ジェンキンズ写真集
2012年6月3日 Category: Myある記 Comment : 0

今帰仁歴史文化センターの仲原弘哲館長に、『OKINAWA Isle of Smiles(ほほえみの島・沖縄)』という珍しい写真集を見せてもらいました。
1951年にアメリカで出版されたものですが、調べてみたら、著者ウイリアム・E・ジェンキンス氏について少しだけわかりました。
氏は1950年ごろキャンプ桑江で働いていたエンジニアで、当時42,3歳。18年にわたる沖縄滞在中に、各地でいろいろな写真を撮影したようです。
「沖縄の笑顔は建前ではなく、素直な笑顔だ」と記されているようですが、この写真集からは、当時の人々の暮らしぶりや素朴な表情がストレートに伝わってきます。
琉米歴史研究会が所有する写真にもいえることですが、戦後、困窮の極みであった人々が、信じられないくらいイイ表情をしていることに驚かされます。
ボクらは、この時代の人のような笑顔に、今なれるのでしょうか?
(三嶋)
白いスズメ
2012年5月31日 Category: Myある記 Comment : 0

県内新聞両紙で、白いスズメ(アルビノ)の話題が掲載されていました。
そういえば、小生も撮影したけどなあと思いだし、探し出した写真がこれです。
ちょっと茶色いですね。
記録を見たら1995(平成7)年11月・・・エー! 17年前?!
残酷なトキの流れに、しばし固まりました。
そうかこの年は初のCD-ROM『沖繩の野鳥』を作った年。バードウォッチングにハマッテいたんです。
ヤツガシラ(頭に長めの羽根がある)が庭に来たこともあったなあ。
(三嶋)
ハーフムーンヒル
2012年5月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0

那覇新都心通り会の「新都心かわら板」に、「新都心ある記・ハーフムーンヒル」と書きました。
ハーフムーンヒル(半月形の丘)は米海兵隊の呼称で、陸軍はクレセントヒル、地元では「ウフドウムイ(大道森)」と呼ばれた丘です。
真嘉比小学校の南側にある(あった)山です。
放置された墓があちこちに立ち並んでいて、これまで足を踏み入れるような場所ではありませんでしたが、ここがシュガーローフ以上の激戦地で、日本兵の遺骨がまだ埋もれているとは、2008年におこなわれた市民参加の遺骨収集作業に加わるまで知りませんでした。
当日は「ガマフヤー」の具志堅さんの案内で、真嘉比壕や遺骨の発掘作業に立ち合いましたが、街中に現れた生々しい戦争の傷跡に誰しも息を飲む思いがしたはずです。
そこに横たわっていたのは、抽象化された「日本兵」ではなく、1人の肉体を持っていた個人、名前を持っていた亡骸でした。
新聞報道では、この地域に102名の日本兵が立てこもり、93人が死亡したと伝えています。
同地の収集作業は、しかし、新都心から松川方面に抜ける道路工事にせき立てられ、不十分なまま(まだ多くの遺骨が残ったまま)終了します。
具志堅さんたちの粘り強い活動がぎりぎりまでおこなわれていたことは、マスコミ報道などでご存知だと思います。
現在、ハーフムーンヒルの多くは道路に削り取られ、コンクリートに固められた法面をさらしています。
(三嶋)
屋富祖大通り
2012年5月28日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0

『しまたてぃ』連載の「戦後を歩くシリーズ4・屋富祖大通り」を、よくやく入稿しました。
2月に調査したものなので、思ったより時間がかかりましたが、まずはホッとしたところ。
同地は、言わずもがなキャンプキンザーとともに生きてきた町ですが、コザや金武のような「基地の町」の面影はほとんど残されていません。
人影もまばらな現在の大通りからは、かつて浦添の中心地といわれたほどにぎわったという話も、現実感がないように思われます。
しかし、町や人々の記憶をきちんと記録し後世に残すことは、よりよい未来を招来するために、どの地域にも不可欠な作業ではないでしょうか。
基地の返還が現実味を帯びはじめたこの時期だからこそ、先達の証言に耳を傾け、歴史に学ぶことがいっそう大事になると思われます。
われわれも、この機会を起点にした交流を継続し、さまざまな記録を残したいと考えます。
(三嶋)
5.15とともに、北中城写真展が終わりました。
2012年5月16日 Category: Myある記 Comment : 0

12日からおこなっていた琉米歴史研究会の写真展が、15日終了しました。
今回は(ボクが)思ったより来場者が多く、メモ紙に情報を書いてもらう方法も理解してもらえたようでした。連休中テンパっていた喜舎場さんも最終的には喜んでいたんで、めでたしめでたし。
また、写真展に合わせて来沖した元米兵・ブルースさん(73歳)と、被写体の人たちとの感動的な再開シーンが何度もありました。
当時の子供たちやその親・親戚などがひっきりなしに訪れては、ブルースさんと当時を懐かしんだりしていましたが、多くの先輩方が英語で気軽に話す光景には大変驚かされました。基地で働いていた当時の英語が、再開の喜びで一気によみがえったのか、気さくに英語で彼と話し、笑い、ハグしています。それは、戦後のウチナーンチュが再来したようで、あふれるバイタリティーをうらやましいような、まぶしいような気持ちでただ見とれていたのです。(三嶋)
