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本部半島今昔

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このところ、本部町に出没する回数が増えています。
今日は、以前から撮影ポイントが気になって探していた、NPO法人琉米歴史研究会が所有する写真の場所をあれこれ尋ねてきました。
結果、たぶん、ここで間違いないと思う2カ所をご報告です。

(1)屋部の海岸
名護の市街地から名護湾沿いに走って屋部に入ると、ホテルの手前に二つの岩が見えてきます。


この日は大潮にあたっていたため、かなりの部分が干上がっていましたが、普段は海中に没している岩です。
同じ場所から、戦後まもない時期に撮影されたカラー写真が、以下ですね。

岩の形から、撮影されたのはこのあたりでしょう。
時期は情報がないのでわかりませんが、1950年前後ではないでしょうか。
婦人が頭に乗せたバーキ(カゴ)に、シークヮーサーにしては大きなオレンジ色のミカンが見えます。名護の市場に売りに行く途中なのでしょうか。
遠くの陸地は、名護湾越しに見える恩納村と思われます。

(2)本部の漁師村
本部町の渡久地港は、戦前からやんばると那覇を結ぶ航路の要衝であり、同時にカツオ漁が盛んな漁師町としても知られていました。
大正時代には40隻ものカツオ船が活躍し、たくさんの鰹節が出荷されていたそうです。

しかし、エサ不足や不漁、漁師の高齢化などの要因で、現在はカツオ漁はほぼ途絶え、渡久地の町も、海洋博時に完成した本部大橋の開通をさかいに、かつての活気は遠のいてしまったようです。

ここで紹介する写真は、1952(昭和27)年ごろの本部町大浜、大小堀川(ウフグムイ)の集落。

網の手入れを行う漁師の傍らのカゴは、直径2mほどもある生簀(いけす)です。ジャコーバーキと呼ぶ、カツオのエサにするスルル(キビナゴ)を入れるもので、山からとって来た竹を使い、自分たちで作ったそうです。

本部町渡久地・谷茶では、戦後おこなわれた大規模な埋め立てで、海岸線が大幅に遠ざかったため、写真に写る海人たちも、この場所では操業が困難になったものと思われます。
大通りの三叉路が目の前を通り、大型スーパーが海を遮って立地する現在の風景から、かつての生業を想像することは不可能でしょう。
<三嶋>

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「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」のこと

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県立博物館・美術館で、2011年に開催した「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」は、今にして思えば懐かしい記憶ですが、テーマは、今も古びていないように思います。

キーワードとなった「ちゅくいむじゅくい」は、建築家の佐久川一さんが提示し、そのおかげで曖昧だったプロジェクトに一本スジが通って、一気に作業が前進したことを覚えています。
言葉の意味は「手作り」となるのでしょうが、それだけでなく、手近にあるモノや知恵を生かして何かを産み出す力やセンス、創意工夫の意義なども含む、生き方を示している言葉のように感じます。

フランス語には、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」という意味の、「ブリコラージュ(Bricolage)」という言葉があるそうですが、これも同義でしょう。
これらの言葉の背後には、人生を幅広くとらえる価値観があり、費用対効果ばかりが問われる現在の閉塞状況の中では、それが、新鮮に映っているように思います。

で、実を言うと、そんな生き方や感覚こそ、ウチナーンチュが元来備えていたものではないか、というのがボクの持論なのです。

合理性や計画性がなく、洒脱な表現などは出来なくとも(結構失礼ですね)、目の前にあるモノやワザを駆使して、何かを作り出そうとする感性や、のんびりと一連のプロセスを楽しむイイ意味のルーズさが、この島には備わっていると思うんです。
島嶼環境の過酷な暮らし生み出したものなのかどうか、よくわかりませんが、とにかく強い生をつなごうとする本能が、荒廃した戦後社会の暮らしを、庶民レベルで支えてきたことは確かでしょう。


県立博物館・美術館で開催した「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」では、佐久川一さんのアイデアで、かつて身近な素材だった竹と建築との関わりを考えるワークショップを行い、竹のオブジェをみんなで創りました。

名護の島袋正敏さんの協力を得て竹を切り、ワラを綯い、星型に組んだ竹を骨格にして、細く裂いた竹をまわりに編み込んでいく大きなミノムシのような作品は、会期中も観覧者が差し込む竹で成長を続けました。


内部にできたトンネルを歩くと、出口では海の映像が壁面に映し出される仕掛けでしたが、それは、竹(自然)を背にして眼前に海を眺めて暮らした、かつての集落(暮らし)を想起させるものでした。

自然と暮らしが密着していた時代が遠ざかり、自然は管理できると戦後の私たちは思ってきましたが、3.11の災禍を見れば、それが幻想だったことは明白でしょう。
少子高齢化、人口減少が喫緊の課題となった今日、単なるノスタルジアではなく、生き延びる術の一つとして、「ちゅくいむじゅくい=ブリコラージュ」の思想に学ぶことは、決して無駄ではないと思えてなりません。
<三嶋>

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『しまたてぃ』No.80が発刊されました

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今回は本部町渡久地の市場や十字路界隈、満名川周辺を、中村英雄さんの案内で歩き、氏の体験などを交えながら、戦後の町の変遷を書いています。是非ごらんください。


しかし、今季号で特に読んでいただきたいのは、「沖縄の公共建築を考える」と題した特集のなかにある、戦後の建築史年表(みたいなもの)。ボクの原稿を下地吉高がうまくレイアウトしてくれたので、「読んで面白い年表」が出来た(しかも8ページも)と自負しているのです。


沖縄戦後の建築史は、2011年に県立博物館・美術館で「ちゅくいむじゅくい 風土と建築展」を開催したことがきっかけとなり、かなり関係資料を集めていたので、ページに納まるよう割愛するのに苦労しました。紹介できなかったネタも多かったんで、それが少し心残りですね。
<三嶋>

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本部追伸

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『しまたてぃ』の追加取材と、場所がわからなかった琉米歴史研究会所蔵の写真のひとつを確かめようと、本部町に行って来ました。


背後に見える島が、右端の形から瀬底島ではないかと玉城一男さんが指摘していましたが、比べてみると見事、ピタリと一致しました。
ずっと恩納村の名嘉真ふきんではないかと考えていたので、けっこう驚きました。思い込みはいけないですね。
次に、写真左の松が生えた岩はどこだろうかと探した結果、次の場所ではないかと思い、撮影してみた次第(いまいち説得力に欠けますが)。


でも、現在の道路の右側が海だったことは、中村英男さんも話していました。
狭かった本部港南側の土地を拡大するのは住民の悲願であり、戦後の埋め立てが続いた結果、今の街並みが出来上がったことになります。


山の上から見た本部町谷茶。渡久地港の前にかかる本部大橋や、伊江島も一望できる場所。だからこそ、戦時中には、敵を監視する見張所(監視哨)が置かれたのでしょう。


ということで、お馴染みの中村英男さんに案内してもらい、監視哨を訪ねました。
中村さんは15歳の時、「十・十空襲(1944.10.10)」の前日、9日の夕方までこの場所で実際に勤務していました。
ここでは米軍機のシルエットを覚えたり、遠くに見える伊江島タッチューの高さを目安に、飛行機の高度を推定したりしていたそうです。

痛ましいのは、任務を引き継いだグループの中にいた同級生(比嘉君)が、空襲のさなかに亡くなったことで、一番若かった彼は、空襲で電線が不通となったため、敵機来襲を那覇に伝達する指示を受けて山道を駆け下り、近くの本部警察署を目指したのですが、その後、消息が途絶えてしまいました。
この同級生の死はほとんど知られておらず、今は語る者もいなくなったそうですが、その中村さんも「十・十空襲」で壮絶な体験をしたことは、以前ここで書いた(はず)と思うので割愛です。
<三嶋>

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喜瀬武原あるき本番

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喜瀬武原あるき本番。どれだけの人が集まるか、直前まで心配でしたが、区長はじめ地域のお年寄りや子供達も参加。結果オーライでしたね。


農村広場に集合し、顔合わせして出発。
散策にはうってつけのいい天気ですね、と知り合いになったお婆さんに声をかけると、だから彼岸用のキクの出荷でみんな忙しいとのこと。この数日がそのピークのようで(知らんかった)、思ったより参加者が少なかったわけが判明した次第。


戦時中の弾の跡が残る壁。何気なく呟いたお婆ちゃんの一言で、みんなビックリ。地元の若いお母さんも知らなかっ田とか。
すぐ近くの拝所、御待毛(ウマチモー)でも、以前の古い祠に弾痕があったということです。


喜瀬武原公民館の名が壁に残る建物の前で休息をとりながら、体験者の話を聞きました。ここには以前、共同売店や精米所もあり、薪や木炭の集積場にもなっていたため、ムラの人たちがいつもユンタクする和みの空間だったようです。
「陸の孤島」と例えられる時代が続いたこの地で、人々は多くの労苦を重ね、現在のムラを築いて来ました。身をもって体験した方々は今、誇りとともにその歴史を子供たちに伝えようとしています。
<三嶋>

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