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城間の戦跡をあるくフィールドワークに参加して

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 摩文仁に引き続き、平和祈念資料館友の会主催で行われた「浦添城間アイテムポケットとマチナト飛行場」という、フィールドワークに参加したのでその報告。

 浦添市城間の北西部に位置する、米軍がアイテムポケットと呼んだ地域である。

 小生は以前、一人で訪ねたことがあり、よく分からないまま引き返したことがあったので、リベンジのつもりだったが、今回は事務局長・仲村真さんの詳しい解説のおかげでいろいろ分かったことがあるし、収穫が多かった。関係者に感謝である。

 友の会で作られた冊子を読むと、城間アイテムポケットでは1945年4月20日から27日にかけ、日米両軍の凄まじい攻防が展開され、突破した米軍は、中飛行場(戦後キャンプ・キンザー)まで一気に進撃したようだ。

 同時期、日米両軍は東シナ海~太平洋を結ぶ線上にある、安波茶や伊祖、宮城、屋冨祖、西原などでも激戦を展開していた。そして、宜野湾村の嘉数高地における攻防戦では終結が近づきつつあり、前田高地(ハクソー・リッジ)では闘いがピークを迎えつつあった。

メイクマンの屋上から見たキャンプキンザー。基地を削って走る道路が、2018年3月に開通した県道浦添西原線(港川道路)。写真手前の樹林には、道路に沿う形でシリン川(小川)が流れ、斜面に造られたいくつもの壕が残っている。写真中央の丘がライアン高地

 キャンプ・キンザーでは、かつての丘陵地隊も今は削られ、形を変えているが、日本軍の機関銃陣地が配置されていたライアン高地は、まだ形をとどめているようだ。ここでは地下にトンネルが張り巡らされ、頑強な蜂の巣のような防御施設だったとされる。そして、日本軍第62師団第64旅団の独立歩兵第21大隊、2個中隊の兵士600人と、数百人のウチナーンチュが守りを固めていた。

琉球ダイハツの西側の森に沿って、いくつも残る壕の跡
壕を見学する参加者。80代の方も元気に参加し、若い女性の姿を多数見かけるなど、みなさんの関心も高かった
アイテムポケット。ドリーネ(石灰岩がすり鉢状に削られた所)から続く、川底が枯れたような場所。キャンプキンザーの廃棄物なのか、コンクリート片なども多く散らばっている
デッドホース(死馬)渓谷。日本軍が軍馬を避難させていたと思われる場所。岩陰に残る黒く焼けた跡は、米軍の火炎放射器のせいと思っていたが、『沖縄 日米最後の戦闘』には、4月21日の攻撃に失敗した米軍の第3大隊K中隊が、負傷兵を洞窟に隠して後退した翌朝、日本兵が手榴弾や松明を洞窟に投げ込んで負傷兵を追い出し射殺・窒息死させたとあるので、その焼け跡なのかもしれない
最後に訪れた、米軍がポッター尾根と呼んだ付近に残る戦前の墓。横に流れるような爆発痕、弾痕があることから、至近距離で破裂したのではないかということだった。

 資料によると、アイテムポケットでは特に4月25日から26日にかけて、闘いがピークを迎えたようだ。

 25日にライアン高地に到達した米兵31人は、20分間の戦闘で31人の日本兵を殺害する。彼らには平均6発の銃弾しか残っていない状態だったというが、支援を受けて奮戦し、26日の激戦を制して、夜までにアイテ・ポケットを制圧する。

 そのなかには、日本兵10人を射殺した海兵隊員や、仲間の負傷に激怒して日本軍陣地に突入し、穴から穴へ走りながら日本兵を殺害した隊員の話なども紹介されている。さまざまな闘いが数えきれないほどあり、そして幾多の兵士が死傷している。

 多くの若者が兵士として戦場に送られ、死を迎え、生き残った。言うまでもなく闘った兵士一人一人には名前があり、家族があり、夢や希望があったはずだ。生身の個人がそこにいたことを、改めて思う。

 今となってはその多くは忘れられようとしているが、私たちの今は、彼らの闘いの延長上にある。愛国者を讃えよと言うのではない。ただ、名も知られないまま消えた命が、数知れずあった事実を忘れてはならないと、今更ながら思うのである。

<三嶋>

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摩文仁のフィールドワークに参加して

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 平和祈念資料館友の会が行った、「沖縄戦終焉の地 摩文仁丘陵の深部を行く」というフィールドワークに参加したので、ご報告。

 体力のない人や子供の参加が除かれ、ヘルメット・手袋着用などの条件が付けられたが、それも仕方がないと思われるほど険しいコースだったが、たいへん有意義であった。戦後、ほとんど人が入ったことがないという場所を歩くという、貴重な体験をすることが出来たし、この地で生き残った方の体験を聞き取った方の話を聞くこともでき、充実した1日となった。

 草刈りやコース設定、資料の準備など、準備段階の苦労を考えると、友の会事務局長の仲村真さんや、関係者の苦労は大変だっただろうと想像する。みなさんに感謝である。

南冥の塔の奥から密林に入り、師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいた壕などを訪ね、崖を登って摩文仁集落の畑に出るコース
1961年7月撮影(沖縄県県公文書館)。南冥の塔は1954年9月14日、ハワイの二世兵士・山本達雄氏が、戦死者を悼み自費で建立。1万2千柱が弔われている
(琉球新報1977.6.25朝刊)
大きな琉球石灰岩が入り組んでいる地形で、足場が悪く、アップダウンを繰り返すコース。まとわり付く草木を払い除けながら進むと、あちこちに潜り込めるような隙間が見える。
事前に友の会の人たちが見つけていた砲弾の破片

 砲弾はまさに鉄の塊である。それが破裂して不規則に飛び散り、燃えながら飛んでくるのである。展示会などで、破片を持ったことがある人もいるかと思うが、予想を超える重量に驚いたのではないだろうか。

暗闇の中で、78年の時を重ねた壺やビン、クシ、靴底などの破片が生々しく迫る
数メートル下がった岩の割れ目から、身を縮めて入った洞穴。戦火に追われた住民や、
日本軍の兵士が潜んでいたのだろうか
師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいたとされる壕。あまり見たことがない様な、大きな琉球石灰がいくつもそそり立つ間に、ポッカリと出来た空間で休息し昼食を取った
最後の関門。30メートルほどの崖を上ると、集落の崖下墓(按司墓?)がある場所に出る。そして自然に出来たと思われる「通り穴」を抜けると、ようやく地表に戻った気分である

 「通り穴」を抜けた斜面にある1メートルほどの岩は、学徒隊の友人をそこで亡くした方が、よく弔いに訪れていたという話を聞く。

 負傷して動けなくなった友人を担いてここまで来たが、手榴弾を渡したまま別れ、背後で自決する爆発音を聞いたことから、戦後もずっと苦しんでいたとのこと。ある時には、蝶々がまとわりついて離れなかったそうで、これは友人の魂が還ってきたと語っていたそうである。

 帰宅して思い出したが、そういえば同じ様な話があったと調べたら、デール・マリッジという米国人が、『日本兵を殺した父』(原書房・2013年)という本の中でご本人を紹介していた。山田義邦という方である。

 著者のデール氏はボクとほぼ同じ年齢だが、沖縄戦でPTSD(心的外傷後ストレス)となった父親が死去したあと、父親が体験した沖縄戦を本格的に調べ始める。資料を集め、生き残っていた父親の中隊の戦友たちに会い、沖縄を訪れ、父親のPTSDの原因を突き止め、父親の追体験をしている。その中で前述の山田氏にも会い、話を聞いたのである。

 精神を壊した兵士の話は、シュガーローフの戦闘などで多く発生したというが、勝利者として母国に引き揚げたあとの人生にも、戦争が陰を落としていたということは、これまであまり省みられなかったと思う。 

 アメリカでさえそうだから、ましてや日本では相当の数の元兵士が苦しんでいたはずだ。今となっては遅すぎるのだが。戦争は兵士の家族まで壊すと改めて思う。

 貴重な体験をさせてもらい、いろんなことを考えさせられたフィールドワークであった。

<三嶋>

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3月11日(土曜)、冨着を歩きます

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恩納村で毎年行ってきたムラ歩きが、コロナで中止になっていましたが、今年、復活しました!

恩納村教育委員会のお手伝いで、これまで6カ所の字をまわり、地図とテキストを村立文化情報センター(図書館)1階のPCに納めてきましたが、その事業の復活ですね。

で、今回の舞台は、字冨着(ふちゃく)。

那覇から行くと、仲泊で分岐する交差点を左折し、旧道を直進。ムーンビーチとタイガービーチを過ぎ、右側にあるゴルフ場に入るようにして小さな交差点を右折すると、集合場所の冨着公民館です。

コースはここから山の上に向かい、集落跡(拝所群)を回って海に向かって下り、海岸端にあった旧公民館跡などを訪ねる予定です。

参加費無料ですので、ご希望の方はお気軽にご連絡ください。

好天を願いつつ、みなさまのご参加をお待ちしております。

<三嶋>

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浦添城跡・前田高地をあるく

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今年、1回目の定例散策を行った。場所は予定を変更して浦添城跡と前田高地である。首里城以前の王城である浦添グスクは、上るティダ(太陽)を称えたことで知られるだけに、新年にふさわしく、明るく年頭を飾ろうかとのこじつけでもあるのだが。

前田高地は4、5年前のハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台であり、その影響で訪れる人も増えている戦跡。知らない人もいるのではと考え、再訪してみることにした。

駐車場から南側の小道を行くと、すぐ左手に見えてくるのが、集落の御嶽とされるシーマヌ御嶽。頭上を覆う樹木に圧倒されながらしばらく行くと、大きな入り口を持つガマが現れる。 戦時中は日本軍陣地が構築され、奥に進むと北側のガマに通じているとSさんが教えてくれる。壕内で非業の死を遂げた住民もいた、と語る体験者の話もあるそうだ。しかし、戦後の調査も不十分なままなのだろう。誰も責任を取らないまま、死者を放置したまま時間だけが通り過ぎている。
浦添城跡南側斜面で、昨年発見された約600年前の城壁を眺める。
城壁は沖縄戦で破壊されたほか、戦後には建築材料として多くが持ち去られているため、本物の石積みが残っていたことは大きな関心を呼び、見学会には700名もの人が押し寄せたという。(写真;佐藤)
浦添グスクの地下には、いたるところに日本軍の壕があり、互いに連結しながら米軍との死闘を繰り返した。写真は、「缶詰壕」と呼ばれた日本軍の食糧倉庫で、大量の缶詰が当時保管されていた。
同地で激戦を体験した沖縄学研究者の外間守善は、この壕に隠れた際、缶切りがないため目の前の缶詰を開けられず、大変苦しい思いをしたと『私の沖縄戦記』に書いている。そして、缶詰を食べている二人の古参兵に、缶切りを貸してくれるよう懇願するが断られ、一層悔しい思いを募らせるのだが、そのあと現れた米兵の機銃掃射で古参兵二人は亡くなり、奥にいた外間は助かることとなる。
何が生死を分けるのか分からない、不条理が支配する極限状況の中で、幾多の命が奪われ、偶然を手繰り寄せたわずかな人々が、かろうじてか細い命をつないだのだ 。
浦添グスクのある丘陵東端で、屹立する為朝岩(ワカリジー/ニードルロック)。近づいて見ると意外に小さく感じるこの岩の周辺で、北側の崖(ハクソー・リッジ)を登ってきた米軍と、南側の地下壕に籠もって撃退する日本軍との間で、血みどろの肉弾戦が繰り広げられた。
たくさんの墓が並ぶグスクの北側斜面上部は、絶好のビューポイント。眼下に見える西海岸の米軍上陸地点や嘉数高台などを眺めると、高所に拠点を置く戦略上の必然性に得心する (写真;佐藤)

映画公開の影響が続いているのか、同地を訪れるアメリカ人と思われる人々もちらほらと見られた。

彼らの父や祖父の血と涙が、この地を濡らしたことをどう思うのか、そして今も居座り続ける米軍基地をどう考えるのか、聞いてみたい気もするが、日米の国の壁は個人の思いなど構わない。78年前の凄惨な闘いなどなかったかのような陽気のもと、しかし有事になれば沖縄は再び戦場になるという現実を、改めて噛み締めた。

浦添城跡・前田高地MAP

来月12日は、「糸満ある記」を予定しています。興味のある方はご参加ください。詳細はご連絡いたします。

<三嶋>

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上大謝名・真栄原あるき

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12月の定例あるきは、宜野湾市の上大謝名~真栄原。

那覇に居てはつい忘れがちな、普天間飛行場を間近に眺め、赤線地帯だった旧「真栄原新町」の現在を確認することが、おもな目的であった。

上大謝名(うえおおじゃな)は、もともと大謝名だったが、戦後、多くの人々が流入して人口が増加したことから、1979年に大謝名から独立した字。

大謝名は那覇とコザの中間にあって、牧港や普天間の基地に近いことから、1号線沿いに店舗が立ち並び発展してきた。

1950年代から外人住宅が増え、そのご軍用地の開放が進んだことで、一層にぎわうようになったが、普天間飛行場を離発着する米軍機が居座ったままの状況は、今もかわらず続いている。

上大謝名公民館そばの駐車場から、フェンス越しに見える普天間飛行場。民間地では戦後の混乱を忍ばせるように家々が不規則に建て込んでいるが、きれいに芝生が刈り込まれたこの中は別世界。
清明祭の際には、フェンス内に残る墓の関係者は、拝みをするため米軍側の許可を得て立ち入ることとなる。理不尽が厳然と存在することを、思い知らされる場所である。
2006年8月撮影
佐真下ゲートからフェンス沿いに入った場所から、駐機するオスプレイを眺める。
この日は日曜日のためか人気がなく、飛行する機体も見られない。
しかし、静かな日曜の朝の状態に騙されてはいけない。飛行場のすぐ南に位置する嘉数地区の事務所に居た頃は、真上を通過する米軍機の騒音に悩まされたものである。

ちなみに普天間飛行場は、沖縄戦が続いていた1945年6月に米軍が建設し、8月には2本の滑走路も完成している。

基地が出来たあと、その周りに住民が住み付いた、と本土の作家が書いて話題になったことがあるが、それはまったくのデタラメ。もともとそこには住民の土地や家があり、米軍がそれを強制的に奪って基地を造った歴史は変えようがない。

米兵相手の飲食・風俗店街としてつくられ、復帰後もにぎわった真栄原新町。
敗戦直後は民間地域で売春が行われることも多く、一般の婦女子を守るためにも必要とされて、人里はなれたこの地に設置された。コザの八重島に次ぐ、本島2番目のエリアだったという。
当初は外人相手の風俗営業街として区画整理され、戦争未亡人などが身を売るケースが多かったようだ。その後、客は住民に変化し、本土復帰してからは観光客へと変化した。

しかし、女性の人権保護や青少年の健全育成を目的に、2009年頃からは市民総ぐるみの環境浄化運動が盛んになり、2010年には伊波洋一宜野湾市長の方針もあって市民参加の浄化運動が展開された。

そのため、2009年に110軒あった店舗の9割が閉店するほど街は衰退し、その後は廃墟のような場所と化してしまった。

かつての建物は次第に消え、これから街は生まれ変わっていくのだろう。

売春をもちろん是認するわけではないが、人々のさまざまな思いや、ざわめきが詰まった街が姿を変え、戦後史のひとつが消えてしまうかと思うと、複雑な心境ではある。

10年以上前の街並み。環境浄化運動が盛んになり、昼間から客待ちの女性がいることもあった店舗の多くは、すでに活動休止状態であった。2011年11月撮影

エリアマップ

<三嶋>

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