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摩文仁の丘で写真を確かめる

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前城さんと別れたあと、久しぶりに摩文仁まで行ってきました。
琉米歴史研究会(以下「琉米」)の写真展が10月に決まったので、すこしでも整理しておこうと思ったからです。とりあえず確認したかったのは2ヶ所。

1ヶ所目は、「黎明の塔」があるあたりから見た風景です。
IMGP5835

Okinawa 1958-1959 112
下の写真が、同じ場所から撮影した思われる摩文仁の集落。撮影は1958〜59(昭和33〜34)年。

と、ここで、こんな写真も琉米にあるのを発見。
Reimei Suicide Cliff 54-55 16f
ボケボケで申し訳ないのですが、1954〜1955(昭和29〜30)年に撮影された「黎明之塔」です。
現在のものと形が違いますね。

調べてみると、この塔は1952(昭和27)年6月22日完成したもので、沖縄新民報(第193号)によれば、「日本側と沖縄側の有志」が工事を行ったようです。
現在の塔が建設されたのは、それから10年後の1962(昭和37)年10月。沖縄協会の援助で行われています。

2カ所目の確認は、祈念公園の南側駐車場から、「健児之塔」に向かう途中にある崖。
写真の手前が健児之塔側、左に進む小道を抜けると海岸に出ます。

DSCF0674

imh371
米国から送られてきた下の写真は、撮影年月日が分かりませんが、周囲の状況などからみると1950年前後ではないでしょうか。
米兵は、周辺の断崖を “Suicide Cliff(スーサイド・クリフ=自殺の崖)”と呼んでいて、複数の写真が琉米にも集められています。
彼らがどういう心理でこれらの写真を撮影したのかは分かりません。が、ここで失われた命や流された血に対し、悼む気持ちがあってのことと信じたいところです。
<三嶋>

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糸満市兼城マーイ(まわり)

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南城市佐敷小谷の人たちと、糸満市観光協会の「あ・るっく糸満」を、兼城で体験してきました。
市内にいくつか設定されたコースのひとつで、地元の方(玉那覇さんと大城さん)の案内で、楽しく廻ることが出来ました。
兼城は、1961(昭和36)年10月1日に糸満町・高嶺村・三和村と合併するまで独立した村であり、現在も糸満市で一番人口が多い所とか。中国と交易を行っていた歴史や数多く点在する拝所、集落のあちこちに残る立派な石積みなどを見ても、歴史と伝統が横溢する地域であることが分かりました。
糸満では、旧市街地や発展が著しい西海岸に注目が集まりがちですが、こんなに興味を引かれる地域が近くにあったとは、まったく驚きです。


案内していただいた大城さんの住居。代々受け継がれた風格あるたたずまいが、圧倒的な存在感を放ちます。地域の暮らしがこの屋敷から見えてくる、と言っても過言ではない気がしました。


大城家を取り囲む石積みの一部。接合面をよく見ると、曲線や直線の組合せなどがあり、しかもそれらがみんなピタリと密着していることに気付きます。素晴らしいイシゼーク(石大工)の技量と、それを命じたエーキンチュ(豪農)の力に驚嘆させられました。また、ここまで凝った石積みにした理由は、耐久性もさることながら、腕を競う心理が彼らに働いたのではないかと勝手な想像を巡らしました。
(三嶋)

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【1 Minute Video】米須大綱曳

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糸満ロータリーの追加取材

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「しまたてぃ」の追加取材で、糸満に行ってきました。場所の再確認と動画撮影が目的です。
バス停の写真のほか、南山王・他魯毎(たるまい)の墓と、墓ン門小(ハーカンジョーグヮー)と呼ばれる、門中墓が集まった場所への入口の写真を掲載します。
詳しくは、『しまたてぃ』63号、ならびにWeb版「しまたてぃ+」を読んでね。
(三嶋)

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糸満追加取材

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 糸満の追加取材に行ってきました。
 写真のTシャツを市場で見つけ、意味を聞くと、白銀堂にまつわる有名な言い伝えで「意地出らば手を引き、手出らば意地を引け」という有名な教訓とのこと(まったく知りませんでした)。
 もとになった話は、糸満の漁民・美殿(ミドゥン)と、薩摩の廻船問屋・児玉左衛門との交流なのですが、驚いたのは、1964年8月21日の琉球新報に、薩摩の児玉左衛門が志布志の廻船問屋で、子孫が実在する事を郷土史家が確かめたという記事。
 きっかけは首里出身の比嘉景宗氏の調査で、志布志の高校教諭が協力して子孫を確かめたとの事。子孫の旧家には、琉球絣や古銭・焼物なども残されていたようです。
 ネットで調べると、山畑敏寛「志布志港の『みなと文化』」のなかに、左衛門は志布志の廻船問屋であった児玉伝左衛門実好であり、1764 年〜1800年ごろ海運業で活躍、1825(文政8)年、81 歳で没したと記されています。
(三嶋)

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