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摩文仁に残る戦争の爪痕を歩いて

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 沖縄県平和祈念資料館友の会が主催する、「平和学習フィールドワーク」に参加した。昨年も開催され、山側のコースに参加したのだが、今回は海までのコース約400mを歩くとのことである。

 「体力に自信のない方は参加しないでください」との注意事項のせいか、参加を見合わせた人もいたようだが、今回は、海岸にある艦砲射撃の弾痕を研究している、琉球大学の仲座栄三先生が解説するということもあってか、参加者が思った以上に多かった。

ボリュームのある配布資料を、平和祈念資料館友の会(代表・仲村真氏)からいただく。
コースの設定や準備に追われたであろうと想像し、関係者の努力に感謝する。
「平和の礎」から慰霊碑がある丘陵に向かう。左に見える一番高い部分の岩が、
艦砲射撃で二つに割れていると仲座先生が解説。
日本軍司令部があった89高地(摩文仁の南東斜面)で、アメリカの国旗掲揚式。
参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。撮影1945年6月28日。
<写真:沖縄県公文書館>

 79年前、旧摩文仁村(現在は糸満市)の海岸では、米軍が海上から日本兵や住民に投降を連日呼びかけていた。6月20日には将兵800人、住民4,000人が投降している。

 同日は、89高地(摩文仁の南東斜面)を守る小規模の日本軍が玉砕した日であり、翌21日、ガイガー米第10軍司令官が沖縄の確保を発表している。

1959(昭和34)年ごろの89高地(摩文仁の南東斜面)。1952(昭和27)年6月22日に除幕された「黎明之塔」が見える。同塔は「日沖合作で建立」と同年5月25日付「沖縄新民報(第193号)」にある。現在の塔は1962(昭和37)年に建て替えられ、吉田茂が揮毫している。
<写真:沖縄県公文書館>

 6月23日は第32軍司令官の牛島満と参謀長の長勇が自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日であるが、終結の日は当初22日とされていた。1962(昭和37)年に摩文仁の丘で行われた、全琉戦没者慰霊祭も6月22日開催であり、琉球政府はこの日を「慰霊の日」と定め休日に指定していた。

 しかし、3年後の1965年、「慰霊の日」は6月23日に変更された。その理由は、第32軍の高級参謀で1945年6月19日まで摩文仁に止まった八原博道が、著書『沖縄決戦』で、二人の将軍は23日に自決としたためとする説が有力なようである。

 反対に、22日説としたのが米軍資料に基づく上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』で、ムタグチという司令部付調理人の証言を取り上げ、同日午前3時40分ごろ、通常礼装に身支度した牛島・長が壕の入口3mほどの所で切腹し、坂口大尉が介錯したと記述している。真相はどちらなのであろうか。

 さて、われわれは「黎明之塔」から「健児之塔」に降り、チンガーを訪ねたあと「南冥の塔」の近くからいよいよ海岸を目指して道なき道を進んだ。このところ雨がないこともあり、猛烈な暑さである。生い茂る樹木と不安定な足場によろめきながら、慎重に足を進める。

珊瑚礁の岩陰に設置(平成4年)されている、この地で死去した学徒兵
(師範学校本科2年 池村恵潤氏)の名を記した板。
避難民が使っていたであろう食器の破片。再び使われることのない生活の痕跡がしみついた道具が、ジャングルの中で、今も人知れず眠っている。
ビルで考えれば、4、5階建てぐらいになるだろうか。見上げると、首が痛くなるほどの大きな珊瑚礁の塊が、青空を背景にあちこちにそそり立っている。

 緑の草木に覆われた、とてつもない大きな珊瑚があちこちに立ち、倒れ掛かり、いく手をさえぎる。とても普通に歩けるような所ではないが、岩や木につかまって体を支え、アップダウンを繰り返しながら海岸を目指す。

 手で土を掘れるような場所はなく、横たわって体を休めるような平地もない。岩の割れ目などを見つけて隠れるしか、戦火を凌ぐ方法は無かったであろう当時を偲ぶ。

 汗にまみれ、疲労を感じ始めたころ、ようやく波の音が聞こえる場所に来た。

大きく空を切り裂いて立ち並ぶ岩の隙間を抜けると、目の覚めるような美しい海が広がる。
79年前には、多くの兵士や避難民が、沖合の米軍艦船に向かって投降した場所である。
波打ち際の珊瑚の窪みに残る艦砲弾の破片。1~5cmほどであろうか。黒く、貝殻や海草かと見過ごしがちだが、磁石を近づけるとくっつきため、鉄であることが分かる。

 岩と同化して動かない珊瑚礁の鉄片は、人気のない美しい海岸が、けれど紛れもなく79年前には戦場であったことを突きつける。

 中国脅威論や台湾有事などがマスコミを賑わし、便乗して自衛隊のミサイル配備や基地設置などが続く沖縄だが、沖縄戦の実相を忘れた空論に踊らされている気がしてならない。

 今こそ79年前を振り返り、戦争の愚かさと命の尊さを思い返す必要があろう。たった79年前の悲劇が、もう忘れられようとしている。

<三嶋>

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平和祈念公園内でフィールドワーク

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平和祈念資料館友の会の事務局長である仲村真さんが、公園内の慰霊碑を解説するという「平和学習フィールドワーク」に参加した。

慰霊の日の前日で人が多く、クソ暑い日だったが、知らなかった慰霊碑を訪ねたり、仲村さんの話に驚かされたりしてイイ刺激を受けた。

特に旧日本領だった地の慰霊碑などは、十分な知識がなかったため持ち帰って調べることにした。ここでは、後日得た情報も合わせて記述したい。

2016年に完成した台湾出身戦没者の慰霊碑「台湾之塔」。この日は、戦前、卒業証書を受け取らないまま台湾の中学校を卒業した95歳のウチナーンチュに、卒業証書を渡しに来沖した中学校の校長先生も顔を見せ、台湾と沖縄の関係をリアルに実感した。
「ダバオ之塔」。フィリピン・ミンダナオ島にあるダバオに移民し、戦災に倒れた沖縄県出身者約20,000人を祀っている。1972(昭和47)年3月、全国のダバオ関係者によって建立された。
沖縄戦で一家全滅した1,500余名(380世帯)を祀る「しづたまの碑」。1969(昭和44)年、那覇市壺川の「くろしお会館」内に建立されていたが、1988(昭和63)年に移設された。
沖縄戦で戦没した韓国人を祀る「韓国人慰霊塔」。1975(昭和50)年9月除幕。朝鮮出身の軍人軍属、女子てい身隊員11,000余柱を祀る。異郷で命を落とした人々の望郷の思いに応えるべく、写真手前に見える大きな矢印が、故郷・韓国の方角を指している。

1946(昭和21)年1月、北部に避難していた真和志村民4,337人は、摩文仁村の米須・糸洲に集められた。人々は、多数の遺骨が散乱する戦禍に荒れた村の姿に心を痛め、村長に任命された金城和信を中心に、遺骨収集と供養の許可を米軍から得た。

そして豊見城村に移動する4月20日まで、真和志村民は同地で収骨作業を続けたが、2月27日には「魂魄之塔」を建立(碑銘と和歌・翁長助静、文字・金城和信)し、546柱を合祀する慰霊祭を行った。

また、4月5日には、伊原集落の伊原第三外科壕の上に、「ひめゆりの塔」を建立している。

1965(昭和40)年10月。「立山の塔」(富山県)などの慰霊塔建設が進む平和祈念公園。
写真:沖縄県公文書館

その後、摩文仁で建立された慰霊碑を列挙すると、1950(昭和25)年6月に沖縄師範学校健児之塔、1951(昭和26)年6月に島守之塔、1952(昭和27)年6月に黎明之塔などとなる。

そして1964(昭和39)年6月22日に、琉球政府主催第1回沖縄戦没者追悼式が行われる頃になると、摩文仁に「慰霊塔ブーム」が訪れる。

本土の各県が、競うように次々と慰霊碑を建てるのであるが、戦没兵士の「英霊」を賛美し、郷土や国家への忠誠心を讃える墓碑銘が多く、兵士は死しても国家の頸木から逃れられないのかと気が滅入る。

強烈な日差しのなか、暑さにめげずに歩く。正面に見えるのが平和祈念堂と平和祈念資料館。

摩文仁の平和祈念公園は、「平和の礎」以外あまり県民も足を運ばない所だろう(ボクもだが)。

しかし、戦没者の骨は、兵士だけではなく一般のウチナーンチュのものも戦没者墓苑に祀られている。そして、今を生きるわれわれにつながっている。この地を過去のエリアとして葬るのではなく、未来に活かす聖地としたい。「新しい戦前」が迫る今だからこそ、あの戦争が何だったのか、自分に問いかける場所にしたいと思う。

<三嶋>

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なんかモヤモヤ

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5月末のある日、暑いなか那覇新都心を歩いていると、アレ、なんか変?と、交差点で足が止まった。ちょっとした木陰を提供していたガジュマルの木が、ない!切り株が残るだけだ。

誰が?とか、勝手に切っていいの?とか疑問が湧き上がる。こんなに簡単に切られていいの?とも思う。

そして、怒りと悲しみが混ざったような、モヤモヤが湧き上がってきた。

カメラのキタムラの向かい、四角にあったガジュマルの切り株。

いろんな思いが駆け巡るなか、そういえば、沖縄の街路樹に関係する新聞記事があったなあと探してみると、国際通りの記事がいくつか出てきた。

それによると、1954(昭和29)年2月には、クスとヤブニッケイ93本が植栽され、1955(昭和30)年5月には、本部町伊豆味からモクマオウ71本が運ばれて植えられている。

また、1958(昭和33)年7月には、「数年前に植樹されたヤナギの街路樹が詩情を詠んでいる」とある。ヤナギは、歌謡曲などで親しまれた「銀座の柳」にちなんで植えられたものだ。

しかし、これらの街路樹が、いずれも定着しなかったのはなぜだろう。行政の資金難なのか、市民にそんなゆとりはなかったのか、それとも愛情不足なのか。

1968(昭和43)年2月15日の沖縄タイムスには、「沖縄で緑化運動が広がるが、那覇市内の街路樹は大切にされていない」の記事も見える。

2001(平成13)年1月の那覇新都心。街路樹はまだ植えられていない。
画面の左、遠くに見える建物が那覇国際高校。

たかが街路樹1本のことだが、アレコレ考えていると、いろんなことが浮かんできた。

そういえば学生時代、先生の一人が「沖縄のヤシが風景を変えてしまった」と嘆いていたなあ。本土復帰あたりを境に、トロピカルイメージを売りにする沖縄観光にとって、南国のイメージづくりにヤシは欠かせないアイテムだった。

1997(平成9)年7月。ヤシの木が中央分離帯に並ぶ、北谷町の国道58号。

何だか、切られたガジュマルのことを考えているうちに、まとまりのない話になった。

そして、なんかモヤモヤする気持ちは、おさまらないままである。

<三嶋>

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「知花あるき」終了しました

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心配していた天気にも恵まれ、「知花あるき」が無事終了。案内していただいた池原秀幸さんや、地元の皆さまに感謝します。

張り切って解説する池原秀幸さん。
地域の老人会や子供会の世話で忙しいにも関わらず時間を作ってもらい、対応していただいた。

「知花」と聞くと、ボクなどは「知花弾薬庫」を思い出す世代だが、調べると弾薬庫は知花の西側、正確には嘉手納町久得に位置している。米軍が適当に呼んでた名前がそのまま残ったのだと考えるが、これも戦後史の一断面ではないだろうか。ましてや、そこで働いていた地元の方もいた(いる)分けなのだから。


「みさと児童園」の敷地内に、奉安殿とともに残る忠魂碑(ちゅうこんひ)。
陸軍大将 井上幾太郎(いのうえいくたろう)の名が刻まれている。

井上幾太郎は、Googleで検索すると1927(昭和元)年~1933(昭和8)年に陸軍大将だった人物。

建立の時期が思った以上に古いことにちょっと驚いたが、忠魂碑が一般化するのは日露戦争後であり、明治末期からは在郷軍人会が主体となり、遺族会なども運営管理していたとある。

井上幾太郎の名は、全国に残る多くの忠魂碑に刻まれていることから、この頃がブームだったのかとも思うが、よく分からない。

知花グスク北側にある神アサギ(カンサヂヤー)の前。
旧暦5月15日と6月15日には、ウマチー行事が行われるようである。

知花グスクは、鬼大城(大城賢雄)の墓があることもあって、よく知られたグスク。しかし、城主が誰だったか不明で、石積みなども確認されていない。この日は時間の関係で頂上へは登らなかったが、少し前に登った際には以前あった展望台も今はなく、周辺の樹木に遮られて眺望もあまりよくなかった覚えがある。

別の日に撮影した知花グスク南側の姿。
麓に続く道をまっすぐ行くと、中腹にある鬼大城の墓に辿り着く。

知花グスクから大通り(県道74号線)を横切り、比謝川の支流・知花川沿いに歩くと、知花焼の窯があった所に出る。現在はまったく姿を変え、痕跡もないが、壺屋焼以前は重要な焼き物の産地だったという。

メーヌカーガー橋。
元々は三連のアーチ型石橋だったが、(戦後?)二つは埋められ、現在は一つが残るのみ。

写真左には涌泉があり、橋の下を流れる川に注いでいたが、1950年頃の改修工事で水路が変わり、川としては機能しなくなってしまったようだ。地元から参加したお年寄りに聞くと、子供のころはこの川で泳ぎ、魚を獲って遊んでいたという。

鬼大城(大城賢雄)が逃げたルートを歩く。
大きなガジュマルの木の下を過ぎると、ウスデーク(知花ではウフデークと呼ぶ)が行われる仲大屋と獅子屋がある。その道向かいは、鬼大城の母の実家だったと伝わる屋号ウフグシク家。

知花公民館の南東にあるスジ道は、鬼大城(大城賢雄)が、越来グスクから知花グスクに逃げたルートだと池原さんがいうと、そんな記録もあるのかと一同驚いたが、地元の方の鬼大城に寄せる強い思いにも驚かされる。

ボクはベトナム戦闘の頃から、知花弾薬庫の名称を聞いていた記憶があり、「知花」には「戦争」と結びついたイメージを持っていたが、今回のあるきでイメージが改まり、知花は伝統や集落のつながりが今に残る地域だと痛感した。

マチ化が進むなかで、伝統がないがしろになるではないかとの危惧もあるが、池原さんのように情熱を持って地域活動に取り組み、地域の未来を作っていこうとする人たちがいる限り、地域の絆はこれからも続くのだろうと確信した次第である。

<三嶋>

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「知花あるき」のお知らせ

 Category: 沖縄ある記, 案内  Comment : 0


6月の「定例あるき」は6月8日(第2土曜日)、「知花あるき」を行います。誰でも参加自由ですので、お暇な方は是非ご参加ください。

沖縄市知花では、奉安殿や知花グスクなどが知られていますが、そのほかにも、歩かないと分からないような場所などあります。
案内は、老人会や子供会活動に汗を流し、地域散策なども実施されている池原秀幸さん。地域に対する思いが強く、熱気をほとばしらせて語る方なので、誰でも楽しくユンタクできるんではないでしょうか。

●日  時:6月8日(土曜日) 午前9時30分〜11時30分
●集合場所:ワッシュランドちばな店(池原さん経営のコインランドリー店)
●見学内容;忠魂碑・奉安殿〜知花グスク〜鬼大城の墓〜公民館〜獅子屋など

季節柄、雨降りが心配されますが小雨決行。大雨の場合は中止、迷ったら電話ください。
※ボクは「ハレ男」ですから普段あまり心配してませんが(笑)

※資料代として200円をご用意ください。

県道16号線側から見た知花十字路

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