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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
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浦添城跡・前田高地をあるく

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今年、1回目の定例散策を行った。場所は予定を変更して浦添城跡と前田高地である。首里城以前の王城である浦添グスクは、上るティダ(太陽)を称えたことで知られるだけに、新年にふさわしく、明るく年頭を飾ろうかとのこじつけでもあるのだが。

前田高地は4、5年前のハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台であり、その影響で訪れる人も増えている戦跡。知らない人もいるのではと考え、再訪してみることにした。

駐車場から南側の小道を行くと、すぐ左手に見えてくるのが、集落の御嶽とされるシーマヌ御嶽。頭上を覆う樹木に圧倒されながらしばらく行くと、大きな入り口を持つガマが現れる。 戦時中は日本軍陣地が構築され、奥に進むと北側のガマに通じているとSさんが教えてくれる。壕内で非業の死を遂げた住民もいた、と語る体験者の話もあるそうだ。しかし、戦後の調査も不十分なままなのだろう。誰も責任を取らないまま、死者を放置したまま時間だけが通り過ぎている。
浦添城跡南側斜面で、昨年発見された約600年前の城壁を眺める。
城壁は沖縄戦で破壊されたほか、戦後には建築材料として多くが持ち去られているため、本物の石積みが残っていたことは大きな関心を呼び、見学会には700名もの人が押し寄せたという。(写真;佐藤)
浦添グスクの地下には、いたるところに日本軍の壕があり、互いに連結しながら米軍との死闘を繰り返した。写真は、「缶詰壕」と呼ばれた日本軍の食糧倉庫で、大量の缶詰が当時保管されていた。
同地で激戦を体験した沖縄学研究者の外間守善は、この壕に隠れた際、缶切りがないため目の前の缶詰を開けられず、大変苦しい思いをしたと『私の沖縄戦記』に書いている。そして、缶詰を食べている二人の古参兵に、缶切りを貸してくれるよう懇願するが断られ、一層悔しい思いを募らせるのだが、そのあと現れた米兵の機銃掃射で古参兵二人は亡くなり、奥にいた外間は助かることとなる。
何が生死を分けるのか分からない、不条理が支配する極限状況の中で、幾多の命が奪われ、偶然を手繰り寄せたわずかな人々が、かろうじてか細い命をつないだのだ 。
浦添グスクのある丘陵東端で、屹立する為朝岩(ワカリジー/ニードルロック)。近づいて見ると意外に小さく感じるこの岩の周辺で、北側の崖(ハクソー・リッジ)を登ってきた米軍と、南側の地下壕に籠もって撃退する日本軍との間で、血みどろの肉弾戦が繰り広げられた。
たくさんの墓が並ぶグスクの北側斜面上部は、絶好のビューポイント。眼下に見える西海岸の米軍上陸地点や嘉数高台などを眺めると、高所に拠点を置く戦略上の必然性に得心する (写真;佐藤)

映画公開の影響が続いているのか、同地を訪れるアメリカ人と思われる人々もちらほらと見られた。

彼らの父や祖父の血と涙が、この地を濡らしたことをどう思うのか、そして今も居座り続ける米軍基地をどう考えるのか、聞いてみたい気もするが、日米の国の壁は個人の思いなど構わない。78年前の凄惨な闘いなどなかったかのような陽気のもと、しかし有事になれば沖縄は再び戦場になるという現実を、改めて噛み締めた。

浦添城跡・前田高地MAP

来月12日は、「糸満ある記」を予定しています。興味のある方はご参加ください。詳細はご連絡いたします。

<三嶋>

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上大謝名・真栄原あるき

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12月の定例あるきは、宜野湾市の上大謝名~真栄原。

那覇に居てはつい忘れがちな、普天間飛行場を間近に眺め、赤線地帯だった旧「真栄原新町」の現在を確認することが、おもな目的であった。

上大謝名(うえおおじゃな)は、もともと大謝名だったが、戦後、多くの人々が流入して人口が増加したことから、1979年に大謝名から独立した字。

大謝名は那覇とコザの中間にあって、牧港や普天間の基地に近いことから、1号線沿いに店舗が立ち並び発展してきた。

1950年代から外人住宅が増え、そのご軍用地の開放が進んだことで、一層にぎわうようになったが、普天間飛行場を離発着する米軍機が居座ったままの状況は、今もかわらず続いている。

上大謝名公民館そばの駐車場から、フェンス越しに見える普天間飛行場。民間地では戦後の混乱を忍ばせるように家々が不規則に建て込んでいるが、きれいに芝生が刈り込まれたこの中は別世界。
清明祭の際には、フェンス内に残る墓の関係者は、拝みをするため米軍側の許可を得て立ち入ることとなる。理不尽が厳然と存在することを、思い知らされる場所である。
2006年8月撮影
佐真下ゲートからフェンス沿いに入った場所から、駐機するオスプレイを眺める。
この日は日曜日のためか人気がなく、飛行する機体も見られない。
しかし、静かな日曜の朝の状態に騙されてはいけない。飛行場のすぐ南に位置する嘉数地区の事務所に居た頃は、真上を通過する米軍機の騒音に悩まされたものである。

ちなみに普天間飛行場は、沖縄戦が続いていた1945年6月に米軍が建設し、8月には2本の滑走路も完成している。

基地が出来たあと、その周りに住民が住み付いた、と本土の作家が書いて話題になったことがあるが、それはまったくのデタラメ。もともとそこには住民の土地や家があり、米軍がそれを強制的に奪って基地を造った歴史は変えようがない。

米兵相手の飲食・風俗店街としてつくられ、復帰後もにぎわった真栄原新町。
敗戦直後は民間地域で売春が行われることも多く、一般の婦女子を守るためにも必要とされて、人里はなれたこの地に設置された。コザの八重島に次ぐ、本島2番目のエリアだったという。
当初は外人相手の風俗営業街として区画整理され、戦争未亡人などが身を売るケースが多かったようだ。その後、客は住民に変化し、本土復帰してからは観光客へと変化した。

しかし、女性の人権保護や青少年の健全育成を目的に、2009年頃からは市民総ぐるみの環境浄化運動が盛んになり、2010年には伊波洋一宜野湾市長の方針もあって市民参加の浄化運動が展開された。

そのため、2009年に110軒あった店舗の9割が閉店するほど街は衰退し、その後は廃墟のような場所と化してしまった。

かつての建物は次第に消え、これから街は生まれ変わっていくのだろう。

売春をもちろん是認するわけではないが、人々のさまざまな思いや、ざわめきが詰まった街が姿を変え、戦後史のひとつが消えてしまうかと思うと、複雑な心境ではある。

10年以上前の街並み。環境浄化運動が盛んになり、昼間から客待ちの女性がいることもあった店舗の多くは、すでに活動休止状態であった。2011年11月撮影

エリアマップ

<三嶋>

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島添大里グスクある記

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11月の定例ある記は、HPでも参加者を募集した南城市の島添大里グスク。9月にはグスク隣の西原集落、10月にはその南に位置する大城と歩き、いよいよ本丸が登場といったところだろうか。

天候不順が続いていただけに、朝から雨を心配だったが杞憂に終わり、なんとか無事終了した。

解説は9月に続いて新垣一也さん。素人にも分かりやすいシャベリで、とっつきにくいグスクの話や歴史も、何だか身近に感じることが出来た。

かつては遠足のメッカだった広場で、新垣さんの解説を聞く。
右側に見える拝所は、ウタムトゥノーイ。グスクに入る人が、ここで衣服のゴミを払ったり、身嗜みを整えたとされる場所。この上の広場が一の郭で、本殿があったとされる所。首里城正殿にも匹敵するほどの大きさではなかったか、という話に興味をひかれる。
かたわらにはその礎石(明らかに琉球石灰岩とは異なる)が、いくつも並んでいる。各地のノロが集まって拝みをする際、この石に腰を下ろしていたようだ。
(写真:佐藤)
一の郭の西側にある火ヌ神。
すぐそばにコンクリート製の立派な拝所が建つが、誰かが勝手に立てたものだという。
そのそばにあるグスクで一番高い場所に登ると、ティンチジという拝所があるが、ここも手前にある香炉の奥の、古い香炉跡がもともとのものとか。
グスクの西側に位置する、旧日本軍が掘った洞窟。
旧日本軍が、大型の大砲を設置するために掘ったもので、奥行きは3~4mほど。しかし、今では中に香炉が置かれ、信仰の場所と勘違いされて拝みも行われているようだ。
近くに大御嶽(ウフウタキ)という古い拝所があり、大切にされているとのことだったが、詳細はよく分からないとのこと。
わずかに残る石積み。
島添大里グスクの石積みは、尚巴志が首里城建設のために持ち出したという話や、旧日本軍が陣地建設のため壊したという話なども伝えられているが、詳細ははっきりしないようだ。
カニマン御嶽。
グスクの西の端にある拝所で、円筒形の石積みや、その上に置かれた宝珠が独特。大城按司の墓が思い出されるが、周辺の地域には同じ形のものがまだあるようだ。
葬られている人物が誰なのかは謎で、地元では渡来人とされ、その技術者たちの墓と考えられているようだ。カニマンという名称からすると、カンジャヤー(鍛冶屋)だったのかとも思うのだが・・・

この後、カニマン御嶽の下側にある遥拝所や、大御嶽の遥拝所を回ったが、一般庶民はそこまでしかグスクに近寄れなかったから遥拝所が必要だったとのこと。最初に見たウタムトゥノーイあたりから、カニマン御嶽までは城内であることから、関係者というか身分の高い人しか入れなかったということだ。

なるほど、本来なら、今日訪れたほとんどの場所は、ボクらのような庶民は見れなかった分けか。

ノロ屋敷のヒンプン。
グスクから離れて西原集落内に入り、9月に訪れていない場所を回る。このヒンプンは、大正時代のもの。戦時中の弾痕がはっきりと残り、凄まじさを今に伝えている。石積みの屋敷囲いも、長くて美しく見事なものである。

島添大里グスクと、その周辺の村々を3回にわたって回ったが、これにてひとまず卒業。三山が統一される以前の時代、首里が王都として栄える以前の話だから、いたる所で謎が渦巻き、古のロマンに満ちていたという印象。

グスクの話も、お城の人々がどんな暮らしだったのかとか、何を考えていたのかだとか想像を巡らせると、よく分からなくても、身近に引き寄せて感じられるし、それなりに楽しめるのではないだろうか。古の痕跡をたどる楽しさを、満喫した次第である。

新垣一也さんありがとうございました!

<三嶋>

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久場崎の引揚者上陸記念碑

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中城村の久場崎にある引揚者上陸記念碑が、移設されたと聞いたので確認に行ってきた。

それまで会社の敷地内にあったため、気づかなかった人も多いだろう。

新しい場所は、誰にも気兼ねせずに当時の姿を忍び、痛ましい時代の記憶と平和の尊さを後世に伝えるものになるのだろうと思ったのだが、あにはからんや、ただ場所を移しただけで、荒地に放置したようにも見える。

これでいいんですか、と天を仰いだ。

2022年2月、以前あった場所のすぐ近く、会社の敷地外に記念碑は移設された。

本土からの船を降り、この地に戦後沖縄の第一歩を記した人々は約10万人。その後、多くの人々が復興の担い手となっただけに、この地はまぎれもなく戦後沖縄の出発点の一つだ。

しかし、戦後沖縄の社会は生活にかまけ、さまざまな戦後の記憶を置き去りにしてきた。この記念碑もその一つだろう。

最初の引揚者の記念碑が建立されたのが、戦後50年経っていたことだけでも、そのことは明らかだろう。戦後50年もの間、引き揚げ者の苦労や思い出が、記念碑などの形で公式に慰撫されることはなかったのだ。そして、建立される時には、この地はすでに企業のものとなっていたのだろう。

戦後沖縄の歴史が、あまりにも軽くぞんざいに扱われている。

2001年8月撮影。記念碑の建立は1996年3月で、終戦50周年祈念事業の一環だった。
1946年夏、久場崎桟橋に引き揚げてきた人々。
この地で検査・DDTの散布を受けたあと、すぐ近くの久場崎収容所や、現在の沖縄市高原にあったキャンプ・キャステロ(インヌミヤードウイ)に移され、帰村まで数日を過ごした。1946年8月17日から12月ごろまで続いた引揚げで、10万人以上の人々が帰島したとされる。
(写真:琉米歴史研究会)

<三嶋>

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「島添大里城跡ある記」参加者募集

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


2022年11月12日(土曜日)、「島添大里城跡ある記」を開催します。

9月に、大里グスク南側の西原集落とギリムイグスクを歩き、10月に大里グスクと関係が深い大城城跡と集落を訪ね、今回、いよいよ大里グスク(島添大里城跡)を探索します。

当日の案内・解説は、中城教育委員会の新垣一也氏にお願いしてあります。新垣さんは大里出身で以前、南城市教育委員会にいた際に大里グスクについてもいろいろ調査・研究していた方です。

今回は対象がシロートなので、難しい話ではなく、ボクらのレベルに合わせた、面白くて分かりやすい話をしてもらえるものと期待しています。

暑さも和らいだこの季節、みなさまのご参加をお待ちしています。

わずかに残る石垣。首里城築城の際に持ち出されたため、無くなったという話も伝わっています。

よく分からないことが多い島添大里グスクですが、あちこちに残る拝所を訪れたり伝説などを聞くと、いっそう興味が深まることは確実です。

●実施日:11月12日(土曜日) 

●時間:午前9時30分~11時30分

●場所:大里城址公園体験交流センター前集合

●参加費:自由(基本タダです)

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