okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

具志頭あるき

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


 朝晩はいくぶん涼しくなり、歩くにはいい季節と思うこの頃。どこへ行こうかと悩んでいたが、あまり馴染みのない所を勉強しようと思い、八重瀬町の具志頭を選択。間違いやすいが、旧具志頭村の中心地である字具志頭である。

集合場所のJA前にあるガジュマル。具志頭のシンボルツリーとなっている

 ハナンダー(自然橋)や屋冨祖ガーなどを訪ねたあと、具志頭城址公園に行く。

 摩文仁の平和祈念公園にくらべると、訪ねる人は少ないが、住民が建立した魄水之塔のほか、甲斐之塔、土佐之塔という慰霊碑が建ち、周辺には住民が避難したガマも多数残っているようだ。

 沖縄戦における具志頭の経過は、いくつかの書籍などをみると、以下のようになるようだ。

 地域の人々は、1945(昭和20)年3月23日の空襲、24日の艦砲を受け、ようやく北部への避難が増加。具志頭村民の一部、約300人は金武村に集団移動する。

 地上戦が激しくなるのは6月5日。与那原・大里方面から南下した米軍が、具志頭付近に侵入。布陣する日本軍の独立混成第44旅団と、激しい戦闘が繰り返された。

 6月11日には、字具志頭・安里付近が米軍の猛攻を受け、玻名城東方の91高地を米軍が占領。抵抗する独立混成第15連隊第1大隊の大隊長以下20余名が、斬り込みを敢行するが、そのほとんどは戦死したという。

 そして、米軍は6月14日、八重瀬岳(米軍呼称ビッグアップル)頂上部を確保。17日には与座岳~八重瀬岳傾斜地における高地全部を支配した。

具志頭城跡から見える海岸。ギーザバンタ、摩文仁に続く眼下の海岸を、追い詰められた日本兵や避難民は、行きつ戻りつ逃げまわったのだろう。が、美しく輝く海を見ていると、戦争の悲惨とうまく重ならない。こんなにきれいな海を前に、凄惨な闘いが繰り広げられたのである。
集落の中に、今もひっそりと存在する避難壕のひとつ(アガリンダカリティダガマ)

 口を開けているガマは、人家の真下に伸びている。日常の中に、普通の姿で今も戦争が残っているのである。

 以前調査したというSさんの案内で、恐る恐る足を踏み入れた。石灰岩から落ちる水でぬかるんでいる所もあり、足場も不安定なため転びそうになる。割れた茶碗などが見える。戦時中は役所が書類なども運び込んだようだ。

20メートル程行き、道が左右に別れている地点で引き返したが、Sさんによれば、左にまだ続いているとのこと。

 短時間のガマ体験だったが、ジメジメとした暗闇の中での生活は、想像を絶する。頭の理解と肌感覚の相違に、今更ながらあきれ絶句した。

<三嶋>

--------

 

津嘉山あるき

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


 今回お邪魔したのは南風原町津嘉山。だが、地元の知り合いもいないため、いくばくかの文献資料や観光パンフなどが頼り。

 津嘉山は、沖縄戦では第32軍の司令部壕があり、多くの避難民が命を落とした山川橋(宇平橋)もあるため、以前から気になっていた。しかし、壕は(予想通り)何の痕跡もなく、山川橋までは距離があって歩くのは酷かと断念。

集合場所は、2018年に造られたばかりの地域振興資料館。16世紀から行われている大綱曳きの展示もあるが、当日は閉館となっていて残念ながら見れず。う~ん、反省。

 津嘉山は、津嘉山ムラに仲間(名嘉真)ムラが合併されたのち、1700年代に玉那覇ムラが合併した地域のようである。

 戦後は、集落の西側を走る通り(国道507号)沿いに発展。那覇市に隣接するベッドタウンとなり、現在の人口は町内最大で、唯一1万人を超えている。

 また、近年は集落東側に津嘉山バイパスが開通したため、地域北西部の開発がいっそう活発で、都市化が急速に進展している。

 沖縄戦当時、首里城地下に第32軍司令部があり、摩文仁に撤退するまで使用されたことはよく知られているが、首里城に構築される前、津嘉山に司令部壕が造られていたことは、あまり知られていないようだ。

新しく出来た津嘉山バイパスが、司令部壕があった山のすぐ脇を通る。壕の痕跡として目に見える物は何もない。戦争の記憶はいっそう遠くなった

 津嘉山の第32軍司令部壕は、津嘉山北東部の高津嘉山とチカシ毛と呼ばれる小高い丘に、1944(昭和19)年夏頃か建設が始まった。

 完成時には高さ・幅2メートルで総延長1.5~2km。手掘り壕の中では県下最大の規模だったが、十・十空襲を受けて強度に不安が生じたことや、眺望の良さから首里城地下が司令部として選択され、津嘉山は軍事物資や資金管理部が置かれるだけとなった。

 しかし5月27日には、首里城地下から撤退した第32軍の牛島満司令官をはじめとする首脳部が立ち寄り、5月30日に終焉の地・摩文仁に向かうまで、この壕に宿泊している(1泊の説もあり)。

津嘉山の住宅街に残る弾痕の壁。激戦を物語る戦跡だが、戦闘を目撃した住民もおらず、詳細は誰も分からないようだ
集落の南側にあるイーチキの御嶽。古ジマの一つ、玉那覇ムラにゆかりのある御嶽。皇民化教育を受けた名残と思われる、金属製の鳥居が祠の中に見える

 沖縄では、いっそう進む都市化(ヤマト化)の陰で、かつての暮らしや戦争の痕跡が、見えづらくなっている地域が増えているように思う。しかし、あれだけの戦禍を負い、体験者もまだ残っている沖縄であればなおさら、地域の歴史を正しく伝えることが不可欠だろう。

 津嘉山指令部壕の跡地は現在、表に何も残されていないが、当時の遺構や遺骨が、地下には今も眠っていることを忘れてはならない。首里城地下の司令部壕にくらべ、あまりにも存在が薄いこの地に、光が当てられることを願う。

<三嶋>

--------

 

3月11日(土曜)、冨着を歩きます

 Category: 沖縄ある記  Comment : 1


恩納村で毎年行ってきたムラ歩きが、コロナで中止になっていましたが、今年、復活しました!

恩納村教育委員会のお手伝いで、これまで6カ所の字をまわり、地図とテキストを村立文化情報センター(図書館)1階のPCに納めてきましたが、その事業の復活ですね。

で、今回の舞台は、字冨着(ふちゃく)。

那覇から行くと、仲泊で分岐する交差点を左折し、旧道を直進。ムーンビーチとタイガービーチを過ぎ、右側にあるゴルフ場に入るようにして小さな交差点を右折すると、集合場所の冨着公民館です。

コースはここから山の上に向かい、集落跡(拝所群)を回って海に向かって下り、海岸端にあった旧公民館跡などを訪ねる予定です。

参加費無料ですので、ご希望の方はお気軽にご連絡ください。

好天を願いつつ、みなさまのご参加をお待ちしております。

<三嶋>

--------

 

浦添城跡・前田高地をあるく

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


今年、1回目の定例散策を行った。場所は予定を変更して浦添城跡と前田高地である。首里城以前の王城である浦添グスクは、上るティダ(太陽)を称えたことで知られるだけに、新年にふさわしく、明るく年頭を飾ろうかとのこじつけでもあるのだが。

前田高地は4、5年前のハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台であり、その影響で訪れる人も増えている戦跡。知らない人もいるのではと考え、再訪してみることにした。

駐車場から南側の小道を行くと、すぐ左手に見えてくるのが、集落の御嶽とされるシーマヌ御嶽。頭上を覆う樹木に圧倒されながらしばらく行くと、大きな入り口を持つガマが現れる。 戦時中は日本軍陣地が構築され、奥に進むと北側のガマに通じているとSさんが教えてくれる。壕内で非業の死を遂げた住民もいた、と語る体験者の話もあるそうだ。しかし、戦後の調査も不十分なままなのだろう。誰も責任を取らないまま、死者を放置したまま時間だけが通り過ぎている。
浦添城跡南側斜面で、昨年発見された約600年前の城壁を眺める。
城壁は沖縄戦で破壊されたほか、戦後には建築材料として多くが持ち去られているため、本物の石積みが残っていたことは大きな関心を呼び、見学会には700名もの人が押し寄せたという。(写真;佐藤)
浦添グスクの地下には、いたるところに日本軍の壕があり、互いに連結しながら米軍との死闘を繰り返した。写真は、「缶詰壕」と呼ばれた日本軍の食糧倉庫で、大量の缶詰が当時保管されていた。
同地で激戦を体験した沖縄学研究者の外間守善は、この壕に隠れた際、缶切りがないため目の前の缶詰を開けられず、大変苦しい思いをしたと『私の沖縄戦記』に書いている。そして、缶詰を食べている二人の古参兵に、缶切りを貸してくれるよう懇願するが断られ、一層悔しい思いを募らせるのだが、そのあと現れた米兵の機銃掃射で古参兵二人は亡くなり、奥にいた外間は助かることとなる。
何が生死を分けるのか分からない、不条理が支配する極限状況の中で、幾多の命が奪われ、偶然を手繰り寄せたわずかな人々が、かろうじてか細い命をつないだのだ 。
浦添グスクのある丘陵東端で、屹立する為朝岩(ワカリジー/ニードルロック)。近づいて見ると意外に小さく感じるこの岩の周辺で、北側の崖(ハクソー・リッジ)を登ってきた米軍と、南側の地下壕に籠もって撃退する日本軍との間で、血みどろの肉弾戦が繰り広げられた。
たくさんの墓が並ぶグスクの北側斜面上部は、絶好のビューポイント。眼下に見える西海岸の米軍上陸地点や嘉数高台などを眺めると、高所に拠点を置く戦略上の必然性に得心する (写真;佐藤)

映画公開の影響が続いているのか、同地を訪れるアメリカ人と思われる人々もちらほらと見られた。

彼らの父や祖父の血と涙が、この地を濡らしたことをどう思うのか、そして今も居座り続ける米軍基地をどう考えるのか、聞いてみたい気もするが、日米の国の壁は個人の思いなど構わない。78年前の凄惨な闘いなどなかったかのような陽気のもと、しかし有事になれば沖縄は再び戦場になるという現実を、改めて噛み締めた。

浦添城跡・前田高地MAP

来月12日は、「糸満ある記」を予定しています。興味のある方はご参加ください。詳細はご連絡いたします。

<三嶋>

--------

 

上大謝名・真栄原あるき

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


12月の定例あるきは、宜野湾市の上大謝名~真栄原。

那覇に居てはつい忘れがちな、普天間飛行場を間近に眺め、赤線地帯だった旧「真栄原新町」の現在を確認することが、おもな目的であった。

上大謝名(うえおおじゃな)は、もともと大謝名だったが、戦後、多くの人々が流入して人口が増加したことから、1979年に大謝名から独立した字。

大謝名は那覇とコザの中間にあって、牧港や普天間の基地に近いことから、1号線沿いに店舗が立ち並び発展してきた。

1950年代から外人住宅が増え、そのご軍用地の開放が進んだことで、一層にぎわうようになったが、普天間飛行場を離発着する米軍機が居座ったままの状況は、今もかわらず続いている。

上大謝名公民館そばの駐車場から、フェンス越しに見える普天間飛行場。民間地では戦後の混乱を忍ばせるように家々が不規則に建て込んでいるが、きれいに芝生が刈り込まれたこの中は別世界。
清明祭の際には、フェンス内に残る墓の関係者は、拝みをするため米軍側の許可を得て立ち入ることとなる。理不尽が厳然と存在することを、思い知らされる場所である。
2006年8月撮影
佐真下ゲートからフェンス沿いに入った場所から、駐機するオスプレイを眺める。
この日は日曜日のためか人気がなく、飛行する機体も見られない。
しかし、静かな日曜の朝の状態に騙されてはいけない。飛行場のすぐ南に位置する嘉数地区の事務所に居た頃は、真上を通過する米軍機の騒音に悩まされたものである。

ちなみに普天間飛行場は、沖縄戦が続いていた1945年6月に米軍が建設し、8月には2本の滑走路も完成している。

基地が出来たあと、その周りに住民が住み付いた、と本土の作家が書いて話題になったことがあるが、それはまったくのデタラメ。もともとそこには住民の土地や家があり、米軍がそれを強制的に奪って基地を造った歴史は変えようがない。

米兵相手の飲食・風俗店街としてつくられ、復帰後もにぎわった真栄原新町。
敗戦直後は民間地域で売春が行われることも多く、一般の婦女子を守るためにも必要とされて、人里はなれたこの地に設置された。コザの八重島に次ぐ、本島2番目のエリアだったという。
当初は外人相手の風俗営業街として区画整理され、戦争未亡人などが身を売るケースが多かったようだ。その後、客は住民に変化し、本土復帰してからは観光客へと変化した。

しかし、女性の人権保護や青少年の健全育成を目的に、2009年頃からは市民総ぐるみの環境浄化運動が盛んになり、2010年には伊波洋一宜野湾市長の方針もあって市民参加の浄化運動が展開された。

そのため、2009年に110軒あった店舗の9割が閉店するほど街は衰退し、その後は廃墟のような場所と化してしまった。

かつての建物は次第に消え、これから街は生まれ変わっていくのだろう。

売春をもちろん是認するわけではないが、人々のさまざまな思いや、ざわめきが詰まった街が姿を変え、戦後史のひとつが消えてしまうかと思うと、複雑な心境ではある。

10年以上前の街並み。環境浄化運動が盛んになり、昼間から客待ちの女性がいることもあった店舗の多くは、すでに活動休止状態であった。2011年11月撮影

エリアマップ

<三嶋>

--------