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大城ある記

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定例会で南城市大里にある、大城集落をあるいた。

同地は以前、別の案件で調査したことがあり、マップも作っていたので、その時のデータも今回使わせてもらった。

大城集落はすぐ北側に迫る山の頂に、大城グスクを抱えた“城下町”のような所。

伝統芸能も盛んで、かなり以前(2004年)には豊年祭の時に訪ね、綱引きとエイサーを見学したこともあった。今回は、以前のおさらいのような気持ちで、いろいろ思い出しながら集落をあるき、最後にみんなでグスクまで登ってかつての栄華を思い描いてみた。

大城集落の始まりは古く、稲作普及のため玉城から移り住んだ人々が祖先だとされている。

グスクの築城は、尚巴志以前に地域を治めた玉城按司の長男、大城按司・真武とされ、島添大里グスクとの闘いに敗れた話はよく知られている。

それは、はじめ優勢だった戦が、軍旗を持った部下が誤って倒れた時、それを見ていた真武の妃と長男が自軍が負けたと勘違いし、城に火を放って自害したため、それを知った大城按司・真武も自らの命を絶ったというもの。その墓が、市役所近くの道路沿いに建つ、独特の形をした大城ボーントゥ墓である。

大城グスクと南側の裾野に広がる大城集落。
2020年6月撮影
2004年8月に行われた大城の豊年祭。集落センター(公民館)前はスタンドのような形状で、広場を見下ろせるようになっているため、そこで行われる綱引きやエイサーを観戦するには、最高の場所となる。
集落とグスクの中間ほどの場所にあるノロ殿内の近く。ノロが使ったカーや、村建ての家の一つとされる上里拝所、「上のヘーリンツ」などがある。たぶん、「ヘーリンツって何だ?」とお思いだろうが、「門番」のことらしい。大城グスクに通じる道を警護した場所だとされる(林の南側に「下のヘーリンツ」がある)
大通り(県道86号線)近くの イージガーにて。
たまたま一緒になった人とでも、ユンタク出来るのはやはり楽しいもの。知らない人とでも、一緒に歩けば日常を忘れて会話も弾む。まち歩きの魅力の一つであろう。

このあと、大城グスクにみんなで登る(車で)。来たことがないという人が多いことに少々驚かされる。やはりシマが違えば、知らないことも増えるということだろう。

昨晩がちょうど綱引きだったと公民館で聞くと、急に見たかったなあという気持ちにもなったが、欲をかいてもしょうがない。天気にも恵まれて、ほどほどの疲れとともに帰途についた。

<三嶋>

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南城市大里の西原地区をあるく

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南城市大里の西原(にしばる・にしばら)は、島添大里城跡の城下町(ムラ?)といえる場所。集落の南には、大里グスク以前のグスクとされるギリムイグスクがあることから、一帯は古い時代から人々が暮らしていたことが分かる。

また、周囲が崖に囲まれていて、隣ムラまでが遠いため、ガイドを頼んだ新垣一也さん(中城村教育委員会)が言うには、「陸の孤島」とか。他所との接触が少なかっため、古い時代の歴史が今に残り、家のつながりや信仰などの面でたいへん興味深いらしい。確かに、集落が小さいにもかかわらず、あちこちに拝所があり、今も大切にされているようだ。

いっぽう、集落のあちこちに沖縄戦の痕跡があることも驚きだった。一般にはあまり知られていないのではないだろうか。整備して受け入れの体制が整えば、平和学習などでも利用できるのではないだろうか。

集落から見た南側の風景。中央部の平地から丘陵地までの一帯は、戦後、米軍が「バックナー・ビル」と呼んでいた。写真では見えないが、右側に連なる丘陵地に大城グスクがあり、大里グスクと闘って敗れた話はよく知られている。
戦前に積まれた屋敷の塀に残る銃砲の跡。交戦の現場だったのだろうか、近くには日本兵の死体がいくつかあったとの住民証言もあるそうだ。
ギリムイグスクの中にある、鬼ムーチーの伝説に登場する鬼の住処を遥拝する拝所。ムーチーの話は首里の金城町が舞台と思われているが(ボクもそう思っていた)、実はこの下にある洞窟がほんとの舞台らしい。
ギリムイグスクの下に位置する旧日本軍の陣地跡。名前はない。石灰岩をくり抜いた造りで、ノミの跡が残る坑道に入り、二手に分かれた道の右側を抜けると、平良・仲程方面をのぞむ場所に出る。
集落内に残る見事な石積み。個人宅の塀で、戦前、移民でもうけた先祖が造ったという。写真に写る側面だけでも30mは超えて続いていると思う。そのスケールと美しさは圧倒的で、驚かされる。

西原は、事前に聞いていたように、拝所と戦跡が今も暮らしに溶け込み、日常の風景として存在する場所だった。祖先に対する敬いも、戦死者に対する供養も日常と一体化して息づき、安寧に満ちた静けさが集落を包んでいるように感じた。
<三嶋>

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「津覇あるき」を行いました

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毎月第2日曜の恒例、地域散策で今回は中城村津覇を歩いた。

今月発刊される、しまたて協会発行の情報誌『宿道(しゅくみち)』で取り上げるために取材しており、せっかくなら誌面だけでなくリアルに紹介しようと思ったためである。

津覇は海沿いの小さな農村だが、大通り(国道329号)から集落に入ると、やはりここでしか見られない風景や事物がある。それを探し、学ぶことが地域散策の大きな魅力。名所や旧跡がなくとも(結構あるんだけど)、どの地域にも地域特有の歴史と暮らしがあり、次世代に残す文化があると思う。

この日は、津覇小学校裏の駐車場を起点に、国道を超えて集落を歩き、海岸まで行って折り返すコース。想像以上に暑い陽射しで、少しバテ気味の人もいたが、全員無事に乗り切った。

碁盤目のような形に縦横のスージ道が入り組む、昔ながらの集落形態。
西側の小学校から東にあるき、集落を通って海岸を折り返すコース。
津覇小学校に残る、戦災を生き抜いたクバの木。弾痕が残っていた部分の幹が枯れたため、現在は1本の幹しか残っていないが、たくましい生命力に驚かされる。
戦前からの石積みと思われる屋敷囲い。今風のコンクリート屋ばかりとなった集落だが、わずかに戦前の痕跡も残されている。それにしても、道幅の狭い筋道が縦横に入り組む集落内は、ヘタすると迷いそうになる。
津覇の海岸。南側に知念半島が見える。リゾート気分が横溢したような風景だが、中城湾岸の多くはコンクリートで固められ、自然のままに残る砂浜はわずか。埋め立て工事の影響で、タコがたくさん獲れたという、きれいな海は消えてしまった。
津覇のテラ近くに残る旧日本軍のトーチカ。六角形の分厚いコンクリートの塊に、四角い窓が4カ所空いている。上陸する米軍を迎え撃つためのものと思われるが、詳細は不明とのこと。林の中にひっそりと残る戦跡に、足を止める人はいるのだろうか。

津覇の村は、戦前からあまり変わらない農村地帯。

1966年の沖縄タイムスには、中城村で1番の人口がありキビの生産高も1番とあった。海沿いに広がる平地いっぱいにキビ畑が広がり、住民はこぞって黒糖生産に追われていたのだろう。

厳しい暮らしに追われながらも、隣同士で助け合いながら、村中が家族のような日常が繰り広げられていたのではないだろうか。

眩しい太陽と、焼けた道路の熱気で汗にまみれたが、慌ただしい日常からしばし切り離されたひと時を味わい、有意義な「ある記」となった。

<三嶋>

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「津覇ある記」を開催します

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沖縄ある記の月一行事、地域散策を、今回は中城村津覇で開催します。8月14日「中城村・津覇ある記」ですね。

なので、おヒマな方は、誰でも是非ご参加ください。お金は取りません。

中城村南上原と奥間をむすぶ道にある散歩道(東太陽橋)から見た津覇集落
津覇小学校前の国道329号。かつてケンドーとよばれ西原までサトウキビを運ぶトロッコも通っていた。今も村内を貫く重要道路として機能している。周囲にはマチヤグヮーもあったが、現在は姿を消した。
集落内に入るとスージグヮーが縦横に張り巡らされ、今も残る古のなごりを実感する。が、慣れないとこれが迷路のよう。初心者は確実に迷います(笑)

「津覇ある記」、時間は9時半集合で11時半までを予定しています。

集合場所は津覇小学校裏の駐車場です。

参加できそうな方はご連絡ください。よろしくお願いします。

<三嶋>

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『アメリカ世の軌跡』が店頭に

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『アメリカ世の軌跡』がいよいよ店頭に並びました。

今は那覇のジュンク堂だけのようですが、そのうち他の書店でも販売されると思います。

嬉しい反面、怖さも次第に感じてきました。

でも、今さらどうなるものでもないですし、開き直るほかないですね。

ジュンク堂に並んでいます(7月13日撮影)

<三嶋>

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