源河をあるく
2026年1月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
年明け早々、名護市源河をあるいた。
以前、名護博物館の館長だった島福喜弘さんの地元である。源河でよく知られる、リュウキュウアユの話などが聞けるか、と期待したからである。
源河川のずっと上流にある大湿帯も、同じ源河地区なので訪ねたかったのだが、水害で道路が通れなくなったままとのことで、大湿帯訪問は諦めた。

水に恵まれた源河地区は、戦後まで稲作を中心とした米づくりが盛んだった。「ギンカターブックヮ」と呼ばれるほど、美しい水田が続いていたという。また、周囲を取り巻く山は豊富な森林資源に恵まれ、そこから切り出された薪や木材が、源河川の河口から船に積み込まれて中部や那覇に出された。
沖縄中が食糧難に陥った戦後には、集落に近いやんばるの里山ではどこでも頂上まで段々畑がつくられ、イモなどが植えられた。源河でも山の中腹まで段々畑が作られ、住民は食料増産に励んだが、そのご農家が激減すると山は放置され、段々畑も姿を消すこととなった。

豊富な水量をほこった清流は、昔話となってしまったようだ。

源河ではリュウキュウアユのほか、「源河ウェーキ」と呼ばれた豪農の存在もよく知られている。
その屋敷跡が、集落奥の小高い丘(集落を見渡せる絶景の地)にあり、城跡を思わせる見事な石積みが残っている。
この場所から、眼下に広がる田畑と家々を見下ろし(ほとんどが源河ウェーキの土地だったとされる)、富と力を誇っていた人物はどんな人だったのかと興味がわくが、系図がなく、成立も不明という。大勢の従者を従え、カゴに乗って那覇に行ったという話が今も語られるが、石垣だけが当時の栄華をしのばせる屋敷跡を眺めていると、権威を誇りながらも幻のように消えた一族の夢の跡にもみえてくる。
しかし、1993(平成5)年まで母屋が残っており、解体の際も再建を考えて建築資材が残されていることからも、屋敷を再建したり、公園などにするなどして、一般公開されるようになって欲しいものである。



源河川の流れに沿って、上流に向かってしばらく歩くと、ポツンと立つ「源河節の碑」が見えてくる。
刻まれている文字は、沖縄学の大家・東恩納寛惇が筆を取ったもだと福島さん。東恩納の資料を集めたり研究に忙しいそうで、リュウキュウアユ復活との関わりなども含めて、博物館を離れても生涯現役の姿に感心する。
ただ、ボクが琉歌や芸能関係に知識がないため、突っ込んだ対応ができず申し訳ないこととなってしまった。

源河のアユは、前述した通り地域にたいへん身近な存在で、馴染みの食材だった。学校の家庭訪問の時期には、各家庭を回る先生方はどこに行ってもアユでもてなされ、アユを手土産に持たされるので、先生方はその処理に困っていたと島福さんが笑う。
アユ以外に振る舞うものがなかった貧しさも感じられるが、同時に、今では考えられないような自然の恵みが日常だったことに驚き、羨ましさを感じた。
1965年8月25日付沖縄タイムス朝刊には、「毎年、タカの群れが渡ってくる寒露の季節になると、アユも産卵のため川を下って海に入る。産卵の場所ははっきりしないが、地元の話だと、羽地内海だという。海でかえった稚魚は、また、春とともに、川をのぼってくる。近くの山では、これを迎えるように、うぐいすが美しくさえずる。」と、風物詩となっていたアユと人の暮らしが記されている。
しかし、約60年前まで普通だったこのような人とアユの関係は、土地改良や畜産による河川の汚染などで壊され、当たり前だと思っていた環境が還ってくることはなかった。
1986(昭和61)年から、島福さんなども関わってアユを復活する活動が続けられ、一時は大きな話題を集めたが、かつての環境を取り戻すことは難しいようだ。

また、アユが増えない原因のひとつは、砂防ダムの建設にあると島福さんは語る。住民への説明がないままに建設された砂防ダムが、上流へ上るアユの行手を遮っているため、アユの繁殖にとって大きな脅威になっているという。
専門家ではないので不確かな情報ではあるが、沖縄の河川は土地改良による土砂の流入や赤土汚染が広がることに加え、水量の減少で河口部に堆積した土砂の影響もあり、川と海を往来するアユなどの育成を阻害しているようだ。
いちがいに誰が悪いとは言えないのかもしれないが、幼少からアユとともに生きてきた源河の人々にすれば、原風景の復活は当然、切望するものだろう。

リュウキュウアユが飛び跳ねたかつての環境を取り戻し、森林資源を生かしながら、自然とヒトが調和の取れた暮らしを持続できるような、地域づくりの実現を願ってやまない。

<三嶋>
我謝あるき
2025年12月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
西原町が、かつては那覇の泊や天久・勝連町・津堅島までも含む、広大な面積だったことをご存知だろうか。
廃藩置県後の1908(明治41)年に西原村は誕生するが、そのころ首里の儀保・末吉・平良・石嶺が分離し、現在とほぼ同じ面積になったとされる。地図で見ると、相当な面積があったことが分かるだろう。
今回、歩くことになった我謝は、個人的にはあまり馴染みがない土地だったが、教育委員会の山崎真由美さんが地元であり、周辺はよく知っているということで案内をお願いすることにした。
我謝を訪れ、驚かされたことに車の通行量が多いことがある。東海岸と首里をむすぶ「抜け道」のようになっているためか車が多く、歩道がほとんどないこともあって、大勢で歩くには注意が必要であった。
調べてみると、この混雑は部落の西南に位置するゴルフ場ができてからのようで、子どもたちの危険を避けるため、公民館側に遊び場を建設すると書かれている(1966年7月27日沖縄タイムス)。公民館の横に現在も広がる空間である。

西原町は戦前、キビ作が多い純農村地帯だった。それは1907(明治40)年、同区に県立農事試験場が置かれ、翌年に沖縄初の製糖工場ができた影響で、戦後もキビ作が多かったため機械化が進んだと書かれている。
しかし、現在の我謝の街並みを見ていると、かつての農村地帯のイメージはなく、かつての集落の名残をとどめつつも都市化が進んでいる。碁盤目型の路地の痕跡と、新しい住宅やビルが同居しているような印象であった。

我謝は集落の北側に位置する高台や、南西部の運玉森に発する水脈があるのだろうか、あちこちにカーが残り、水は豊富だったようだが、他の地域同様、それらのカーが農業用水以外で使われることはなく、拝みの対象でしかないようである。

道路が拡幅されて車が多く通るようになり、かつての面影は失われている 。

我謝の集落北側にある丘陵地は、かつては大きな3本の松の木がある山で、クガニムイ(黄金毛)とか我謝毛と呼ばれていた。
我謝の集落発祥の地とされ、イーヌダキ(上ヌ嶽)を配する聖地とも呼べる場所だったが、本土復帰前直前、アメリカの石油企業エッソ・スタンダードの社宅用地となり、分譲住宅団地「西原ハイツ」となった歴史がある。そのため、火ヌ神などが南側の斜面に移され、現在は「我謝の殿」として拝まれている。
エッソの社宅建設に際して、13~14世紀ごろの中国製陶磁器などが大量に出土していることから、この地にかつて有力な人物のグスクがあり、海外交易も行っていたのか?と、ロマンを掻き立てられるのだが、現在のところ確証はないようだ。
しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、よそではあまり聞いたことがない。本土復帰のころに吹き荒れた外部資本の沖縄流入の嵐は、与勝半島のCTSなどの例がよく知られるが、同時期にこの地でも、長年の暮らしを変える出来事が起こっていたことにショックを受けたが、当時の新聞を見ても問題視されていないようで不思議である。
しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、あまり聞いたことがないように思う。
本土復帰のころに吹き荒れた、外部資本流入に起因して巻き起こった住民の抵抗の嵐は、与勝半島のCTS阻止闘争などが知られるが、同時期にこの地でも同様の事例があったことにショックを受けた。そして、そのことをほとんど知らなかった自分の無知を恥じた。
それにしても、当時の新聞などでもあまり取り上げられていないようで、本土復帰が迫る時期のゴタゴタで、これらの問題が覆い隠されたのだろうかと訝しく思った。


1969(昭和44)年10月(写真:沖縄県公文書館)

1970(昭和45)年(写真:沖縄県公文書館)
我謝で有名なもののひとつに、今も盛んに行われている綱曳がある。
今回、案内をしていただいた山崎さんも、綱曳には小さな時から親しみ、論文を書いたほどで、綱曳前の準備から当日の模様も熱心に語ってもらった。
我謝に伝わる綱曳の由来は以下のようなものである。
昔、我謝一帯の農地は、我謝の創始となるニーヤー(根屋)の上神座(屋号:イーカンザ)の兄弟二人が二分して耕作し、その収穫量を張り合っていたが、ある時から、稲ワラで作った綱を引いて勝負することになり、兄がリンゴー与(雄綱)、弟がウフカー与(雌綱)に別れて引き合ったというのである。
戦前までの綱曳は、門中によってどちらの綱を引くかが決められていたが、現在は班ごとに別れて引いているそうだ。また、稲作が途絶えてしまった現在、綱にするワラは金武町伊芸から購入していると聞いた。
いにしえの集落の形を随所に残しながらも、現在の我謝はマチ化しており、農村だったころの風景は見えなくなっている。決して都市化が悪いと言うわけではないが、農村のイメージを持っていただけにそれは意外ではあった。
クガニムイで中国製陶器が出土したことや、我謝の「謝」が、海岸にできた集落名をあらわすことから、今よりもずっと海岸が近く交易も盛んだったのだろうと、昔の姿を思い描こうとしたが、すでに水田が消え、農地も減り、カーだけが残る現状を前に、のどかだったころのシマを想像することは難しかった。

<三嶋>
2回目の渡久地
2025年11月18日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
渡久地を歩くのは、2018(平成30)年3月に、『しまたてぃ』連載の「沖縄の戦後を歩く」で取材して以来、2度目である。その際は、本部町健堅に在住の中村英雄さんに案内してもらったが、今回は、渡久地の前区長・中曽根さんと一緒である。
そのため今回は、以前の取材時に集めた資料に、中曽根さんの話などを加えてお届けしたい。
●渡久地の町
「カツオの町」として知られる渡久地だが、陸路より海路の利便性が高かった当時、伊平屋・伊是名・伊江島や奄美諸島から、那覇に物資を運ぶ際の中継地として、渡久地は地の利があり、海上交通が盛んになる明治期から同時に発展することとになった。
原田という鹿児島の人が開いた店が初の商店となり、那覇の商人や地元の人々が次々と店を開き、そば屋や飲み屋なども誕生した。
渡久地港が完成して市場が整えられると、周辺からも買物客が押し寄せ、名護をしのぐにぎやかさだったといわれる。
●戦後の発展と海洋博後
戦後には、大浦崎(辺野古)の収容所から住民が帰り、物々交換による商業も再開すると、たちまちさまざまな物売りのテントが道路沿いに立ちならんだ。
戦後復興の勢いは止まらず、1955(昭和30)年に渡久地港が開港し、2年後に町営市場が完成すると、周囲はいっそう活気に満ちあふれた。
渡久地港は水深が浅く、船舶の出入りが難しくなっていたほか、街の中心部が狭すぎるという問題もあったため、1960(昭和35)年に浚渫が行われ、市場から南側の土地が埋め立てられた。港が拡張したころ、中心街となった本部大通りには銀行や食堂、料亭、呉服店、電気店、雑貨店が立ち並び、地域の政治・経済を担う地域として栄えていた。

しかし、その繁栄に陰りをもたらすこととなったのが、1975(昭和50)年に開催された沖縄国際海洋博覧会である。
港の眼前をさえぎるように架かった本部大橋のため、大型船の出入港ができなくなり、離島航路の船着き場が崎本部の新港に移ったことを手始めに、沖縄中が見舞われた海洋博不況が追い打ちをかけ、深刻な経済不況に町は覆われたのである。
●カツオ節
カツオ漁でにぎわった渡久地では、カツオはカツオ節を作ることが一番とされ、刺身を食べる人はいなかったという。しかし、腹身などの部位などはテンプラにされ、市場で売られていた。一般の人には高級なソバより、安くて美味しいこのテンプラがこのまれ、よく食べられていたそうだ。

●名護の道
渡久地交差点を東に進むと、県道84号線の伊豆味線である。この道を車が通れるようになったのは、1916(大正5)年だが、戦後も長いあいだ舗装されず、沖縄海洋博が始まるころようやく舗装された。
しかし、伊豆味線が開通しても、名護に行く際には昔のように本部役場(本部小学校跡)の裏手から山に登り、安和を経て名護にいたるルートを庶民の多くは歩いたそうだ。

側面にはR124(軍道124号)と刻まれている。


渡久地公民館前の通りは、かつて街の中心をなす通りだった。5年越しに大勢の人を集める名物の綱引きは、部落を東西にわけて引いていたものだが、いつのころからか町全体で行う大綱に発展した。牛若丸と弁慶の大立ち回りに喝采が送られ、盛り上がりを見せた。
また、旧暦7月のウスデークや旧暦8月9日から3日間行われる豊年祭りも、通り沿いの渡久地神社境内で催され、住民の思い出がつまった道といえる。
●仲宗根源和と貞代
前区長の中曽根さんは、琉球独立論で知られた仲宗根源和の遠縁にあたり、終の住処となった家の世話などしたという。そして貸してもらった『仲宗根源和伝』(著者の仲宗根みさをは仲宗根源和の3番目の妻)を読み、いろいろと調べてみた。
仲宗根源和は大正期に日本共産党の設立に関わり、戦後はいち早く沖縄の民主化・独立を主張したことで知られる人物だが、ボクが興味を持ったのは、最初の妻となった貞代(サダヲ)である。
熊本県生まれの仲宗根(旧姓・緒方)貞代は、アダン葉帽の製造を行っていた父親に呼ばれ、家族で沖縄に移住。親の反対を押し切って豊見城の小学校教諭となり、そこで知り合った仲宗根源和と結婚したのち、1919(大正8)年上京する。
そこで夫妻は社会主義運動に目覚め、貞代は社会主義婦人グループ「赤瀾会(せきらんかい)」を堺真柄(堺利彦の娘)らと結成し、女性初のメーデーにも参加するが、弾圧・投獄されたのち源和と別れ、以後、消息不明となった。
ところが1979(昭和54)年、熊本の老人ホームにいるのを研究者が見つけ、かつての同志・近藤(堺)真柄とも50数年ぶりに再開したという。
本土の研究家のほか、沖縄の女性史研究家・宮城晴美氏も1980年にインタビューしたが、その1年後、貞代は86歳で亡くなった。
仲宗根貞代は、戦前の厳しい時代にありながら、さまざまな弾圧に屈せず、熱い思いを抱いて社会主義運動や女性解放運動に突き進んだ女性である。さまざまな苦労を重ねてそれなりの蓄えを得たせいか、晩年は静かで穏やかな暮らしを送ったそうだが、幸せな人生だったと思えたのだろうか。
若い血潮をたぎらせ、権力に立ち向かった当時の人々の思いに同調するのは難しいが、誰が何を思い何をしようとしたのか、歴史を遡って考えてみることは重要だろう。それは過去の話として片付けられるものではなく、現在を考える上で有益であると思うからである。

<三嶋>
安座真あるき
2025年9月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
南城市の知念半島には、世界遺産となって観光客があふれる斎場御嶽があるが、山を越えた北側にある安座真(あざま)は、対照的にひっそりとしたたたずまいを見せている。
今回、「あるき」を実施した安座真は、急斜面の丘を背負い、眼前に広がる海との間の狭い農地を耕してきた集落である。
戦前は多くの家が馬を飼い、100頭以上もいた時があったといわれるほど畜産が盛んだったと伝えられるが戦後は寂れ、斜面はキビ畑に変わった。
以前は水田もあり、漁業も行われていたことから、半農半漁のムラだったといわれていた。
「安座真」の地名は、1649年の『絵図郷村帳』という古文書にあるそうなので、ムラの成立はかなり古い。集落はもともと、安座真グスク(集落南の山中)のふもと近くにあったとされ、ムラの草分けといえる4つの元家が、祭祀などを取り仕切っていたと考えられるが、現在、詳細はよく分からないという。

安座真の住民はかつて、南側に位置する久手堅に行く際には徒歩で山を越えていた。子どもたちも裸足で山道を歩き、久手堅にある知念小学校に通っていたというが、現在、それらの山道は通る人もいなくなり、かつての役目を終えて樹木に埋もれつつある。
今は道がなくなって近寄れないという安座真グスクも、おそらく同じような状況なのだろうか。石積みも確認されているといわれるが、その全貌は山中に没し、詳細は分からないという。

安座真では戦前まで漁業が盛んであり、30隻以上のサバニがあったという。現金収入があるため、ウミンチュは戦後も豊かだったようだが、その後、漁業が振るわなくなり、廃れたようだ。
旧暦5月4日にはハーリーも行われていたが、現在は途絶え、港内のパレードに変わった。



旧暦7月15日のウークイ(旧盆最終日)の翌日は、ヌーバレーの日である。ヌーバレーは、安座真の北隣の知名のほか、本島南東部の各地でみられる行事で、村芝居やエイサー、棒踊り、獅子舞、ウシデーク、ミルク踊りなどが行われるようだ。
安座真のヌーバレーでは、部落の中心といえる神アサギから玉城、龍宮、仲村渠、城田などの旧家を道ジュネーで回り、最後に公民館で踊って終了である。
笑顔で踊る男女の若者が印象的で、人気のない路地にもこの時だけは人が集まり、温かな空気に包まれて見守っていた。

ヌーバレーで最初に拝まれる神アサギには、村内のみならず、中南部の各地から拝みに訪れる人たちもいるとのことである。
また、ここには「大神宮(ウフジチュー)」と呼ばれた大男が祀られている。身長が約3メートルもあった大男だったとされ、120歳で死去した3日後に棺を開けると遺骸はなくなり、木の葉だけが詰まっていたという話が伝えられる。
さらに、この人物には親嶽という男の子がおり、彼は父親と同じく武芸に優れた大男で、尚徳王が喜界島征伐を行った時に従軍したといわれている。
観光客で大にぎわいの斎場御嶽とはうらはらに、そのすぐ近くにありながら驚くほど静かな安座真だが、ヌーバレーの舞台では、多くの住民が芝居や歌や踊りに興じ、熱気に包まれ、笑い声や笑顔に満ちていた。
しかし、部落のあちこちにある、重要な祈りの拠点だった殿(トゥン。本島北部の神アサギと同様の中南部の祭場)がかつての姿を留め得ず、由来などの伝承も不確かになっている様子をみると、この静かな地域でさえ、時代の変化の波は容赦なく押し寄せ、変容を迫っているのだと感じだ次第である。

<三嶋>
収容所跡をあるく
2025年7月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
旧羽地村、現在の名護市に属する田井等(たいら)は、沖縄戦末期から多くの避難民を収容した地域として知られる。
本島各地にあった収容所のなかで、一番多くの収容者を抱えていたといわれるが、現在ではそのことを知る人も少なくなったようだ。
そこで、当時の痕跡を探したり、体験者から話を聞くことはできないだろうかと、知り合いや公民館を通して適任者を探したのだがうまくいかず、「あるき」当日はやむなく自分たちだけの地域散策となった(残念)。

(写真:沖縄県公文書館蔵)

田井等では1945(昭和20)年4月、まだ中部で戦闘が続いている時期に、米軍が軍政本部を置き、地域住民や中南部の避難民を収容した。
記録によれば、同年8月には5万5千人の避難民が収容され、隣りの親川部落に役所や警察署が置かれたほか、9月には田井等市となって市長・市会議員選挙が行われている。
しかし、10月31日に元の居住地への帰還命令が出ると人口は激減し、8カ月余で田井等市は市制を閉じることになった。
10月10日には人口5万5,266人という記録もあるから、大変な数の人々がこの地域に運ばれて戦後をスタートさせたことになる。混乱する世替わりの中、人々は懸命に生を紡ぎながら生き抜いたのだろう。
だが、今、そのことを物語る物的証拠をほとんど残っていない。


かつてはアユも獲れたという清流だった。

田井等はかつて、東隣の親川と合わせて、「テーヤ・ウェーガー」と連称された。
はるか昔の人々は、現在の親川集落周辺に住み始め、居住地を次第に拡大して田井等ムラを形成した。そして1736年、親川ムラが分かれたとされる。
そのため両方のムラは、今も渾然一体となっているようだ。共通の拝所を拝んだり、年中行事を共同で行っているのも、そのような経緯のためらしい。

また、田井等には、平家(へいけ)の落人伝説がある。壇ノ浦で敗れた平家の残党が落ち延び、集落の西側の山にある羽地グスクの按司になったというのである。
羽地湾から上陸した平家は、現在の仲尾一帯の海岸の丘上に居城を築き、南側の田井等部落をタイラと名づけ、城主が沖縄風に羽地按司を名乗ったという話である。今も周辺に「平」姓が多いのは、その名残りだと伝えられる。




田井等は、沖縄の戦後がスタートした場所のひとつである。早い時期から多くの避難民が収容され、食糧難、居住難に喘ぎながら、戦後復興が始まったのである。
そこに集められた人々のなかには、その後、政財界で活躍した人材も多かった。
しかし、現在、当時の田井等収容所の様子を今に伝えるものは、孤児院跡以外、見当たらない。
次世代の人々に、ここで何があったかを伝える解説板なり、モニュメントの設置を望むのは、ボクだけではないだろう。
戦後体験者が減少するなか、貴重な記憶を刻み込んだ場所も、歴史の霞の中に次第に消えつつあるようだ。
当時を知る体験者が少数でも残る今だからこそ、かつての暮らしや地域の変せんを地元に残す努力は重要だろう。沖縄戦の次の時代の記録と保存が、差し迫った課題だと改めて思う。

<三嶋>
