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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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南城市佐敷で「冨祖崎あるき」

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


原則、毎月第2土曜日に行っている「定例あるき」について、お知らせします。

今回は5月11日(土曜)、南城市佐敷の冨祖崎(ふそざき)です。

日時:5月11日(土曜)。午前9時30分〜11時分
集合場所:南城市佐敷冨祖崎の運動公園駐車場(公民館の駐車場が狭いため)
※国道331号を佐敷から来る場合、シュガーホールに曲がる信号の一つ先の信号(バス停「佐敷」の手前)を左折して、真っ直ぐ北に進むと公民館があります。そこを過ぎてさらに進むと、陸上競技場や公園の駐車場となります。

冨祖崎は海に面した小さな集落ですが、それだけに住民の結束が固く、地域活動も活発に行われているようです。
当日は、首里の屋取だったという歴史や、海との関わり、集落の変せん、天然記念物ハマジンチョウなどの話などが中心になると思いますが、ボクのように「難しい話はパスしたい」という人は、ユンタクだけでも構いませんので、みなさんで楽しみましょう!

当日は雨も心配ですが、大雨でなければとりあえず実施しますョ(迷う場合は電話ください)
以上よろしくお願いします。

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二つの展示会

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次の火曜日(4月23日)から、本部町と那覇市で二つの展示会が開催されるので、ご紹介します。

本部では「4・28写真展〜日本復帰へのエネルギー」と題し、本部博物館で5月12日(日曜)まで。これは私も関わっている「復帰50周年を考える会」が共催で、映画「パーランクーの響き」「石のうた」の上映と、本土で沖縄の返還運動に取り組んでいた中澤ひろや氏の写真などを展示するものです。

一昨年の3〜4月には、南風原文化センターで展示・上映会とフォーラムを開催しましたが、それ以降、あちこちで実施していますが、最近、写真展で話題となっている阿波根昌鴻さんも映画「石のうた」には登場しているだけに、伊江島・本部で披露する機会ができたことは、たいへん意義深いと感じます。

南風原文化センターの様子は、以前このHPでも取り上げたのでご覧ください。http://okiaruki.com/wordpress/?m=202204

もう一つご紹介するのは、リウボウ2fのアートギャラリーで開催される、「稲嶺成祚 絵画展」。4月23日〜29日(月曜)。

稲嶺氏は、ボクが学生時代にお世話になった絵画の先生で、今年で92歳になられます。毎年、リウボウで個展を開催されていますが、眼の調子が悪く昨年11月からは絵筆が握れないとのことで、新作の展示は今年が最後になると思われます。「首から下は元気なんだけどねえ」とおっしゃっていますが、直接お話しできる機会は少なくなりそうですので、是非多くの方にいらしていただき、励ましていただきたいと思ってお知らせする次第です。

ご来場おまちしております。

<三嶋>

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宇加地を歩きました

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


 一年ぶりに行う、恩納村の地域あるき。今年は村で一番西に位置し、読谷村と境を接する字、宇加地(うかじ)である。

 東に行くと塩屋、真栄田と続くが、もともと真栄田だったものが、1949(昭和24)年に塩屋とともに別れ、現在の姿になった。そのなかには与久田(よくた)、美留(びる)という集落もあり、前者は宇加地、後者は塩屋にぞくしている。

 また、宇加地は恩納村の中でも一番面積が小さく、一番人口も少ない地域だが、それだけに顔の見える付き合いが日常的な、結束の固い地域といえるだろう。

 当日も、想定以上に多くの住民の参加があり、楽しいユンタクをしながら歩くことができたが、声を掛ければみんなが集まる、まとまりの良さに感謝である。

 地元の方と直接触れ合う機会は少ないだけに、他所から訪れた者には嬉しいひと時であるし、地域の方にも刺激になったのではないだろうか。

公民館前に集合
ナーグシク(イイモー)と呼ばれる、集落の南にある小山

 ナーグシクの中腹にはコージガマがあり、沖縄戦の時には100人ほどの住民が避難した。そして全員助かったことから、今でもこのガマは大切にされ、子供たちの平和学習などにも利用されている。

国吉家の屋敷跡

 国吉家は、牛や馬などを売買するバクロー(馬喰)で財を成し、ヤンバルいちえんで知られたエーキンチュ(財産家)。今は広い跡地に草が生い茂っているが、近くの石切場から運んだ石で造られたワーフールや、カーがわずかに残り、当時の栄華をしのばせる。

 また、1960年代に41連勝し、沖縄の闘牛史に名を残す名牛「ゆかり号」を育てた家でもある。県道を渡った先にある砂浜は、かつて闘牛が開かれた場所で、多くの人が見物に訪れていたという。

闘牛を行なっていたという海岸。向こうの岩場が石切場だが、満潮のため行けず

 干潮時にしか現れない石切場は、かつて「鳩の家」を意味するホートゥヌヤーと呼ばれていた(そんなにハトが多かったんですかね)。

 写真では、石切場の向こうに残波岬の一部が少し見えるが、その先端部(右端)にはかつて米軍のミサイル基地があり、発射実験の際には住民もこの場所から見ていたそうだ(危ないな~)。

ソーシのテラ

 ソーシのテラは、与久田の海近くにある聖地。海から流れ着いたという二つの石が守り神として祀られている。

 子どもの健康や旅の安全を守る神といわれるが、「何にでも効果がある」との区長の説明には、参加者は怪訝な顔。だが、周辺地域や村外からも拝みに来るそうなので、あながち笑ってもいられないだろう。

 今回の「宇加地あるき」は、地域住民の参加も多く、本当に楽しく、無事に終えることができた。ユーモアたっぷりの徳村区長にも楽しませてもらい、感謝である。宇加地のみなさん、ありがとうございました!

<三嶋>

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3月30日(土)、恩納村宇加地を歩きます

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3月30日(土曜日)に、恩納村宇加地(うかじ)で「宇加地あるき」を開催です。

 宇加地は、読谷村長浜の東隣に位置する小さな地域です。馴染みがない人もいるかもしれませんが、足を踏み入れると、あ〜ら不思議、面白い!となること間違いなし。
 区長さんにガイドをお願いしているので、地元で知り得ないネタも教えてもらえますよ。地元の方も多少参加参加されるでしょうから、みなさんでユンタクしながら楽しんでください。

 天気もたぶんいいでしょうから(それはそれで水不足が心配ですが)、みなさんたまには恩納村まで遠出してみませんか?

日  時:3月30日(土曜) 午前9時30分集合、10時出発
集合場所:宇加地公民館(道路に案内板があるので分かりやすいです)
*詳細はチラシをご覧ください
*小雨決行です

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具志頭あるき

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 朝晩はいくぶん涼しくなり、歩くにはいい季節と思うこの頃。どこへ行こうかと悩んでいたが、あまり馴染みのない所を勉強しようと思い、八重瀬町の具志頭を選択。間違いやすいが、旧具志頭村の中心地である字具志頭である。

集合場所のJA前にあるガジュマル。具志頭のシンボルツリーとなっている

 ハナンダー(自然橋)や屋冨祖ガーなどを訪ねたあと、具志頭城址公園に行く。

 摩文仁の平和祈念公園にくらべると、訪ねる人は少ないが、住民が建立した魄水之塔のほか、甲斐之塔、土佐之塔という慰霊碑が建ち、周辺には住民が避難したガマも多数残っているようだ。

 沖縄戦における具志頭の経過は、いくつかの書籍などをみると、以下のようになるようだ。

 地域の人々は、1945(昭和20)年3月23日の空襲、24日の艦砲を受け、ようやく北部への避難が増加。具志頭村民の一部、約300人は金武村に集団移動する。

 地上戦が激しくなるのは6月5日。与那原・大里方面から南下した米軍が、具志頭付近に侵入。布陣する日本軍の独立混成第44旅団と、激しい戦闘が繰り返された。

 6月11日には、字具志頭・安里付近が米軍の猛攻を受け、玻名城東方の91高地を米軍が占領。抵抗する独立混成第15連隊第1大隊の大隊長以下20余名が、斬り込みを敢行するが、そのほとんどは戦死したという。

 そして、米軍は6月14日、八重瀬岳(米軍呼称ビッグアップル)頂上部を確保。17日には与座岳~八重瀬岳傾斜地における高地全部を支配した。

具志頭城跡から見える海岸。ギーザバンタ、摩文仁に続く眼下の海岸を、追い詰められた日本兵や避難民は、行きつ戻りつ逃げまわったのだろう。が、美しく輝く海を見ていると、戦争の悲惨とうまく重ならない。こんなにきれいな海を前に、凄惨な闘いが繰り広げられたのである。
集落の中に、今もひっそりと存在する避難壕のひとつ(アガリンダカリティダガマ)

 口を開けているガマは、人家の真下に伸びている。日常の中に、普通の姿で今も戦争が残っているのである。

 以前調査したというSさんの案内で、恐る恐る足を踏み入れた。石灰岩から落ちる水でぬかるんでいる所もあり、足場も不安定なため転びそうになる。割れた茶碗などが見える。戦時中は役所が書類なども運び込んだようだ。

20メートル程行き、道が左右に別れている地点で引き返したが、Sさんによれば、左にまだ続いているとのこと。

 短時間のガマ体験だったが、ジメジメとした暗闇の中での生活は、想像を絶する。頭の理解と肌感覚の相違に、今更ながらあきれ絶句した。

<三嶋>

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