した次第。そのこともあって、天願は開放的で、明るい地域だなあという印象を強く受けた。

キャンプ・コートニーのゲート1付近から見た天願集落。天願の集落は旧具志川市の北側に位置する。南側には、うるま市役所などがある「みどり町」が隣接する。もともと天願地区で、1994(平成6)年に分離し、急速に都市化が進んでいるエリアである。
米軍が上陸する直前、1945(昭和20)年2月に撮影された天願集落。旧天願川の川筋と、そこに架かる天願橋や茶木根橋のほか、家並みもまだしっかりと残っているのが分かる。
天願自治会発行『常しえに輝く天願の彩~写真に見る天願の今・昔~』より。

天願は戦後沖縄の、出発点のひとつとなった場所である。

 地域の歴史は古く、戦前までのどかな農村だったが、戦時中から米軍が広範囲にわたって占領し、現在のキャンプ・コートニーに引き継がれている。

 戦後、天願の人々が、収容所からムラに戻れるようになったのは、1945(昭和20)年10月以降だが、すでに軍の管理下に置かれた集落に、住民はバスなしでは自由に出入りすることは出来なかった。

 1947(昭和22)年には、軍で働く人たちのための住居を百軒つくることが許され、「百軒部落」と呼ばれた集落に、11月2日から人々が移り住んだ。

天願川をまたぎ、県道75線に架かる現在の天願橋。安慶名十字路を北上し、この橋を渡るとすぐ左が天願集落。右手に見える森林から先がキャンプ・コートニー。
天願川の南にある、かつての旧闘牛場(現在はゲートボール場)近くに置かれた石(コンクリート)。戦後、この場所に出来た天願小学校で、旗やポールなどを立てたと思われるもので、「天願校」の文字が読み取れる。参加者のなかには、ここの小学校に通っていたという女性たちもいて、当時の話を聞くことができた。
ターチ橋と呼ばれていた旧天願橋で、案内役をお願いした照屋さんから説明を聞く参加者。橋の下には、今もかつての天願川の流れがあり、河川改修で真っ直ぐになった天願川に注いでいる。すぐそばにある、かつてティーチ橋と呼ばれた茶木根橋とともに、二つの橋はムラの名所だった。しかし、旧天願橋は、米軍の侵攻を阻止するため日本軍が爆破した。現在は、平和教育の場として利用する小中学校が多いようだ。
集落内を走る通りのあちこちで目にした、英語を使った注意書き。米兵は基地の中では交通ルールを守るが、基地の外ではそうでもなくて、危険運転も少なくないそうだ。
天願集落の北から、キャンプ・コートニーのPXゲートに通じる道路。道路の右側にはモータープールがあり、道路沿いにはフェンスが続いている。周辺には、戦時中までクムイ(溜池)や製糖工場があったが、現在は広大な米軍基地と、牧草が生えた土地が見られるだけである。

 現在、天願地区にある米軍基地は、字の70パーセントほどを占めるという。戦前の集落は基地に取られたため、行事などで墓や御嶽に行く場合、役所の許可を得て入らなければならない煩わしさがある。

 軍用地にまつわる話には借地料に関するものも絡むが、センシティブな事柄だけに、気軽に尋ねるのはためらわれた。米軍に対する抵抗・協調の意識が個人の中にも渦巻き、現在進行形なのだろうと想像したからである。

 しかし、天願がどんな歴史を背負い、何があった場所なのかを受け取り、記録することも、沖縄の戦後史の一断面を、風化させることなく伝える一助になるだろう。

 地元の方々の笑顔を思い浮かべながら、わずかではあっても沖縄の戦後史の一部を窺い知れたことに、感謝した次第である。

<三嶋>

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海中道路の先にある宮城・上原集落をあるく

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 8月の定例あるきは、かつての与那城村(現うるま市)の宮城島。

 この島は、小生が来沖した1974(昭和49)年に初めて連れて行ってもらったところである。それがちょうど50年前ということに気づいて、年の経つ早さに驚かされたのだが、島の裏側にある集落の佇まいや、細い坂道がうねうねと続く姿から、ずいぶん遠くに来たような、うら寂しい気持ちになった(島の人には失礼だが)ことは、薄らと覚えている。

シヌグ堂展望台から見た上原集落。左側奥に伊計島が見え、手前に池味湾が見える
電柱がずらりと並ぶ海中道路。左に平安座島、右に浜比嘉島が見える。
CTS(石油備蓄基地)闘争は、地域に禍根と環境破壊を残して終わていた。1995(平成7)年5月

 そのごこの地には何度も来たが、辺土名島・宮城島・伊計島と走るとつい宮城島をスルーしてしまう事が多く、立ち寄った記憶も乏しい。

 そのため、あらためて宮城島をあるきながら、知らない場所を訪ね、地元の人の話を聞いてみたいと考え、小学校跡地に建つコミュニティーセンターに行き、区長さんに話を聞いてみたのである。

 すると、地元の有志で観光案内の組織をつくっているというので、ガイドをお願いし、一緒に宮城・上原集落を散策してみたのである。

コミュニティーセンター敷地に建つ、宮城小学校閉校記念碑。
宮城小学校と隣の宮城中学校は、2012(平成24)年廃校となった。現在、島の子どもたちは平安座島にある、「うるま市立彩橋(あやはし)小中学校」に通っている。
周辺4つの島の小中学校はすべて廃校となり、地域の学校は彩橋小中学校だけである。
宮城集落。中央右の大きな施設が宮城コミュニティーセンター。
上原・宮城の公民館も老朽化のためここに移動しているため、二人の区長が同じ建物にいる。
宮城集落内。たいへん暑い日が続く毎日である。
家の中に引きこもっているのが賢明だ。通りに人影もない。
スンチナーと呼ぶ広場の展望台から見た池味集落と漁港。
海中道路が建設される以前は、この入江の右側にある桟橋(写真には写っていない)から、
与勝半島の屋慶名に渡る船が出入りした。
上原のメインストリート(?)に建つ新里商店。
店の前を西に向かい、坂道を登り切ると、
島とは思えないような広い耕作地がある高台(イーバル)に出る
宮城島で一番有名と思われるヤンガー。
ムラのカーには水量に応じて百千萬億の名が割り振られ、2番目に水量が多いこのカーは「萬川」とも呼ばれた。確かに水量が豊富で澄み切っており、まとまった雨がしばらく降っていないこの日も、溢れるほどの水が下のグムイ(池)に流れていた。
集落よりも高い、山の中腹にあるハルガー。
ムラで1番の水量があることから「億川」とも呼ばれた。ここから小学校や集落に水が引かれ、タンクに溜められ、簡易水道として利用されていた。

 最近は、コロナ禍の反動とも思えるほど沖縄中が喧しく、あちこちで観光客の姿を目にしない日はないほどだが、海中道路を渡った島々では、表の通りから一歩中に入ると、昔ながらの静かでおだやかな風景が広がっていた。

 しかし、少子高齢化がすすむ昨今、島チャビ(離島苦)の悲哀を味わってきたこの地では、橋が架かって利便性が高まったものの人口減少が続き、空き家も増えている印象だ。

 「限界集落だよ」という言葉も聞いた。確かに、学校がなくなり、若者が家を離れた地域に取り残された高齢者は、どうしろというのだろう。

 政治や行政批判を繰り返してもラチが明かないが、厳しい環境のなかで生き抜いてきたシマの歴史や住民の気持ちを考えると、腹立たしさや悔しさ、悲しさ、諦めなど、割り切れない思いがフツフツと湧き上がる。

 ただ、コミュニティセンターに集って夏休みを過ごす地域の子供たちの駆け回る姿は、危機的状況を何度も乗り越えてきたであろう住民の血を受け継ぐものであり、そのバイタリティーや明るさに希望が見える思いがした。

 それは宮城島だけの話ではない。沖縄に住む誰にも当てはまる事ではないだろうか。

<三嶋>

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熱中症にも負けず、「天底あるき」無事終了

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 天底(あめそこ)は、今帰仁村の集落である。

 屋我地島につながるワルミ大橋はあるが、観光の目玉になるようなモノは見当たらない農村である。そんな「何もない」地域の散策に、クソ暑いなか、はたして人は集まるのだろうか? と正直不安だったが、あにはからんや当日はいつものメンバーが顔をそろえ、ホッとした。

 「何もない」地域にも歴史はあるし、人が住んでいれば物語はあるものだ。

 どんな地域であっても「何かある」のである。そのことに、人は気づけないだけなのではないか? と考える。

 地域には地域ならではの暮らしがあり、悲喜こもごものドラマがあるものだ。その「面白さ」は、身近すぎて気がつかないこともあろう。外部の眼だからこそ、新鮮に映る時もあるのだ。

 地域を歩き、地域の人々と交わる魅力は、そこにあるのではないだろうか。ガイドしていただいた小浦建夫さんの話を聞きながら、そんなことを改めて感じた次第である。

ワルミ大橋から見た海。遠くに古宇利島と橋、左奥に運天港が見える。
写真右手の島が屋我地島。
その海岸に見える三角形の砂地が、沖縄に初めて伝えられた塩田の跡という。

 製塩を伝えた人物は、運天に渡来したと伝えられる源為朝に同行した僧侶・開山長老(かいざんちょうろう)。ワルミ大橋に続く、ワルミ小橋の下にあるティラガマという洞窟で生涯を閉じたという。

 製塩に関わる拝所のせいか、ティラガマは、製塩が盛んだった南隣の湧川の人たちが、今も拝んでいるという。

ワルミ小橋の下にあるティラガマで、小浦さんの話を聞く。
氏によれば、ワルミ小橋はティラガマを避けるために設計変更され、
カーブしているらしい。

 この日は熱中症を警戒して、車での移動を実施。ワルミ大橋付近から、集落発祥の地とされるクシムイの杜に移動する。ムラウチの南側に位置する、草深い場所である。

 神アサギや御嶽、根神屋、ノロ殿内が近距離に集まっているため、順番に回りながら小浦さんの話を聞く。

ヌンドゥンチ(ノロ殿内)と、説明する小浦さん。
コンクリートの階段の上にある天底御嶽。女性や区長が登って拝んでいるらしい。
かつては短い参道の両側に、マツの並木があったという。

 文献を読むと、天底はもともと本部間切内の呉我山(伊豆味)にあったムラで、1719年、現在地に移動したという。蔡温が行った集落整備事業の一環だったのだろう。

 しかし、天底ノロの権限は強く、1713年の『琉球国由来記』によると、天底だけでなく伊豆味と嘉津宇も管轄し、大正時代まで馬に乗って各地の拝所をまわり、祭祀を執り行っていたという。

御嶽の近くに置かれた神アサギ。きれいに草が刈られた広場があり、
静謐な空間をつくり出している。
1990(平成元)年に行われた神アサギでの行事。
(写真:『なきじん研究』11号・2002年)

 神アサギから西の方に道を下ると、チマチスジノリが自生するという産井、アミスガーがある。

 シマチスジノリは、長さ20~30cmの細い糸状の姿をした淡水産の藻の一種だという。

 発見したのは、地元の天底小学校で教鞭をとった大城長二郎先生。1931(昭和6)年のことで、1955(昭和30)年、天然記念物として県から指定された。

 事前調査で訪れた際、この泉で何事かを祈る親娘らしい人影をチラリと見たが、アミスガーは今も地域の人々の信心を集める、崇高な場所なのだろう。それだけに水質が悪く、水量も乏しいような現在の姿を見ると、何とかならないものかと残念である。

1964(昭和39)年のアミスガー。現在、シマチスジノリはアミスガーから消滅しつつあるとされ、井戸を使わなくなったことや日光不足、水脈の変化などがその理由だという。
(写真:『なきじん研究』11号・2002年)
現在の天底公民館。裏手にはかつて天底馬場があり、
地域内外から見物人が集まったという。
公民館で一休み。冷たいお茶や手作りのお菓子に生き返る。(写真:久部良)

 最後に公民館に帰って来て一休み。冷たい飲み物や手作りのオヤツという、予期せぬ歓待に疲れを忘れて喜ぶ。

 また、地域の方にも参加してもらい、しばらくみなさんでユンタク。自然や人の暮らしが垣間見え、楽しいひと時を過ごすことができた。小浦さんの気配りに感謝である。

 暑い日差しに恐れをなしていたが、美味しいオヤツにお話もいただき、終わってみればたくさんの笑顔。「何もない」所はどこにもない、と確信したのだった。

<三嶋>

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平和祈念公園内でフィールドワーク

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平和祈念資料館友の会の事務局長である仲村真さんが、公園内の慰霊碑を解説するという「平和学習フィールドワーク」に参加した。

慰霊の日の前日で人が多く、クソ暑い日だったが、知らなかった慰霊碑を訪ねたり、仲村さんの話に驚かされたりしてイイ刺激を受けた。

特に旧日本領だった地の慰霊碑などは、十分な知識がなかったため持ち帰って調べることにした。ここでは、後日得た情報も合わせて記述したい。

2016年に完成した台湾出身戦没者の慰霊碑「台湾之塔」。この日は、戦前、卒業証書を受け取らないまま台湾の中学校を卒業した95歳のウチナーンチュに、卒業証書を渡しに来沖した中学校の校長先生も顔を見せ、台湾と沖縄の関係をリアルに実感した。
「ダバオ之塔」。フィリピン・ミンダナオ島にあるダバオに移民し、戦災に倒れた沖縄県出身者約20,000人を祀っている。1972(昭和47)年3月、全国のダバオ関係者によって建立された。
沖縄戦で一家全滅した1,500余名(380世帯)を祀る「しづたまの碑」。1969(昭和44)年、那覇市壺川の「くろしお会館」内に建立されていたが、1988(昭和63)年に移設された。
沖縄戦で戦没した韓国人を祀る「韓国人慰霊塔」。1975(昭和50)年9月除幕。朝鮮出身の軍人軍属、女子てい身隊員11,000余柱を祀る。異郷で命を落とした人々の望郷の思いに応えるべく、写真手前に見える大きな矢印が、故郷・韓国の方角を指している。

1946(昭和21)年1月、北部に避難していた真和志村民4,337人は、摩文仁村の米須・糸洲に集められた。人々は、多数の遺骨が散乱する戦禍に荒れた村の姿に心を痛め、村長に任命された金城和信を中心に、遺骨収集と供養の許可を米軍から得た。

そして豊見城村に移動する4月20日まで、真和志村民は同地で収骨作業を続けたが、2月27日には「魂魄之塔」を建立(碑銘と和歌・翁長助静、文字・金城和信)し、546柱を合祀する慰霊祭を行った。

また、4月5日には、伊原集落の伊原第三外科壕の上に、「ひめゆりの塔」を建立している。

1965(昭和40)年10月。「立山の塔」(富山県)などの慰霊塔建設が進む平和祈念公園。
写真:沖縄県公文書館

その後、摩文仁で建立された慰霊碑を列挙すると、1950(昭和25)年6月に沖縄師範学校健児之塔、1951(昭和26)年6月に島守之塔、1952(昭和27)年6月に黎明之塔などとなる。

そして1964(昭和39)年6月22日に、琉球政府主催第1回沖縄戦没者追悼式が行われる頃になると、摩文仁に「慰霊塔ブーム」が訪れる。

本土の各県が、競うように次々と慰霊碑を建てるのであるが、戦没兵士の「英霊」を賛美し、郷土や国家への忠誠心を讃える墓碑銘が多く、兵士は死しても国家の頸木から逃れられないのかと気が滅入る。

強烈な日差しのなか、暑さにめげずに歩く。正面に見えるのが平和祈念堂と平和祈念資料館。

摩文仁の平和祈念公園は、「平和の礎」以外あまり県民も足を運ばない所だろう(ボクもだが)。

しかし、戦没者の骨は、兵士だけではなく一般のウチナーンチュのものも戦没者墓苑に祀られている。そして、今を生きるわれわれにつながっている。この地を過去のエリアとして葬るのではなく、未来に活かす聖地としたい。「新しい戦前」が迫る今だからこそ、あの戦争が何だったのか、自分に問いかける場所にしたいと思う。

<三嶋>

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「知花あるき」終了しました

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心配していた天気にも恵まれ、「知花あるき」が無事終了。案内していただいた池原秀幸さんや、地元の皆さまに感謝します。

張り切って解説する池原秀幸さん。
地域の老人会や子供会の世話で忙しいにも関わらず時間を作ってもらい、対応していただいた。

「知花」と聞くと、ボクなどは「知花弾薬庫」を思い出す世代だが、調べると弾薬庫は知花の西側、正確には嘉手納町久得に位置している。米軍が適当に呼んでた名前がそのまま残ったのだと考えるが、これも戦後史の一断面ではないだろうか。ましてや、そこで働いていた地元の方もいた(いる)分けなのだから。


「みさと児童園」の敷地内に、奉安殿とともに残る忠魂碑(ちゅうこんひ)。
陸軍大将 井上幾太郎(いのうえいくたろう)の名が刻まれている。

井上幾太郎は、Googleで検索すると1927(昭和元)年~1933(昭和8)年に陸軍大将だった人物。

建立の時期が思った以上に古いことにちょっと驚いたが、忠魂碑が一般化するのは日露戦争後であり、明治末期からは在郷軍人会が主体となり、遺族会なども運営管理していたとある。

井上幾太郎の名は、全国に残る多くの忠魂碑に刻まれていることから、この頃がブームだったのかとも思うが、よく分からない。

知花グスク北側にある神アサギ(カンサヂヤー)の前。
旧暦5月15日と6月15日には、ウマチー行事が行われるようである。

知花グスクは、鬼大城(大城賢雄)の墓があることもあって、よく知られたグスク。しかし、城主が誰だったか不明で、石積みなども確認されていない。この日は時間の関係で頂上へは登らなかったが、少し前に登った際には以前あった展望台も今はなく、周辺の樹木に遮られて眺望もあまりよくなかった覚えがある。

別の日に撮影した知花グスク南側の姿。
麓に続く道をまっすぐ行くと、中腹にある鬼大城の墓に辿り着く。

知花グスクから大通り(県道74号線)を横切り、比謝川の支流・知花川沿いに歩くと、知花焼の窯があった所に出る。現在はまったく姿を変え、痕跡もないが、壺屋焼以前は重要な焼き物の産地だったという。

メーヌカーガー橋。
元々は三連のアーチ型石橋だったが、(戦後?)二つは埋められ、現在は一つが残るのみ。

写真左には涌泉があり、橋の下を流れる川に注いでいたが、1950年頃の改修工事で水路が変わり、川としては機能しなくなってしまったようだ。地元から参加したお年寄りに聞くと、子供のころはこの川で泳ぎ、魚を獲って遊んでいたという。

鬼大城(大城賢雄)が逃げたルートを歩く。
大きなガジュマルの木の下を過ぎると、ウスデーク(知花ではウフデークと呼ぶ)が行われる仲大屋と獅子屋がある。その道向かいは、鬼大城の母の実家だったと伝わる屋号ウフグシク家。

知花公民館の南東にあるスジ道は、鬼大城(大城賢雄)が、越来グスクから知花グスクに逃げたルートだと池原さんがいうと、そんな記録もあるのかと一同驚いたが、地元の方の鬼大城に寄せる強い思いにも驚かされる。

ボクはベトナム戦闘の頃から、知花弾薬庫の名称を聞いていた記憶があり、「知花」には「戦争」と結びついたイメージを持っていたが、今回のあるきでイメージが改まり、知花は伝統や集落のつながりが今に残る地域だと痛感した。

マチ化が進むなかで、伝統がないがしろになるではないかとの危惧もあるが、池原さんのように情熱を持って地域活動に取り組み、地域の未来を作っていこうとする人たちがいる限り、地域の絆はこれからも続くのだろうと確信した次第である。

<三嶋>

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