okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

中城の写真展が始まりました

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


中城の写真展が始まりました。
初日から、来場者が途切れることなく、いい出足です。
dscf1255
来場者の多くから、「懐かしいさあ」の言葉が聞かれます。
施設から車イスで訪れる方々も多く、写真を観ながらユンタクすることで、少しでも元気になれば嬉しいですね。
dscf1246
戦後初期のころを覚えている方は、写真展を行うたびに確実に減っています。
当事者ではなくても、家族や周辺から情報が得られればと思いますが、それも少なくなっている印象ですね。
<三嶋>

--------

 

中城の写真展が始まります

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


完成したばかりの中城村の護佐丸歴史資料図書館で、琉米歴史研究会の写真を中心とした展示会「笑顔が戻った日」が開催されます。
中城ではたしか2回目。以前は吉の浦体育館をフルに使い、死ぬほど写真を並べました。途中で年寄りが倒れるんじゃないかと、マジに心配しました。
今回は会場がほどよい大きさなので、以前のような心配はなさそうです。展示写真が500枚ぐらいなので、以前より準備も楽だろうと考えていますが……。
%e3%83%9d%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc0917
沖縄ある記も、「協力」の形で名前を連ねています。
dscf1220
護佐丸歴史資料図書館の1階展示室(入り口左)も、未体験の方はどうぞ。
以前も紹介したと思いますが、イラストや写真を多用したビジュアル年表が、分かりやすいんじゃないかと自画自賛しています。
<三嶋>

--------

 

中城護佐丸館

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


展示のプランニングに関わっていた中城村護佐丸歴史資料図書館が、5月30日(ゴサマル)に開館して約3ヶ月たちました。
これまでちゃんと見ていなかったので(笑)、この日、新鮮な気持ちで訪れ確認しました。

dscf0944
入り口部分。長さ7〜8m、高さ4m弱の壁面には、根間芳和さんが撮影した中城城跡のパノラマ写真。ロケハンをふくめて、4回目の撮影でようやく形になったものですが、でき上がるとかなり迫力ある仕上がりになったのではないでしょうか。

dscf0945
横長の壁面は、中城の成り立ちを絵巻的に配置しています。奥の方にはグスクの模型や、出土遺物も展示。体験スペースも広くして、子供たちにも親しんでもらおうとしています。
みなさんも是非、訪ねてみてください(宣伝になっちまいました)。
<三嶋>

--------

 

旧日本海軍と中城湾

 Category: Myある記  Comment : 0


戦艦武蔵が発見されたというニュースで、たしか中城湾にも来ていたはずと思い出し、少し調べてみました。
中城湾は明治期に軍港に指定され、北白川能久親王一行が台湾出兵の際に寄港(明治28年)したり、皇太子時代の昭和天皇を乗せた戦艦香取(艦長は沖縄出身の漢那憲和)が、渡欧の途中に立ち寄った(大正10年)ことなどが知られています。

昭和になると連合艦隊がしばしば入港し、大演習を繰り広げたようです。
昭和6年10月下旬には、戦艦榛名や巡洋艦、空母など64隻が中城湾に集結して大演習を実施。津堅島では飛来した水上機約30機が、近くの岩礁めがけて爆弾投下演習をして、島民を驚かせたこともありました(『津堅島教育百年誌・東海』)。


現在の中城湾。

戦艦武蔵が中城湾に入港したのは昭和19年6月22日。マリアナ沖海戦に参加したあと、戦艦大和・長門とともに中城湾で一息入れ、翌日には呉に向かったと記録にあります。
確認できたのは、今のところこれだけですが、それにしても不思議なのは、旧海軍に関する目撃談や証言があまりないこと。

開戦前夜の昭和16年8月から、臨時要塞となった中城湾では、一般人が軍の動向を見聞きできる状況ではなかったのでしょうが、それにしても連合艦隊や巨大な戦艦の姿を見たとなれば、誰かに話したくなるのではないでしょうか。
また、沖縄で本格的な疎開が始まるのは、昭和19年7月からですし、空襲が始まるのもこの年の十・十空襲ですから、6月に入港した武蔵や大和を見た人がいてもいいはずです。
証言や記録に出くわしていないだけなのかもしれませんが、う〜ん、気になります。


写真は中城湾に面するホワイトビーチ。戦前は日本軍、戦後は米軍が居座る状況からも、中城湾の重要性がうかがえます。

と、ここまで書いて、津堅島出身の嘉保博道氏のことを思い出しました。
1959(昭和34)年、第4次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」の甲板長として、沖縄から初めて南極に渡った人物です。
南極に向かう「宗谷」が津堅島の沖に達した際には、島中の人々が船に向かって手を振り、嘉保氏の家族を乗せて漕ぎ出した小舟に合わせて宗谷もしばし並走したのですが、感動的な船上の出会いと別れを伝える新聞報道に、沖縄中が沸き立ちました。
その嘉保氏を育んだ故郷が津堅島であり、少年時代に中城湾で見た戦艦陸奥や、戦艦長門の姿が、後年の海の男をかたち作ったようです。
晩年は島に帰り、静かに過ごされたようですが、中城湾に向かってどんな思いが去来したのでしょうか。

津堅島から見た中城湾
(三嶋)

--------

 

旗立岩

 Category: Myある記  Comment : 0


 中城村の「旗立岩」に行きました。以前(十年以上前だったと思う)来た時は、樹木に覆われて、どれが岩やらよく分からなかったものが、あら、ペリー関連の本にある挿し絵と同じで、不思議な感動を覚えます。
 それにしても、あそこに登って旗を立てるのは、結構たいへんだったはず。

1853年、ペリー提督一行の琉球・日本遠征に同行したハイネが描いた旗立岩
『写真が語る護佐丸の居城』(平成16年・中城村教育委員会発行)


写真ではよく分かりませんが、左側はガケになっています。近づくと、垂直に立つ大岩がすぐにでも崖下に転げ落ちそうで結構スリリング。地震が来たら・・・・見られるのは今のうちだけかもよ(笑)
(三嶋)

--------