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特定非営利活動法人
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“隠れ家”のような集落

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 志喜屋は旧知念村(現南城市)のムラ。背後に山が迫る海岸そばの斜面にある、“隠れ家”のような集落である。

 しかし、近年、集落の北西部に「コストコ」がオープンし、遠いというイメージも霧散しているのではないだろうか。

 志喜屋は集落中央部を東西に走る国道331号を境にして、大きく北側にカンチャ(上志喜屋)、南側にシチャ(上志喜屋)と呼ばれる地域に分かれている。首里から移り住んだ人々が山手のカンチャを開き、徐々に海岸側に移動したのかと思って地元の方に聞くと、シチャはシチャとして今まで続いていて、カンチャから移ってきたのではないそうだ。

山側からながめた志喜屋集落、埋め立てによって造られた漁港が見える

 案内をお願いした区長の親川仁寛さんによると、「歴史的にも面白い場所が多いが、意外に知られていない」と残念そう。海岸部を埋め立てて造られた漁港や、関連施設に期待していると続けた。

志喜屋はヤーンナー(屋号)を大切にしているところ。
公民館前の集落地図にも各家の屋号が記されている。
清流が流れるカンチャ大川(ウフガー)。

 カンチャウフガーの川底にある平たい石は、今帰仁城跡に近い今泊ムラにも同様のものがあり、何らかの関連があると信じられている。現在も、5年に一度はここから今帰仁に出かけ交流を続けているようだ。

 旧知念村では、今帰仁の北山城跡にまつわる話があちこちにあるようだが、ここにも、北山グスクから下った人々がいたのだろうか、と想像すると面白い。

志喜屋グスク。小さなグスクだが、神秘的な雰囲気に満ちている。
シチャの家並み。この北側に通る国道331号が現在のメイン道路。

 志喜屋には、まだ戦時中の1945(昭和20)年6月1日、収容所が設置され多くの避難民が押し寄せた。同年9月に知念市が誕生した翌月(10月10日)のには、人口1万7,914人を数えている。

 米軍の知念補給基地(CSG)が、集落西側の高台にある玉城村親慶原に設置されると、志喜屋や周辺地域からも基地に働きに行く人たちがいた。

 字知念の前城栄徳さんのその一人で、毎朝、志喜屋のバス停で下車し、ここから写真前方に見える山の斜面を登り、CSGに通ったそうだ。以前、一緒に当時の道を探したところ、人が通らなくなった道が自然に還るのは早く、樹木に覆われた山のなかで当時のルートは判然としなかった。

部落の山側にある 水源地のダム。

 志喜屋は水が豊富な地域である。山から流れる水が各家庭に配水されたほか、稲作にも活用された。なかでも稲作はたいへん盛んで、戦前には「献穀田*」となった田んぼもあった。

*献穀田(けんこくでん):天皇が新米を神々に供えて五穀豊穣を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」に献納する米を育てる田んぼ。献穀田に選ばれるのは地域の名誉であり、田植えには地域の名士など大勢の人が参加した。

シードーガーの水を使っていた献穀田跡。

 志喜屋の水源はシキヤガーの上流であり、戦前には親川栄蔵というそのご議員なども務めた人が、そこから水を引いて水車を回し、発電を行なっていた。昼間は製糖、夜間は精米に利用されたが、公民館などでも電灯が灯り、住民に喜ばれた。

 米軍も基地で使う水をここから引いていたが、日照りで水不足が酷くなった1963(昭和38)年5月には、米軍が突然集落に流す水を止める事件があった。怒った住民が米軍に申し入れ、ことなきを得たようだが、米軍の姿が見えない現在の南部では、ほとんど忘れられた事件だろう。

最近見つかった簡易水道のパイプ。
赤い屋根瓦を合わせてセメントでくるみ、山から集落まで水を引いた。

 もう50年にもなるが、自分が大学に入学してまもない頃、知念半島を回るバス(東陽バスだったと思う)に乗ってこの辺りを訪ねたことがあった。クネクネと曲がる道沿いに建つ家屋や、美しい海岸線などに見惚れて詩情を掻き立てられたものだった。

 しかし道路事情がよくなった今、那覇の通勤圏ともいえるようになったこの辺りに、かつてのような詩情を感じることは薄れたといえる。そして、便利で豊かな社会に生きるにつれ、地域の人々が助け合い、支え合って暮らしていたかつての状況は遠ざかりつつある。

 だからこそ、屋号を大切にしたり、行事や祭りで地域を盛り上げようとしている志喜屋の活動は、いっそう重要な意味を持つように思う。先達を敬い、大切にしながら次世代に繋いで行こうとする姿に、ひとつの希望を感じたのである。

<三嶋>

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南恩納あるき

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 久しぶりの恩納村でのあるき。コロナ発生以来途絶えていた恩納村教育委員会とのコラボだが、公民館に呼びかけてもらって集まった人たちと楽しく歩くことができた。

 南恩納は目の前に広がる遠浅の海・屋嘉田潟原(やかたかたばる)と、深いつながりを持ち続けてきた集落。これまでも、自然と暮らしの関わりなどについてみんなで考えたり、学習したりしてきたという。

 素晴らしい景観の海や、いくつもの岩礁・島が広がる地域であり、自分たちの暮らしと密接に関わるだけに、環境保護の大切さは広く共有されているようだ。

恩納岳から8本の小川が流れ込む屋嘉田潟原は、生物多様性に富んだ干潟。多くの生き物が住み着くこの海と、人々はさまざまな関わりを持ちながらともに生きてきた。
屋嘉田潟原に浮かぶさまざまな島の中で、一番大きな宜志富(ぎしふ)島。
船溜まりの漁船。近年はアーサやモズクの栽培養殖が盛ん。

 南恩納は、文字通り、字恩納の南に位置する地域が、戦時中の1944(昭和19)年に独立して誕生した。琉球王国時代には首里・那覇の士族が移住していた、ヤードゥイ(屋取)集落だといわれる。

 現在の人口は約1,400人。地域の人々の結束は固く、清掃などのボランティア活動なども盛ん。観光産業の隆盛とともに、近年は外部からの移住者も増えてきたが、助け合いながらともに地域を支えていくことを目指しているという。

 南恩納区では、戦前まで主に稲作が行われていた。1960年代頃、米軍が当時の軍道1号線(現在の国道58号)を二車線の舗装道路に拡張したが、交通量は少なく、道路に筵(むしろ)を敷いて籾(モミ)を干したりもしていたという。

 恩納小学校から海に向かった先には、かつて日本陸軍が建設を企図し、完成前に米軍に攻撃・破壊された飛行場があったという。戦後は米軍が通信隊を置き、地域の人たちと交流したりもしていたが、1995(平成7)年には返還された。

いまもわずかに残る「宿道」の跡
舟越のトンネル。恩納区と南恩納区の境界線とされる。

 舟越のトンネルは、以前は谷間になっており、舟で通ることが出来たことから「舟越」の名がついたという。1911(明治44)年頃、県道工事の際に谷間は埋められ、戦後、米軍がカサ上げして軍道1号線(現・国道58号)を建設したため、表通りからかなり下に位置するようになったが、灌漑用水路としてトンネルが造られ、今も当時の雰囲気がわずかに遺されている。

志嘉座川に残る赤橋 。

 赤橋は、沖縄戦の時「第二護郷隊」(国頭村・大宜味村・東村や中頭から招集された15歳~18歳の男子を中心に作られたゲリラ部隊)が、米軍の侵攻を阻止するため爆破されたが、爆破に失敗したため橋の半分が落ちたまま遺されている。

 今では貴重な戦争遺産として平和学習などの際に利用されているようだ。上部を通る大通りからは見えずらいだけに、車をおりて歩きながら、当時をしのぶのもいいだろう。

 赤橋の周辺は、1960年代には子どもたちの遊び場だった。しかし、満潮時には水深が2メートルぐらいになり、深い底なし沼のようで「カムロー(お化け)がいて引っ張られるよ」と言われていたそうだ。

 「赤橋」の名前は、以前の橋が木製の朱塗りだったことに由来するという。

<三嶋>

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源河をあるく

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 年明け早々、名護市源河をあるいた。

 以前、名護博物館の館長だった島福喜弘さんの地元である。源河でよく知られる、リュウキュウアユの話などが聞けるか、と期待したからである。

 源河川のずっと上流にある大湿帯も、同じ源河地区なので訪ねたかったのだが、水害で道路が通れなくなったままとのことで、大湿帯訪問は諦めた。

源河川沿いに家屋が立ち並ぶ源河集落。

 水に恵まれた源河地区は、戦後まで稲作を中心とした米づくりが盛んだった。「ギンカターブックヮ」と呼ばれるほど、美しい水田が続いていたという。また、周囲を取り巻く山は豊富な森林資源に恵まれ、そこから切り出された薪や木材が、源河川の河口から船に積み込まれて中部や那覇に出された。

 沖縄中が食糧難に陥った戦後には、集落に近いやんばるの里山ではどこでも頂上まで段々畑がつくられ、イモなどが植えられた。源河でも山の中腹まで段々畑が作られ、住民は食料増産に励んだが、そのご農家が激減すると山は放置され、段々畑も姿を消すこととなった。

かつてリュウキュウアユが泳ぎ回った源河川の現在。
豊富な水量をほこった清流は、昔話となってしまったようだ。
源河川の支流のひとつである福地川。写真右側の丘陵部に瀬洲(シーシ)ムラがあった。

 源河ではリュウキュウアユのほか、「源河ウェーキ」と呼ばれた豪農の存在もよく知られている。

 その屋敷跡が、集落奥の小高い丘(集落を見渡せる絶景の地)にあり、城跡を思わせる見事な石積みが残っている。

 この場所から、眼下に広がる田畑と家々を見下ろし(ほとんどが源河ウェーキの土地だったとされる)、富と力を誇っていた人物はどんな人だったのかと興味がわくが、系図がなく、成立も不明という。大勢の従者を従え、カゴに乗って那覇に行ったという話が今も語られるが、石垣だけが当時の栄華をしのばせる屋敷跡を眺めていると、権威を誇りながらも幻のように消えた一族の夢の跡にもみえてくる。

 しかし、1993(平成5)年まで母屋が残っており、解体の際も再建を考えて建築資材が残されていることからも、屋敷を再建したり、公園などにするなどして、一般公開されるようになって欲しいものである。

城郭を思わせる見事な石積み。
完全な形で残っている4連のウヮーフール。これだけでも絶大だった家の力が分かる。
青空のもと、川のせせらぎを聞きながら上流に向け歩く。

 源河川の流れに沿って、上流に向かってしばらく歩くと、ポツンと立つ「源河節の碑」が見えてくる。

 刻まれている文字は、沖縄学の大家・東恩納寛惇が筆を取ったもだと福島さん。東恩納の資料を集めたり研究に忙しいそうで、リュウキュウアユ復活との関わりなども含めて、博物館を離れても生涯現役の姿に感心する。

 ただ、ボクが琉歌や芸能関係に知識がないため、突っ込んだ対応ができず申し訳ないこととなってしまった。

源河節の碑

 源河のアユは、前述した通り地域にたいへん身近な存在で、馴染みの食材だった。学校の家庭訪問の時期には、各家庭を回る先生方はどこに行ってもアユでもてなされ、アユを手土産に持たされるので、先生方はその処理に困っていたと島福さんが笑う。

 アユ以外に振る舞うものがなかった貧しさも感じられるが、同時に、今では考えられないような自然の恵みが日常だったことに驚き、羨ましさを感じた。

 1965年8月25日付沖縄タイムス朝刊には、「毎年、タカの群れが渡ってくる寒露の季節になると、アユも産卵のため川を下って海に入る。産卵の場所ははっきりしないが、地元の話だと、羽地内海だという。海でかえった稚魚は、また、春とともに、川をのぼってくる。近くの山では、これを迎えるように、うぐいすが美しくさえずる。」と、風物詩となっていたアユと人の暮らしが記されている。

 しかし、約60年前まで普通だったこのような人とアユの関係は、土地改良や畜産による河川の汚染などで壊され、当たり前だと思っていた環境が還ってくることはなかった。

 1986(昭和61)年から、島福さんなども関わってアユを復活する活動が続けられ、一時は大きな話題を集めたが、かつての環境を取り戻すことは難しいようだ。

源河川の環境保全、アユの復活を願う住民の気持ちは今も変わらない。

 また、アユが増えない原因のひとつは、砂防ダムの建設にあると島福さんは語る。住民への説明がないままに建設された砂防ダムが、上流へ上るアユの行手を遮っているため、アユの繁殖にとって大きな脅威になっているという。

 専門家ではないので不確かな情報ではあるが、沖縄の河川は土地改良による土砂の流入や赤土汚染が広がることに加え、水量の減少で河口部に堆積した土砂の影響もあり、川と海を往来するアユなどの育成を阻害しているようだ。

 いちがいに誰が悪いとは言えないのかもしれないが、幼少からアユとともに生きてきた源河の人々にすれば、原風景の復活は当然、切望するものだろう。

源河川の支流・桃原川にある砂防ダム

 リュウキュウアユが飛び跳ねたかつての環境を取り戻し、森林資源を生かしながら、自然とヒトが調和の取れた暮らしを持続できるような、地域づくりの実現を願ってやまない。

<三嶋>

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我謝あるき

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西原町が、かつては那覇の泊や天久・勝連町・津堅島までも含む、広大な面積だったことをご存知だろうか。

廃藩置県後の1908(明治41)年に西原村は誕生するが、そのころ首里の儀保・末吉・平良・石嶺が分離し、現在とほぼ同じ面積になったとされる。地図で見ると、相当な面積があったことが分かるだろう。

今回、歩くことになった我謝は、個人的にはあまり馴染みがない土地だったが、教育委員会の山崎真由美さんが地元であり、周辺はよく知っているということで案内をお願いすることにした。

我謝を訪れ、驚かされたことに車の通行量が多いことがある。東海岸と首里をむすぶ「抜け道」のようになっているためか車が多く、歩道がほとんどないこともあって、大勢で歩くには注意が必要であった。

調べてみると、この混雑は部落の西南に位置するゴルフ場ができてからのようで、子どもたちの危険を避けるため、公民館側に遊び場を建設すると書かれている(1966年7月27日沖縄タイムス)。公民館の横に現在も広がる空間である。

我謝公民館前の通り。中央が公民館。

西原町は戦前、キビ作が多い純農村地帯だった。それは1907(明治40)年、同区に県立農事試験場が置かれ、翌年に沖縄初の製糖工場ができた影響で、戦後もキビ作が多かったため機械化が進んだと書かれている。

しかし、現在の我謝の街並みを見ていると、かつての農村地帯のイメージはなく、かつての集落の名残をとどめつつも都市化が進んでいる。碁盤目型の路地の痕跡と、新しい住宅やビルが同居しているような印象であった。

住宅地を歩く。

我謝は集落の北側に位置する高台や、南西部の運玉森に発する水脈があるのだろうか、あちこちにカーが残り、水は豊富だったようだが、他の地域同様、それらのカーが農業用水以外で使われることはなく、拝みの対象でしかないようである。

地元のマカーという人が造ったとされるマカーガー。
道路が拡幅されて車が多く通るようになり、かつての面影は失われている 。
街中に今も残るカーの跡。かつては社交の場としても、にぎわっていたに違いない。

我謝の集落北側にある丘陵地は、かつては大きな3本の松の木がある山で、クガニムイ(黄金毛)とか我謝毛と呼ばれていた。

我謝の集落発祥の地とされ、イーヌダキ(上ヌ嶽)を配する聖地とも呼べる場所だったが、本土復帰前直前、アメリカの石油企業エッソ・スタンダードの社宅用地となり、分譲住宅団地「西原ハイツ」となった歴史がある。そのため、火ヌ神などが南側の斜面に移され、現在は「我謝の殿」として拝まれている。

エッソの社宅建設に際して、13~14世紀ごろの中国製陶磁器などが大量に出土していることから、この地にかつて有力な人物のグスクがあり、海外交易も行っていたのか?と、ロマンを掻き立てられるのだが、現在のところ確証はないようだ。

しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、よそではあまり聞いたことがない。本土復帰のころに吹き荒れた外部資本の沖縄流入の嵐は、与勝半島のCTSなどの例がよく知られるが、同時期にこの地でも、長年の暮らしを変える出来事が起こっていたことにショックを受けたが、当時の新聞を見ても問題視されていないようで不思議である。

しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、あまり聞いたことがないように思う。

本土復帰のころに吹き荒れた、外部資本流入に起因して巻き起こった住民の抵抗の嵐は、与勝半島のCTS阻止闘争などが知られるが、同時期にこの地でも同様の事例があったことにショックを受けた。そして、そのことをほとんど知らなかった自分の無知を恥じた。

それにしても、当時の新聞などでもあまり取り上げられていないようで、本土復帰が迫る時期のゴタゴタで、これらの問題が覆い隠されたのだろうかと訝しく思った。

イーヌダキ(上ヌ嶽)が破壊されたあと移動して、火ヌ神を合祀する「我謝の殿」。
エッソ製油所地鎮祭に合わせて作られたと思われるゲート。
1969(昭和44)年10月(写真:沖縄県公文書館)
完成したエッソ製油所。
1970(昭和45)年(写真:沖縄県公文書館)

我謝で有名なもののひとつに、今も盛んに行われている綱曳がある。

今回、案内をしていただいた山崎さんも、綱曳には小さな時から親しみ、論文を書いたほどで、綱曳前の準備から当日の模様も熱心に語ってもらった。

我謝に伝わる綱曳の由来は以下のようなものである。

昔、我謝一帯の農地は、我謝の創始となるニーヤー(根屋)の上神座(屋号:イーカンザ)の兄弟二人が二分して耕作し、その収穫量を張り合っていたが、ある時から、稲ワラで作った綱を引いて勝負することになり、兄がリンゴー与(雄綱)、弟がウフカー与(雌綱)に別れて引き合ったというのである。

戦前までの綱曳は、門中によってどちらの綱を引くかが決められていたが、現在は班ごとに別れて引いているそうだ。また、稲作が途絶えてしまった現在、綱にするワラは金武町伊芸から購入していると聞いた。

いにしえの集落の形を随所に残しながらも、現在の我謝はマチ化しており、農村だったころの風景は見えなくなっている。決して都市化が悪いと言うわけではないが、農村のイメージを持っていただけにそれは意外ではあった。

クガニムイで中国製陶器が出土したことや、我謝の「謝」が、海岸にできた集落名をあらわすことから、今よりもずっと海岸が近く交易も盛んだったのだろうと、昔の姿を思い描こうとしたが、すでに水田が消え、農地も減り、カーだけが残る現状を前に、のどかだったころのシマを想像することは難しかった。

<三嶋>

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2回目の渡久地

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渡久地を歩くのは、2018(平成30)年3月に、『しまたてぃ』連載の「沖縄の戦後を歩く」で取材して以来、2度目である。その際は、本部町健堅に在住の中村英雄さんに案内してもらったが、今回は、渡久地の前区長・中曽根さんと一緒である。

そのため今回は、以前の取材時に集めた資料に、中曽根さんの話などを加えてお届けしたい。

●渡久地の町

「カツオの町」として知られる渡久地だが、陸路より海路の利便性が高かった当時、伊平屋・伊是名・伊江島や奄美諸島から、那覇に物資を運ぶ際の中継地として、渡久地は地の利があり、海上交通が盛んになる明治期から同時に発展することとになった。

原田という鹿児島の人が開いた店が初の商店となり、那覇の商人や地元の人々が次々と店を開き、そば屋や飲み屋なども誕生した。

渡久地港が完成して市場が整えられると、周辺からも買物客が押し寄せ、名護をしのぐにぎやかさだったといわれる。

●戦後の発展と海洋博後

戦後には、大浦崎(辺野古)の収容所から住民が帰り、物々交換による商業も再開すると、たちまちさまざまな物売りのテントが道路沿いに立ちならんだ。

戦後復興の勢いは止まらず、1955(昭和30)年に渡久地港が開港し、2年後に町営市場が完成すると、周囲はいっそう活気に満ちあふれた。

渡久地港は水深が浅く、船舶の出入りが難しくなっていたほか、街の中心部が狭すぎるという問題もあったため、1960(昭和35)年に浚渫が行われ、市場から南側の土地が埋め立てられた。港が拡張したころ、中心街となった本部大通りには銀行や食堂、料亭、呉服店、電気店、雑貨店が立ち並び、地域の政治・経済を担う地域として栄えていた。

1961年2月の渡久地港(写真:沖縄県公文書館)

しかし、その繁栄に陰りをもたらすこととなったのが、1975(昭和50)年に開催された沖縄国際海洋博覧会である。

港の眼前をさえぎるように架かった本部大橋のため、大型船の出入港ができなくなり、離島航路の船着き場が崎本部の新港に移ったことを手始めに、沖縄中が見舞われた海洋博不況が追い打ちをかけ、深刻な経済不況に町は覆われたのである。

●カツオ節

カツオ漁でにぎわった渡久地では、カツオはカツオ節を作ることが一番とされ、刺身を食べる人はいなかったという。しかし、腹身などの部位などはテンプラにされ、市場で売られていた。一般の人には高級なソバより、安くて美味しいこのテンプラがこのまれ、よく食べられていたそうだ。

カツオ節工場を視察するキャラウェイ高等弁務官。1962年11月3日(写真:沖縄県公文書館)

●名護の道

渡久地交差点を東に進むと、県道84号線の伊豆味線である。この道を車が通れるようになったのは、1916(大正5)年だが、戦後も長いあいだ舗装されず、沖縄海洋博が始まるころようやく舗装された。

しかし、伊豆味線が開通しても、名護に行く際には昔のように本部役場(本部小学校跡)の裏手から山に登り、安和を経て名護にいたるルートを庶民の多くは歩いたそうだ。

市場の角に残る復帰前の道標。起点羽地村、終点本部町とあり、
側面にはR124(軍道124号)と刻まれている。
渡久地公民館沿いに走る戦後メインストリートだった通り。中央の建物がかつて映画館だった。
前掲の写真と同じ通りで綱引きに熱狂する人々。1960年10月5日(写真:沖縄県公文書館)

渡久地公民館前の通りは、かつて街の中心をなす通りだった。5年越しに大勢の人を集める名物の綱引きは、部落を東西にわけて引いていたものだが、いつのころからか町全体で行う大綱に発展した。牛若丸と弁慶の大立ち回りに喝采が送られ、盛り上がりを見せた。

また、旧暦7月のウスデークや旧暦8月9日から3日間行われる豊年祭りも、通り沿いの渡久地神社境内で催され、住民の思い出がつまった道といえる。

●仲宗根源和と貞代

前区長の中曽根さんは、琉球独立論で知られた仲宗根源和の遠縁にあたり、終の住処となった家の世話などしたという。そして貸してもらった『仲宗根源和伝』(著者の仲宗根みさをは仲宗根源和の3番目の妻)を読み、いろいろと調べてみた。

仲宗根源和は大正期に日本共産党の設立に関わり、戦後はいち早く沖縄の民主化・独立を主張したことで知られる人物だが、ボクが興味を持ったのは、最初の妻となった貞代(サダヲ)である。

熊本県生まれの仲宗根(旧姓・緒方)貞代は、アダン葉帽の製造を行っていた父親に呼ばれ、家族で沖縄に移住。親の反対を押し切って豊見城の小学校教諭となり、そこで知り合った仲宗根源和と結婚したのち、1919(大正8)年上京する。

そこで夫妻は社会主義運動に目覚め、貞代は社会主義婦人グループ「赤瀾会(せきらんかい)」を堺真柄(堺利彦の娘)らと結成し、女性初のメーデーにも参加するが、弾圧・投獄されたのち源和と別れ、以後、消息不明となった。

ところが1979(昭和54)年、熊本の老人ホームにいるのを研究者が見つけ、かつての同志・近藤(堺)真柄とも50数年ぶりに再開したという。

本土の研究家のほか、沖縄の女性史研究家・宮城晴美氏も1980年にインタビューしたが、その1年後、貞代は86歳で亡くなった。

仲宗根貞代は、戦前の厳しい時代にありながら、さまざまな弾圧に屈せず、熱い思いを抱いて社会主義運動や女性解放運動に突き進んだ女性である。さまざまな苦労を重ねてそれなりの蓄えを得たせいか、晩年は静かで穏やかな暮らしを送ったそうだが、幸せな人生だったと思えたのだろうか。

若い血潮をたぎらせ、権力に立ち向かった当時の人々の思いに同調するのは難しいが、誰が何を思い何をしようとしたのか、歴史を遡って考えてみることは重要だろう。それは過去の話として片付けられるものではなく、現在を考える上で有益であると思うからである。

<三嶋>

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