okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

健堅あるき報告

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


去る10月7日(日曜)に実施した、本部町の「健堅あるき」報告。

昨年春の「渡久地あるき」に続いて、今回も健堅に住む中村英雄さん(89歳)に同行していただき、「十・十空襲」にまつるわる体験談を聞くとともに、その痕跡などを訪ねた。

本部港近くに建つ迅鯨慰霊碑

目の前の海で、昭和19年10月10日に沈んだ旧海軍の潜水母艦・迅鯨の慰霊碑は、戦後、中村さんの自宅を偶然訪れた元乗組員、高屋博氏との出会いを経て、共同で建立することになったもの。以後、中村さんは毎朝の掃除と10月10日の慰霊祭を、しばらく前まで一人で続けてきた。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する迅鯨(右)と第一南海丸(左)
<写真:琉米歴史研究会>

中村さんたち3人の少年は、右下に見える瀬底島の浜に救助した乗員を運び、矢印の場所に隠れた。米軍機は南西の方角(写真右)から北東(写真左)に向けて飛び、爆弾投下や機銃掃射を行った。

崎本部側から見た第一南海丸(丸印)。1946年ごろ
<写真:琉米歴史研究会>

第一南海丸は、石垣島・宮古島から那覇港を経由して来たと思われる徴用船で、迅鯨と同じく十・十空襲に見舞われて沈んだ。

前部のデッキに鉱石を積み、後部デッキには、対馬丸(8月22日沈没)に乗った疎開学童の荷物を積んでいたという。

また、大島紬などの反物やタオル、ミシンなどもあって、付近のウミンチュは夜になると船に潜り、さまざまな品を引き上げた。

だが、その作業は楽なものではなく、中村さんとともに迅鯨の乗員を救出した一つ年上の先輩も、船から出られず溺死した。月明かりが頼りの素潜りである。舞い上がった泥で出口を見失ったことが、死因と考えられた。

流れ着いた14人の遺体を火葬し、遺灰を埋めた場所

中村さんたちが埋葬した遺体は、1946年1月に米軍の攻撃を受け、渡久地港の前で座礁した金剛丸の軍属と思われる。

その中に、2人の朝鮮人強制労働者がいたことが最近になって分かり、関係者が韓国から訪ねてきたことも新聞で報道された。

渡久地と隣接する谷茶の港。山の上に監視哨が小さく見える
<写真:琉米歴史研究会>

敵機や敵の船を発見するための監視哨は、2階建ての1階が埋まっているものの、当時と同じ山の上に残っている。

中村さんは十・十空襲の前日、9日の朝5時から夕方5時までここで任務についていた。翌10日の早朝には舟に乗り、漁場に向かう途中で迅鯨の火災に遭遇する分けだが、この監視哨でも当日、悲劇が起こっていた。

朝から当番についていた中村さんの同級生が、敵機の攻撃で電話が通じなくなった監視哨から、来襲の報を那覇に知らせるべく、伝令として麓の警察署まで山を駆け下りたのだが、その途中で消息を断ち、遺体も見つからなかったというのである。

また、9日まで中村さんと行動を共にしていた先輩の一人は、翌10日早朝、大栄丸に乗り込んで出漁したが、米軍機と浮上してきた潜水艦による攻撃を受けて船が沈没。18人の仲間とともに亡くなっている。

本部における十・十空襲の実相は、今だに不明な部分があり証言が食い違うことも少なくない。

記録が乏しいのは、戦時下だからでもあるだろう。が、歴史に向き合おうとしないばかりか、都合が悪いことは隠そうとさえするこの国の風土や日頃の習性が、そこに伏流してはいないか。

その意味でも、中村さんの証言はほんとうに貴重であろう。

そして何より、多くの試練を乗り越えてきた波乱の軌跡が、多くの示唆と元気を私たちに与えてくれるのである。

健堅資料2

健堅資料1

<三嶋>

--------

 

前田高地の戦い2

 Category: Myある記  Comment : 0


前回に続き、前田高地の戦いにまつわる話。

映画「ハクソー・リッジ」は、良心的兵役拒否者として衛生兵になった主人公、デスモンド・T・ドス海兵隊二等兵が、多くの負傷兵を超人的な力で崖から降ろし、救助したという実話に基づいている。

その活躍は、アメリカ陸軍省戦史局『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』(喜名建勇訳)にも記述され、米軍最高の名誉勲章を氏は授けられている。

その、ドス海兵隊二等兵の功績を称えて、軍政府が建てた記念碑が下記の写真。

撮影年月日不明 
<写真:沖縄県公文書館蔵>

記念碑の設置場所は、浦添市当山の軍道5号線(現・県道241号線)と、当山小学校に向かう道路の角と思われる。

今ではマンションなどのビルが立ち並び、同じ場所からの撮影は不可能だが、近くの横断歩道橋に登ると少しだけ位置関係が分かる。

三差路にある歩道橋から撮影。建物の間から為朝岩がかろうじて見える

ドス二等兵などの功績を称える記念碑は、戦後、米軍が全島70余カ所にのぼる戦跡に立てることを計画したものだ。

1950年3月22付「沖繩タイムス」紙には、トラバーチンを3段に積み重ねた、高さ18フィートの石碑がイラスト入りで紹介され、和英の碑文が銅板に浮彫りにされるとある。

同年6月18日には、ホッジ・シーツ両将軍の戦闘指揮所記念碑とシーツ少将頌徳碑の除幕式が、中城公園内で行われている。米軍はこれを皮切りに、2週間以内に7カ所設置したあと、順次建立するとしている。ドス海兵隊二等兵の記念碑も、そのあと建てられたひとつだったのだろう。

がしかし、この記念碑は、1952年10月、2つの真鍮製の碑文が何者かに盗まれ(10月21日付「琉球新報」)、1954年3月には、前述のシーツ長官記念碑の銅版も盗難にあい(1954年3月26日「琉球新報」)、1956年9月には、高嶺村(現糸満市)真栄里にある、バックナー中将碑の銅板も盗まれている(1956年9月19日「沖繩タイムス」)。

一連の盗難事件の背景には、占領者意識を丸出しにして米軍が建てた記念碑への反発があったのは、間違いないだろう。また、当時のスクラップブームも拍車をかけたと思われる。

それにしてもしたたかに生き抜く人々の姿に、何となく共感を覚えるのはボクだけだろうか。

盗難の後に建ったと思われるドス二等兵の記念碑。1964年撮影
<写真:琉米歴史研究会>

写真に写る為朝岩と前田高地(ハクソーリッジ)の麓は、荒地のまま放置されているようだ。

そして新しい記念碑に、もはや銅板ははめられていない。

<三嶋>

--------

 

前田高地の戦い

 Category: Myある記  Comment : 0


浦添城跡は、沖縄戦における激戦地のひとつである。

その東側は前田高地と呼称され、昨年(2017年)公開されたハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台となった。

映画には、住民の視点が欠けているという指摘もあったが、商業映画として成功させるには、シンプルなヒーローものとして展開する必要があったのだろう。

それよりボクが驚いたのは、驚くほどリアルな仮想空間を現出させている、映像技術である。人と人が至近距離で殺しあう生々しさは想像を超え、誰もが目を覆いたくなる恐怖を味わうことだろう。それは実写ではないかと錯覚するほどだ。

かつて戦争映画を見た父親は、「本当の戦争はこんなものではない」と漏らしていたが、最新の映像は、ホンモノ以上にホンモノらしく戦争を見せているのかもしれない。

問題がない分けではないだろう。

が、戦争体験者がやがていなくなる時が迫る今、フィクションを超えたリアルな映像表現が、戦争の実相を継承する有効なツールになるかもしれない。

そこには恐怖や嫌悪が満ち満ちていて、耐え難い苦痛を伴うのかもしれないが、それは致し方ないだろう。なぜならそれが戦争なのだから。

昨年(2017年)6月に参加した前田高地見学会。為朝岩(ニードル・ロック)に向かって歩く

 

この場所で絶望的な戦いに身を投じた日本兵の一人に、沖縄学で著名な外間守善氏がいる。

奇跡的に生き残った氏は、その過酷な戦場体験を『私の沖縄戦記 前田高地・60年目の証言』にまとめている。

その書によれば、上記写真の手前、為朝岩の南東部250mほどの地点が、日米双方に死傷者が続出した「魔の高地」であり、戦友600余人が屍をさらした場所だという。

浦添市当山の住宅地から見た前田高地一帯の風景

このハクソー(金ノコ)・リッジでは、1945年4月30日の夜、米軍が長さ15mのハシゴ4つと貨物網5つをかけてよじ登った、とアメリカ陸軍省戦史局『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』(喜名建勇訳)にあるが、崖をよじ登った全兵士は、翌日、日本軍の攻撃ですべて駆逐される。

以後、日米の兵士による壮絶な肉弾戦がこの高地で繰り広げられ、崖を登る米兵に加え、南側に回った米軍戦車や火炎放射攻撃に対し、外間氏をふくむ日本軍は、洞窟陣地に立てこもりながら必死で応戦するが、圧倒的な米軍の力にねじ伏せられていく。

あらゆる弾を撃ち尽くしたあとは、手榴弾や石を投げ、体がバラバラになった戦友の死体が壕内には積み重なった、と外間氏は書いている。

前田高地の南、現在の前田小学校付近を前進する米軍。背後に為朝岩や「魔の高地」が見える
※参考:水ノ江 拓治のHP「沖縄戦史」(http://www.okinawa-senshi.com)

前記の『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』によれば、7日間におよんだ前田高地の戦いで、米軍は3000人以上の日本兵を殺害したと推定している。しかし米軍側の消耗も大きく、手榴弾を双方で投げ合うという肉弾戦を経て占領した結果、断崖を登った約800の米軍兵士は、324人になっていたとに記されている。

<三嶋>

--------

 

「健堅ある記」のご案内

 Category: 案内  Comment : 0


来月10月7日(日)予定の、本部町「健堅ある記」にご参加ください。

当日は、同町に残る「十・十空襲」の痕跡を、健堅(けんけん)に住む中村英雄さん(89歳)と巡りながら、追体験する予定。

健堅を中心に3ヶ所ほど回りますが、各自、車での移動になりますので、安全面には十分な注意を払っていただくようお願い申し上げます。

健堅ある記チラシ

 

--------

 

中村さんと十・十空襲を追体験する

 Category: Myある記  Comment : 0


1945年に本部町健堅で撮影された日本兵の墓標の写真が、以前、新聞で公表されたたほか、このサイトでも紹介した。その墓標のうちの二人が朝鮮籍だったとわかり、8月初め、健堅の中村英雄さん宅まで韓国のテレビ局が訪ねて来た。

地元でもほとんど知られていない事実に光を当て、体験者の声に耳を傾けながら真摯に歴史と向き合おうとする人々の姿に、立ち会ったボクも刺激された。

そこで、さまざまな経験を経てきた中村英雄さんのことを、より多くの方に知ってもらいたいと、本人同行で十・十空襲を追体験する“ある記”を提案。同意を得たので、現場を訪れながら当時の状況を確認した。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する渡久地港と瀬底島。写真:沖縄県公文書館蔵

瀬底島と本部の間(瀬底水道)で投錨していた日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」も、米軍機の攻撃で炎上。約150名の死者を出し、5日間ほど燃え続けた。

戦後間もない時期、着底したまま赤錆びる「迅鯨」。写真:琉米歴史研究会蔵

沈没する直前まで学童疎開船としても使用され、8月14日には宮崎への学童疎開第一陣(児童119名・付添12名)を鹿児島港に運んだほか、同月26日に185名、30日には180名の学童を乗せて那覇港から出航した(三上謙一郎『沖縄学童集団疎開』)。

瀬底島と本部の間(瀬底水道)は日本軍の要港とされた場所。迅鯨は9月、奄美大島近海で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷。この場所に曳航されて修理していたと思われる。

戦後、5カ月におよぶ沖縄初の沈没船引き揚げ作業が行われ、1952(昭和27)年7月25日、7年ぶりに浮上するが翌月、北九州の八幡に曳航され解体された。

本部町健堅の山並みと海岸。1948(昭和23)年8月撮影。写真:琉米歴史研究会蔵

かつては美しい白砂の海岸が続き、アギヤー(追い込み漁)が盛んなウミンチュのムラとして知られた。海洋博を画期として周辺海岸の改良整備が進められた現在、この地から砂浜は消滅した。

日本兵を救助した瀬底島の浜に立つ中村英雄さん(89歳)

迅鯨は、中村さんの背後に見える瀬底島の沖合およそ300mの地点で、午前7時ごろから米軍機の攻撃を受けた。

グルクン漁に向かう途中だった中村さんと2人の仲間は、燃え盛る迅鯨にサバニを近づけ、負傷した日本兵約30名を救助し、このニーカジラーの浜に往復して運んだ。

軍国少年だった当時15歳の中村さんが、その翌年、予科練に入学したのは、来襲する米軍機をこの浜の岩陰で歯噛みして眺めたという、この日の体験があったからではないだろうか。

<三嶋>

--------