摩文仁に残る戦争の爪痕を歩いて
2024年7月6日 Category: Myある記 Comment : 0
沖縄県平和祈念資料館友の会が主催する、「平和学習フィールドワーク」に参加した。昨年も開催され、山側のコースに参加したのだが、今回は海までのコース約400mを歩くとのことである。
「体力に自信のない方は参加しないでください」との注意事項のせいか、参加を見合わせた人もいたようだが、今回は、海岸にある艦砲射撃の弾痕を研究している、琉球大学の仲座栄三先生が解説するということもあってか、参加者が思った以上に多かった。
79年前、旧摩文仁村(現在は糸満市)の海岸では、米軍が海上から日本兵や住民に投降を連日呼びかけていた。6月20日には将兵800人、住民4,000人が投降している。
同日は、89高地(摩文仁の南東斜面)を守る小規模の日本軍が玉砕した日であり、翌21日、ガイガー米第10軍司令官が沖縄の確保を発表している。
6月23日は第32軍司令官の牛島満と参謀長の長勇が自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日であるが、終結の日は当初22日とされていた。1962(昭和37)年に摩文仁の丘で行われた、全琉戦没者慰霊祭も6月22日開催であり、琉球政府はこの日を「慰霊の日」と定め休日に指定していた。
しかし、3年後の1965年、「慰霊の日」は6月23日に変更された。その理由は、第32軍の高級参謀で1945年6月19日まで摩文仁に止まった八原博道が、著書『沖縄決戦』で、二人の将軍は23日に自決としたためとする説が有力なようである。
反対に、22日説としたのが米軍資料に基づく上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』で、ムタグチという司令部付調理人の証言を取り上げ、同日午前3時40分ごろ、通常礼装に身支度した牛島・長が壕の入口3mほどの所で切腹し、坂口大尉が介錯したと記述している。真相はどちらなのであろうか。
さて、われわれは「黎明之塔」から「健児之塔」に降り、チンガーを訪ねたあと「南冥の塔」の近くからいよいよ海岸を目指して道なき道を進んだ。このところ雨がないこともあり、猛烈な暑さである。生い茂る樹木と不安定な足場によろめきながら、慎重に足を進める。
緑の草木に覆われた、とてつもない大きな珊瑚があちこちに立ち、倒れ掛かり、いく手をさえぎる。とても普通に歩けるような所ではないが、岩や木につかまって体を支え、アップダウンを繰り返しながら海岸を目指す。
手で土を掘れるような場所はなく、横たわって体を休めるような平地もない。岩の割れ目などを見つけて隠れるしか、戦火を凌ぐ方法は無かったであろう当時を偲ぶ。
汗にまみれ、疲労を感じ始めたころ、ようやく波の音が聞こえる場所に来た。
岩と同化して動かない珊瑚礁の鉄片は、人気のない美しい海岸が、けれど紛れもなく79年前には戦場であったことを突きつける。
中国脅威論や台湾有事などがマスコミを賑わし、便乗して自衛隊のミサイル配備や基地設置などが続く沖縄だが、沖縄戦の実相を忘れた空論に踊らされている気がしてならない。
今こそ79年前を振り返り、戦争の愚かさと命の尊さを思い返す必要があろう。たった79年前の悲劇が、もう忘れられようとしている。
<三嶋>
平和祈念公園内でフィールドワーク
2024年6月25日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
平和祈念資料館友の会の事務局長である仲村真さんが、公園内の慰霊碑を解説するという「平和学習フィールドワーク」に参加した。
慰霊の日の前日で人が多く、クソ暑い日だったが、知らなかった慰霊碑を訪ねたり、仲村さんの話に驚かされたりしてイイ刺激を受けた。
特に旧日本領だった地の慰霊碑などは、十分な知識がなかったため持ち帰って調べることにした。ここでは、後日得た情報も合わせて記述したい。
1946(昭和21)年1月、北部に避難していた真和志村民4,337人は、摩文仁村の米須・糸洲に集められた。人々は、多数の遺骨が散乱する戦禍に荒れた村の姿に心を痛め、村長に任命された金城和信を中心に、遺骨収集と供養の許可を米軍から得た。
そして豊見城村に移動する4月20日まで、真和志村民は同地で収骨作業を続けたが、2月27日には「魂魄之塔」を建立(碑銘と和歌・翁長助静、文字・金城和信)し、546柱を合祀する慰霊祭を行った。
また、4月5日には、伊原集落の伊原第三外科壕の上に、「ひめゆりの塔」を建立している。
その後、摩文仁で建立された慰霊碑を列挙すると、1950(昭和25)年6月に沖縄師範学校健児之塔、1951(昭和26)年6月に島守之塔、1952(昭和27)年6月に黎明之塔などとなる。
そして1964(昭和39)年6月22日に、琉球政府主催第1回沖縄戦没者追悼式が行われる頃になると、摩文仁に「慰霊塔ブーム」が訪れる。
本土の各県が、競うように次々と慰霊碑を建てるのであるが、戦没兵士の「英霊」を賛美し、郷土や国家への忠誠心を讃える墓碑銘が多く、兵士は死しても国家の頸木から逃れられないのかと気が滅入る。
摩文仁の平和祈念公園は、「平和の礎」以外あまり県民も足を運ばない所だろう(ボクもだが)。
しかし、戦没者の骨は、兵士だけではなく一般のウチナーンチュのものも戦没者墓苑に祀られている。そして、今を生きるわれわれにつながっている。この地を過去のエリアとして葬るのではなく、未来に活かす聖地としたい。「新しい戦前」が迫る今だからこそ、あの戦争が何だったのか、自分に問いかける場所にしたいと思う。
<三嶋>
なんかモヤモヤ
2024年6月19日 Category: Myある記 Comment : 0
5月末のある日、暑いなか那覇新都心を歩いていると、アレ、なんか変?と、交差点で足が止まった。ちょっとした木陰を提供していたガジュマルの木が、ない!切り株が残るだけだ。
誰が?とか、勝手に切っていいの?とか疑問が湧き上がる。こんなに簡単に切られていいの?とも思う。
そして、怒りと悲しみが混ざったような、モヤモヤが湧き上がってきた。
いろんな思いが駆け巡るなか、そういえば、沖縄の街路樹に関係する新聞記事があったなあと探してみると、国際通りの記事がいくつか出てきた。
それによると、1954(昭和29)年2月には、クスとヤブニッケイ93本が植栽され、1955(昭和30)年5月には、本部町伊豆味からモクマオウ71本が運ばれて植えられている。
また、1958(昭和33)年7月には、「数年前に植樹されたヤナギの街路樹が詩情を詠んでいる」とある。ヤナギは、歌謡曲などで親しまれた「銀座の柳」にちなんで植えられたものだ。
しかし、これらの街路樹が、いずれも定着しなかったのはなぜだろう。行政の資金難なのか、市民にそんなゆとりはなかったのか、それとも愛情不足なのか。
1968(昭和43)年2月15日の沖縄タイムスには、「沖縄で緑化運動が広がるが、那覇市内の街路樹は大切にされていない」の記事も見える。
たかが街路樹1本のことだが、アレコレ考えていると、いろんなことが浮かんできた。
そういえば学生時代、先生の一人が「沖縄のヤシが風景を変えてしまった」と嘆いていたなあ。本土復帰あたりを境に、トロピカルイメージを売りにする沖縄観光にとって、南国のイメージづくりにヤシは欠かせないアイテムだった。
何だか、切られたガジュマルのことを考えているうちに、まとまりのない話になった。
そして、なんかモヤモヤする気持ちは、おさまらないままである。
<三嶋>
「知花あるき」終了しました
2024年6月15日 Category: 沖縄ある記 Comment : 1
心配していた天気にも恵まれ、「知花あるき」が無事終了。案内していただいた池原秀幸さんや、地元の皆さまに感謝します。
「知花」と聞くと、ボクなどは「知花弾薬庫」を思い出す世代だが、調べると弾薬庫は知花の西側、正確には嘉手納町久得に位置している。米軍が適当に呼んでた名前がそのまま残ったのだと考えるが、これも戦後史の一断面ではないだろうか。ましてや、そこで働いていた地元の方もいた(いる)分けなのだから。
井上幾太郎は、Googleで検索すると1927(昭和元)年~1933(昭和8)年に陸軍大将だった人物。
建立の時期が思った以上に古いことにちょっと驚いたが、忠魂碑が一般化するのは日露戦争後であり、明治末期からは在郷軍人会が主体となり、遺族会なども運営管理していたとある。
井上幾太郎の名は、全国に残る多くの忠魂碑に刻まれていることから、この頃がブームだったのかとも思うが、よく分からない。
知花グスクは、鬼大城(大城賢雄)の墓があることもあって、よく知られたグスク。しかし、城主が誰だったか不明で、石積みなども確認されていない。この日は時間の関係で頂上へは登らなかったが、少し前に登った際には以前あった展望台も今はなく、周辺の樹木に遮られて眺望もあまりよくなかった覚えがある。
知花グスクから大通り(県道74号線)を横切り、比謝川の支流・知花川沿いに歩くと、知花焼の窯があった所に出る。現在はまったく姿を変え、痕跡もないが、壺屋焼以前は重要な焼き物の産地だったという。
写真左には涌泉があり、橋の下を流れる川に注いでいたが、1950年頃の改修工事で水路が変わり、川としては機能しなくなってしまったようだ。地元から参加したお年寄りに聞くと、子供のころはこの川で泳ぎ、魚を獲って遊んでいたという。
知花公民館の南東にあるスジ道は、鬼大城(大城賢雄)が、越来グスクから知花グスクに逃げたルートだと池原さんがいうと、そんな記録もあるのかと一同驚いたが、地元の方の鬼大城に寄せる強い思いにも驚かされる。
ボクはベトナム戦闘の頃から、知花弾薬庫の名称を聞いていた記憶があり、「知花」には「戦争」と結びついたイメージを持っていたが、今回のあるきでイメージが改まり、知花は伝統や集落のつながりが今に残る地域だと痛感した。
マチ化が進むなかで、伝統がないがしろになるではないかとの危惧もあるが、池原さんのように情熱を持って地域活動に取り組み、地域の未来を作っていこうとする人たちがいる限り、地域の絆はこれからも続くのだろうと確信した次第である。
<三嶋>
「知花あるき」のお知らせ
2024年5月30日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comment : 0
6月の「定例あるき」は6月8日(第2土曜日)、「知花あるき」を行います。誰でも参加自由ですので、お暇な方は是非ご参加ください。
沖縄市知花では、奉安殿や知花グスクなどが知られていますが、そのほかにも、歩かないと分からないような場所などあります。
案内は、老人会や子供会活動に汗を流し、地域散策なども実施されている池原秀幸さん。地域に対する思いが強く、熱気をほとばしらせて語る方なので、誰でも楽しくユンタクできるんではないでしょうか。
●日 時:6月8日(土曜日) 午前9時30分〜11時30分
●集合場所:ワッシュランドちばな店(池原さん経営のコインランドリー店)
●見学内容;忠魂碑・奉安殿〜知花グスク〜鬼大城の墓〜公民館〜獅子屋など
季節柄、雨降りが心配されますが小雨決行。大雨の場合は中止、迷ったら電話ください。
※ボクは「ハレ男」ですから普段あまり心配してませんが(笑)
※資料代として200円をご用意ください。