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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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「健堅ある記」のご案内

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来月10月7日(日)予定の、本部町「健堅ある記」にご参加ください。

当日は、同町に残る「十・十空襲」の痕跡を、健堅(けんけん)に住む中村英雄さん(89歳)と巡りながら、追体験する予定。

健堅を中心に3ヶ所ほど回りますが、各自、車での移動になりますので、安全面には十分な注意を払っていただくようお願い申し上げます。

健堅ある記チラシ

 

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中村さんと十・十空襲を追体験する

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1945年に本部町健堅で撮影された日本兵の墓標の写真が、以前、新聞で公表されたたほか、このサイトでも紹介した。その墓標のうちの二人が朝鮮籍だったとわかり、8月初め、健堅の中村英雄さん宅まで韓国のテレビ局が訪ねて来た。

地元でもほとんど知られていない事実に光を当て、体験者の声に耳を傾けながら真摯に歴史と向き合おうとする人々の姿に、立ち会ったボクも刺激された。

そこで、さまざまな経験を経てきた中村英雄さんのことを、より多くの方に知ってもらいたいと、本人同行で十・十空襲を追体験する“ある記”を提案。同意を得たので、現場を訪れながら当時の状況を確認した。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する渡久地港と瀬底島。写真:沖縄県公文書館蔵

瀬底島と本部の間(瀬底水道)で投錨していた日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」も、米軍機の攻撃で炎上。約150名の死者を出し、5日間ほど燃え続けた。

戦後間もない時期、着底したまま赤錆びる「迅鯨」。写真:琉米歴史研究会蔵

沈没する直前まで学童疎開船としても使用され、8月14日には宮崎への学童疎開第一陣(児童119名・付添12名)を鹿児島港に運んだほか、同月26日に185名、30日には180名の学童を乗せて那覇港から出航した(三上謙一郎『沖縄学童集団疎開』)。

瀬底島と本部の間(瀬底水道)は日本軍の要港とされた場所。迅鯨は9月、奄美大島近海で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷。この場所に曳航されて修理していたと思われる。

戦後、5カ月におよぶ沖縄初の沈没船引き揚げ作業が行われ、1952(昭和27)年7月25日、7年ぶりに浮上するが翌月、北九州の八幡に曳航され解体された。

本部町健堅の山並みと海岸。1948(昭和23)年8月撮影。写真:琉米歴史研究会蔵

かつては美しい白砂の海岸が続き、アギヤー(追い込み漁)が盛んなウミンチュのムラとして知られた。海洋博を画期として周辺海岸の改良整備が進められた現在、この地から砂浜は消滅した。

日本兵を救助した瀬底島の浜に立つ中村英雄さん(89歳)

迅鯨は、中村さんの背後に見える瀬底島の沖合およそ300mの地点で、午前7時ごろから米軍機の攻撃を受けた。

グルクン漁に向かう途中だった中村さんと2人の仲間は、燃え盛る迅鯨にサバニを近づけ、負傷した日本兵約30名を救助し、このニーカジラーの浜に往復して運んだ。

軍国少年だった当時15歳の中村さんが、その翌年、予科練に入学したのは、来襲する米軍機をこの浜の岩陰で歯噛みして眺めたという、この日の体験があったからではないだろうか。

<三嶋>

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キバナノヒメユリ展示会

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今年もまた、絶滅危惧種キバナノヒメユリの展示会が開かれた。

すでに4年目。昨年末に城間光雄さんがいなくなり、保存会の今後の行方が気になるところだが、弱々しく見えても厳しい自然環境を生き抜き、今年も可憐な花を咲かせたヒメユリの姿に、一つの光明をみる思いがした。

自生地で咲くキバナノヒメユリ

盗まれるのを防ぐため、場所を明かすことができない現状が復活の妨げにもなっている。

大里イオンの一角に展示された会員の鉢植え

栽培はなかなか難しいようで、愛情と細やかな手入れが必要とのこと。サボテンも枯らすボクにはとうてい無理である。

キバナノヒメユリを守る会の面々

会長の前城さん(左)と、神谷さん(中央)、山内さん(右)。苗の無料配布に行列ができ、忙しかったと嬉しそうであった。

<三嶋>

 

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県民大会

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時折り雨が降る天気を心配しながら、辺野古への土砂投入断面を求めて開かれた「8.11沖縄県民大会」に出かけた。

予想通り、観光客には迷惑だったかもしれないが、モノレールは大混雑。駅を降りると会場の奥武山陸上競技場を目指す人の波が、途切れることなく続いている。

「辺野古新基地NO!」を突きつける

時折り強くなる雨にも動じない人々。壇上を見つめ、翁長知事を追悼し、辺野古NOの意思を表示する。思いを共有するこれだけの人々のなかにいると、忘れかけていた勇気がふつふつと湧いて来る。主催者発表で、予想を大幅に上回る7万人が詰めかけたと知った。

2000年7月、宜野湾市で行われた緊急県民総決起大会で見たハンカチ。

愚直でも、足下の小さなことから始めるしかないのではないか、とあらためて決意する。

基地との境界が、まだユルかったころの辺野古(1997年4月)

20年以上の年月と膨大なエネルギーを費やし、地元民の思いを切り裂きながら、外国政府に追随する国家とは何だろう。沖縄県民だけではない、国民一人一人の尊厳が今も毀損され続けている。

<三嶋>

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恩納村塩屋の藁算

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今年の春、恩納村の塩屋で見た「藁算(わらざん)」が付け替えられるというので、8月6日、調査に向かった。

この日は旧暦6月25日、六月カシチー。稲の収穫祭で、新米の強飯を食べて祝う日とされるが、数を数えるワラ算とどう結びつくのかいまひとつ飲み込めないまま、神アサギの下で行われる作業を見せてもらい、そのあとの拝所巡りにも同行させていただいた。

親綱に差し込まれるワラ束

ワラを綯うところから始まった作業。みるみるうちに3mほどの縄2本が出来上がり、そこに村人の数より少し多めのワラ束(一つが25本ほど)が差し込まれる。ワラは人の数を表し、450余名の村人の繁栄を願って、人口より多い500本ほどのワラを差し込んだ綱は、そのあと三つ編みにされ、正月のシメ縄を複雑にしたような形に仕上がった。

時刻は5時。区長や役員、5人ほどが集まり、すぐそばのノロ殿内に藁算を捧げると、村人の数を報告して子孫繁栄を祈願した。

そのあと連れ立って部落の南にある産井を拝み、高台にある御嶽に移動して祠で再び祈願した。

御嶽に奉納される藁算

クワジーサーの木に取り付けられる、新しい藁算

以前はマツの大木に縛っていたそうだ。

また、御嶽の後ろはクバ(神様が降りてくる神聖な木)の林で、お産の場所だったと伝えられる。

御嶽の下にある東のカーを拝んで一連の行事が終わると、もとの神アシャギに戻る。一息ついている皆様にお礼を言って現場をあとにした。あたりはようやく日が陰り、夜の気配が漂い始めていた。

それにしても、ほかの地域で見たことがない伝統行事。かつては隣部落の真栄田と宇加地、塩屋をひとつにして仲宗根門中の人々が取り仕切っていたそうで、藁算の形も中央が太いシルエットだったと聞くが、多少の変容を経ながらも、歴史を継承してきた方々の熱意が十分に感じられ、静かな感動を覚えずにはいられなかった。

<三嶋>

 

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