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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

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「津覇ある記」を開催します

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沖縄ある記の月一行事、地域散策を、今回は中城村津覇で開催します。8月14日「中城村・津覇ある記」ですね。

なので、おヒマな方は、誰でも是非ご参加ください。お金は取りません。

中城村南上原と奥間をむすぶ道にある散歩道(東太陽橋)から見た津覇集落
津覇小学校前の国道329号。かつてケンドーとよばれ西原までサトウキビを運ぶトロッコも通っていた。今も村内を貫く重要道路として機能している。周囲にはマチヤグヮーもあったが、現在は姿を消した。
集落内に入るとスージグヮーが縦横に張り巡らされ、今も残る古のなごりを実感する。が、慣れないとこれが迷路のよう。初心者は確実に迷います(笑)

「津覇ある記」、時間は9時半集合で11時半までを予定しています。

集合場所は津覇小学校裏の駐車場です。

参加できそうな方はご連絡ください。よろしくお願いします。

<三嶋>

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『アメリカ世の軌跡』が店頭に

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『アメリカ世の軌跡』がいよいよ店頭に並びました。

今は那覇のジュンク堂だけのようですが、そのうち他の書店でも販売されると思います。

嬉しい反面、怖さも次第に感じてきました。

でも、今さらどうなるものでもないですし、開き直るほかないですね。

ジュンク堂に並んでいます(7月13日撮影)

<三嶋>

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安謝ある記

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毎月第2日曜日に実施している散策で、今月は那覇市安謝を歩いた。

以前に取材しているためボクが案内したが、みんな勝手にユンタクするので楽といえば楽だ(笑)。

マックスバリュー安謝店の裏から東に進む。この道はカニクグヮー道というらしい。そして東西に延びる丘陵地帯を右折して、集落の中心に近づく。
<写真:三上一行>
安謝小学校近くの内間商店。車が見える通りがメーミチという集落のメインストリート。北側の丘陵地帯から下る道の一番低い所で、この十字路から手前の安謝小学校に向け上り坂となる。
最近まで営業していた内間商店は、戦後、配給所だった所。その向こうの赤瓦屋根の建物が獅子を納める獅子家(シーシヤー)。 この辺から少し南東側に行くと、米軍牧港住宅地区(マチナトハウジング=現在の那覇新都心地域)が位置するため、そのフェンスが学校のそばから環状2号線に向かって伸びていた。
1970年ごろの安謝小学校前の通り。トンネルがある道路が国道58号で、戦前は急な坂道だったが、戦後、米軍がかさ上げして勾配を緩めたという。しかし、通学時に道を乗り越えて道路を横切る子供たちの事故が多発したため、安謝小学校の稲嶺校長らが陳情してトンネルを造らせたという。以前はトンネルの中で野菜などを売るおばさんたちもいて、世間話に花が咲くこともあった。「ぺんてる」の看板がある場所には、1960年代、ユーフルヤー(安謝湯)があったという。
<写真:安謝自治会>
かつての安謝港と思われる場所。安謝交差点から泊漁港に続く道路が見えるが、そこから海側が埋め立てられたため、港も消滅して街の中に消えることとなった。那覇港や泊港の利用が出来るまでのわずかな期間ではあったが、安謝港は闇貿易をも含んだ貴重な貿易港として存在し、造船所で働く人や物流関係者などで周辺はたいへんにぎわったという。
<写真:沖縄県公文書館>
米軍がアンカー・ヒルと呼んだ岩山。1945年5月9日、安謝川を渡って偵察に来た米海兵連隊の中隊は、ここで日本軍の攻撃を受け撤退している。琉球王国時代には処刑場だった場所で、現在は恵比寿神社が創建されている。 安謝は沖縄戦当時、安謝川を渡河した米軍(第6海兵師団第22連隊)と、それを迎え撃つ日本軍との間で激しい戦闘が行われた場所である。集落北側の高台の地下には、トンネルで連結された日本軍の強固な地下陣地があり、南下する米軍と一進一退の攻防を繰り広げたとされる。
<写真:沖縄県公文書館>
1945年3月30日、米軍の本島上陸の直前、艦載機から攻撃を受ける安謝。
<写真:沖縄県公文書館>

那覇新都心に隣接するだけに、安謝は古い集落から市街地へと変身しつつある。戦争や復帰前の記憶が薄れ、集落のつながりも希薄になりつつあるのかもしれない。しかし、地域の歴史は住民の共有財産であり、次世代に伝えるべき宝だけに、先達の歩みは伝えていって欲しいものだ。

安謝には龕屋(ガンヤー)も残っていて、行き場をなくした哀れを感じさせるが、その役割や歴史を記録し、次代に伝えることが重要だと思われる。

<三嶋>

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『アメリカ世の軌跡』発刊です!

 Category: 沖縄ある記  Comments : 2


お待たせしました!

昨年秋から制作していた書籍『アメリカ世の軌跡』がようやく完成し、発刊することが出来ました。

A4版・191ページ・カラー・2800円

いや〜長かったですね。見るたびに誤植や言い間違いが見つかって、修正を繰り返したので、やたら時間がかかってしまいました。

しかし、沖縄の戦後から「復帰」までの政治・経済・社会の動きを、詳細な年表と写真で綴った書籍はこれまであまり見たことがないので、画期的ではないでしょうか。自画自賛になりますが、「復帰50周年」だからこそ、復帰以前の戦後を知る必要があると思い制作した次第です。

いろいろ突っ込みどころがあると思いますが、どうぞ手に取ってご覧ください。

<三嶋>

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椿食堂と当之蔵界隈

 Category: Myある記  Comment : 0


先日、首里にあった椿食堂の方の話が新聞に掲載されていたので、そういえば昔、撮影したことがあったと思い出した。

それで引っ張り出したのが以下の3点の写真。いずれも1995(平成7)年8月の撮影である。

椿食堂。学生時代は、間借りしていた所から少し遠かったからか、行ったことはあまりない。すぐ近くに沖縄ソバで有名になった「さくら食堂」があったが、こちらも行った記憶はあまりない。卒業したころ閉店したように思う。
椿食堂のメニュー。400円、500円、600円といたってシンプル。(新聞にもあったよう)椿食堂は当時、近くにあった県立博物館の職員がよく利用していた。

自分はこの店より学校に近い食堂の方によく行った。確か230円の野菜炒めをよく食べていたように記憶している。椿食堂のメニューを見ると、「野菜おかず」が500円だから、約20年で2倍を超えるぐらいになる計算だ。

当蔵交差点。赤瓦の家は長い間あったように記憶している。角の所の板壁(写真では見えない)が、首里劇場のポスター掲示用のスペースで、扇情的なピンク映画のタイトルが、赤い筆文字で書かれて貼り出されていた。 交差点から向こうに走る小道が、前述の食堂(名前が思い出せない)や椿食堂に続く通りである。

龍譚通り沿いが観光とのバランスをとりながら再開発され、モダンで綺麗な建物が並ぶ現在の「当之蔵」(「当蔵」?)に、残念ながらボクらが生活していた頃の雰囲気はあまり残っていない。

首里城にも琉大の痕跡はほとんどない(記念碑があるけど)ため、ろくでもない学校ではあったにせよ、「跡形もないのはどうよ」と天邪鬼の血が疼く。

アメリカ世の遺産(傷痕)にフタをしたいのか、と日本政府の思惑を勘繰りたくもなるが、いい悪いは別として、特異な大学があったことは歴史的事実だからねえ。

<三嶋>

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