okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

真嘉比あるき

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


11月24日、今年度に予定している「真嘉比ある記」の予備調査を実施した。

那覇市真嘉比は学生時代に友人がいたり、かつての通勤路でもあるので、見慣れた場所ともいえる。しかし、今回のガイド、地元出身の砂川氏の体験混じりの説明を聞くと、また別の顔が見えて面白かった。

戦前の真嘉比は純粋な農村だったというが、モダンな住宅やアパートが隙間なく立ち並ぶ現在のようすから、そんな風景を思い描くのは難しい。

戦後の真嘉比には、ひめゆり通りや国際通り界隈を中心に復興する那覇に、職を求めて各地から人々が集まった。

銘苅、天久の土地を強制収用し、マチナトハウジングが真嘉比の西隣りに出現すると、米軍の家庭にハウスメイドとして通う人たちも多かった。

現在の高屋自治会会長も、この地域は“合衆国”で、あちこちから集まった人でできていると語る。会長自身も八重山の出身だそうだ。戦争で戦前が消滅した地域に、先島や北部から職を求めて出てきた人々が、戦後、寄り添いながら形作ったムラといえるだろう。

かつては急激な人口流入でインフラも追いつかず、タクシーに乗車拒否されるほどの悪路が、真嘉比の代名詞だった。

しかし、現在、那覇新都心地区の再開発の波は真嘉比にまでおよび、戦後の街並みを大きく変貌させている。

細くて曲がりくねっていた集落内の道は、大きく直線的に整備され、生活感のある赤瓦やセメン瓦、トゥータン屋もほとんど姿を消した。

大道・松川から首里に至る道(県道29号線)に対し、裏通りのような「まかん道」も真嘉比の名所だった。

首里から辻に遊びに行く男たちが人目を避けて通ったとか、「逆だち幽霊」の伝説も残る寂しい道で、道の両側には最近まで多くの墓があった。

しかし、気がつけば松川交差点まで一直線につながるように拡張整備されていて、マックやスタバが立ち並ぶ今風の通りへと変貌している。

便利でよくなったんだけどねえ。何だか…

<三嶋>

--------

 

城間光雄さんのこと

 Category: Myある記  Comment : 0


はやいもので、城間光雄さんが逝って、1年が過ぎた。

私は氏が体調を崩したあとで知り合い、そのあと約8年ほどの付き合いしかなかったため、木工作家として活躍していたころの姿は知らない。

しかし、その名前は以前からメディアを通じて知っていたし、曲がった県産材をそのまま使った、大胆であっけらかんとした家具の写真を見た時、なるほどこういうアプローチもあるんだと驚いたことを覚えている。

斬新な発想とモダンなフォルムが、沖縄に新たな可能性をもたらすと思えたし、事実、その後、関係者に与えた影響は、素人の私から見ても少なくなかったようにみえる。

彼の作品を全国に知らしめたのは、美術工芸の専門誌である季刊『銀花』の第99号(1994年)に取り上げられてからのようだ

そのなかで、“本土に比べれば1周遅れのランナー”とつぶやく城間さんを、インタビュアーは「反面、伝統に縛られない強みも感じているにちがいない。自在な発想と豊かな個人の創作を続ける中に、未来につながる伝統の核をはらんでいないともかぎらない」と書いている。

この雑誌掲載が大きな転機となり、本土のデパートなどから作品の展示・販売会に招かれることが増えた。そして知念村の工房・木創舎(きづくりや)を拠点に、忙しく全国を飛び歩く日々が続いていたようだ。

それだけに、病魔に侵されてからの苦しさは人一倍大きかったに違いない。ままならない体調に、苛立つことも多かったと思われる。

しかし、私が知り合ったころは病を受け入れる心境に達していたのか、激しい感情の起伏を人に見せることはなかった。会話はいつも冗談と毒舌交じりで、それを承知して集まる仲間が絶えなかった。

そして、死を意識するなかで城間さんが注力したは、仲間たちと取り組む近くの森に眠る底川(スクガー)集落跡の保存活動であり、絶滅危惧種キバナノヒメユリの育成と普及活動であった。

1960年代まで続いた集落跡を案内し、かつては知念半島全域に咲き誇っていたという花の保存を訴えた。

それは、沖縄の森と草花を愛でた木工作家の遺言だったかもしれない。

資料を整理したり、思い出の場所を訪ねてみようと話し合ってもいたのだが、それも叶わないままとなってしまった今、ひとしお後悔の念が募っている。

<三嶋>

--------

 

ジャーガル道の戦後2

 Category: Myある記  Comment : 0


前回に続き、北谷町と沖縄市をむすぶ「ジャーガル道(謝苅道)」についての紹介。

ここに載せたモノクロ写真は1952(昭和27)年に撮影され、今年、NPO法人琉米歴史研究会に返還されたもの。地元の方々の話で、そのうちのいくつかは場所を特定することができた。

謝苅道を美浜に向けて下る人たち。

前回も紹介した町田病院の看板と、石段が左に見える。

上記の写真とほぼ同じ場所。「謝苅一区」のバス停が立っている。

左手の小高くなった場所に町田病院があったが、痕跡は何も見当たらない。

道路は舗装整備されただけで、戦前から変わらないと聞くが、新たな道路建設の準備が近くで始まっている。

町田病院があった裏手の路地。

現在も戦後とあまり変わらない雰囲気の路地。

先に進むと謝苅道の下をくぐるトンネル(水路)があるが、戦前に造られたものとのことだ。

写真の右手に見えるのは部落で使われたカー(泉川)。手作りの石碑には「吉原三班/泉川/1957年8月8日建設」の文字が刻まれている。

かつては暮らしに欠かせない場所だったのだろうが、今は省みる人もいないのか、ひっそりと雑草に埋もれようとしている。

謝苅道と撮影位置図

沿道で出会ったと思われる少女たち。

場所は特定できないが、道路下に見える茅葺の家屋やカーブの雰囲気から、謝苅道であることは間違いないようだ。

戦後の貧しさの中でも笑顔を向ける子供たちに、同じく戦争を経験したであろう撮影者は、国を超えた希望の光を見出したのだろうか。

健在なら80歳近い年齢になっているはずのこの少女たちに、見覚えがないか地元で聞いてみたのだが、確たる情報は今もって得られていない。

<三嶋>

 

--------

 

ジャーガル道の戦後1

 Category: Myある記  Comment : 1


北谷町の西海岸は、近年、大勢の観光客や若者でにぎわっている。

米軍ハンビー基地の返還がその画期となったことや、戦前は県内有数の米どころだったことなど、もはや忘れ去られてしまったようだ。

戦後、西海岸の平野はほとんどが米軍に接収され、そこに居住していた住民は、美浜から現在の沖縄市山里に続く坂道、通称「謝苅道(ジャーガルみち)」周辺に追いやられた。

人々は起伏が激しく狭い土地に廃材で家を建て、厳しい環境のなかで戦後を生きてきたのである。

このたび、この謝苅周辺の戦後を写した写真がNPO法人琉米歴史研究会に届き、その中のいくらかは地元の方の協力で場所が特定できたため、ここで紹介したいと思う。

バラックがひしめく谷間の集落を睥睨するように、山の上には米軍の将校クラブが建っている

沖縄市南桃原から見た北谷中学校方面。写真中央のガジュマルは今も残っている

 

撮影者の妻と思われる女性と、かつての北谷村役場

平和之塔の西側はす向かいの位置で、現在、北谷印刷が建っている場所と思われる

 

女性が見つめる先にある建物は、町田宗邦氏が昭和26年から29年まで開業していた町田病院

町田病院はその後、越来村山里に移転したと長男の宗孝氏からお聞きした

謝苅道(県道24号線)は、クネクネと曲りくねって尾根を走り、北谷町美浜と沖縄市山里をむすんでいる。

戦後の雰囲気を今も残す道の両側にはかつて人々があふれ、北谷町の行政や教育、商業を担う町の中心地であった。

軍用地の返還とともに、この地を去る企業や店舗が増え、商店街も往時のにぎわいを失いつつあるようだが、地域に蓄積された人々の記憶を消すことはできない。

だからこそ、かけがえのない人生の思い出(記憶)を、記録として残すことが重要であろう。それがこれからの住民に対しても、価値ある遺産になることは間違いないからである。

<三嶋>

 

--------

 

健堅あるき報告

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


去る10月7日(日曜)に実施した、本部町の「健堅あるき」報告。

昨年春の「渡久地あるき」に続いて、今回も健堅に住む中村英雄さん(89歳)に同行していただき、「十・十空襲」にまつるわる体験談を聞くとともに、その痕跡などを訪ねた。

本部港近くに建つ迅鯨慰霊碑

目の前の海で、昭和19年10月10日に沈んだ旧海軍の潜水母艦・迅鯨の慰霊碑は、戦後、中村さんの自宅を偶然訪れた元乗組員、高屋博氏との出会いを経て、共同で建立することになったもの。以後、中村さんは毎朝の掃除と10月10日の慰霊祭を、しばらく前まで一人で続けてきた。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する迅鯨(右)と第一南海丸(左)
<写真:琉米歴史研究会>

中村さんたち3人の少年は、右下に見える瀬底島の浜に救助した乗員を運び、矢印の場所に隠れた。米軍機は南西の方角(写真右)から北東(写真左)に向けて飛び、爆弾投下や機銃掃射を行った。

崎本部側から見た第一南海丸(丸印)。1946年ごろ
<写真:琉米歴史研究会>

第一南海丸は、石垣島・宮古島から那覇港を経由して来たと思われる徴用船で、迅鯨と同じく十・十空襲に見舞われて沈んだ。

前部のデッキに鉱石を積み、後部デッキには、対馬丸(8月22日沈没)に乗った疎開学童の荷物を積んでいたという。

また、大島紬などの反物やタオル、ミシンなどもあって、付近のウミンチュは夜になると船に潜り、さまざまな品を引き上げた。

だが、その作業は楽なものではなく、中村さんとともに迅鯨の乗員を救出した一つ年上の先輩も、船から出られず溺死した。月明かりが頼りの素潜りである。舞い上がった泥で出口を見失ったことが、死因と考えられた。

流れ着いた14人の遺体を火葬し、遺灰を埋めた場所

中村さんたちが埋葬した遺体は、1946年1月に米軍の攻撃を受け、渡久地港の前で座礁した金剛丸の軍属と思われる。

その中に、2人の朝鮮人強制労働者がいたことが最近になって分かり、関係者が韓国から訪ねてきたことも新聞で報道された。

渡久地と隣接する谷茶の港。山の上に監視哨が小さく見える
<写真:琉米歴史研究会>

敵機や敵の船を発見するための監視哨は、2階建ての1階が埋まっているものの、当時と同じ山の上に残っている。

中村さんは十・十空襲の前日、9日の朝5時から夕方5時までここで任務についていた。翌10日の早朝には舟に乗り、漁場に向かう途中で迅鯨の火災に遭遇する分けだが、この監視哨でも当日、悲劇が起こっていた。

朝から当番についていた中村さんの同級生が、敵機の攻撃で電話が通じなくなった監視哨から、来襲の報を那覇に知らせるべく、伝令として麓の警察署まで山を駆け下りたのだが、その途中で消息を断ち、遺体も見つからなかったというのである。

また、9日まで中村さんと行動を共にしていた先輩の一人は、翌10日早朝、大栄丸に乗り込んで出漁したが、米軍機と浮上してきた潜水艦による攻撃を受けて船が沈没。18人の仲間とともに亡くなっている。

本部における十・十空襲の実相は、今だに不明な部分があり証言が食い違うことも少なくない。

記録が乏しいのは、戦時下だからでもあるだろう。が、歴史に向き合おうとしないばかりか、都合が悪いことは隠そうとさえするこの国の風土や日頃の習性が、そこに伏流してはいないか。

その意味でも、中村さんの証言はほんとうに貴重であろう。

そして何より、多くの試練を乗り越えてきた波乱の軌跡が、多くの示唆と元気を私たちに与えてくれるのである。

健堅資料2

健堅資料1

<三嶋>

--------