okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

県民大会

 Category: Myある記  Comment : 0


ピーカンの殺人的陽射しを浴びながら、奥武山の県民大会へ行ってきました。
この種の抗議集会に行くのも、もう何回目でしょうか。
事態は何も変わっていないともいえるし、少しずつ変わって来たともいえるでしょう。世界中で国民国家が溶解しつつある今、県知事が先頭に立って国に向き合うことの意味は深いと思います。気がついた時には引き返せなくなり、300万人の犠牲者を出した過去を持つ日本。沖縄戦を含む惨禍を、人は1世紀を待たず忘れてしまうものでしょうか。
IMGP5672
炎天下にもかかわらず、中高年の参加者が詰めかけていました(いつもですね)が、今回は若い登壇者も多く、その素直な物言いに好感を持ちました。

そのなかで、県内大学に通う他府県出身の女性が、沖縄に対する本土人としての贖罪の気持ちを語っていましたが、ああ自分の大学時代と同じだ、といとおしくなりました。
『沖縄ノート』に触発されて来沖し、ある意味苦しめられてきた在沖日本人として、次世代の若者にも思いが継承されていることに嬉しさと安心を覚えました。
これからも苦しむかもしれませんが、顔も知らない(見えなかったし)女の娘に、「頑張れ」と励ましの声を掛けたくなりました。

集会の最後には「月桃の花」を合唱しましたが、正直、こんなにいい歌だったかなと自分でも驚き(失礼)。しばらく耳から離れなくなりそうです。
IMGP5688
散会のあと明治橋を渡り、帰途につく人たちです。
アリのごとく一人一人は小さいけれど、だからこそ集まるしかないではないですか。そして、力を合わせれば、アリでも壁に一穴開けられるのだと示したい。
国とは何かを問い続けるためにも、沖縄から日本に向かって声を上げ続けなければならないと思います。
<三嶋>

--------

 

与那原が面白くて

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


このところ与那原にどっぷり浸かり、抜けられない状態。
調べれば調べるほどネタが増えて、キリがないんですよね。嬉しいんですが、『しまたてぃ』紙面には納まりそうにないので、もったいないけど割愛するしかないでしょうね。

これまでは、そんな紹介しきれなかった話や写真を、ネットでカバーしていたんですが、サイトがクローズしちゃいました。残念ですが。
IMGP5578
写真は国道331号から東浜につながって、以前より広くなった「えびす通り」。
この辺から、西側に並行して走る「親川通り」あたりが、与那原の中心街。戦後、いちはやく復興し、周辺の人たちの暮らしを支えてきた地域ですが、東浜ができた今は過去形になった感じが否めません。
IMGP5651
歩いていると、最近はついついセメン瓦に目が行きます。
与那原のセメン瓦は、現在の長嶺木材店の南側で、諸見里という方が作り始めと聞いていましたが、写真の瓦もそのひとつではないでしょうか。鬼瓦のMは諸見里のMだと思います。

IMGP5649
「親川通り」入口。戦後いち早くマーケットが復活した場所です。
この通りには南部一円の人たちが集まり、物々交換を路上で盛んに行ったそうです。右角の二階屋は昭和25年完成。鬼瓦には、二羽の可愛いハトが刻まれているので、行かれた方は捜してみてください。

沖縄戦で焼け野原となった与那原は、それまでの通りや屋敷を無視して米軍が土地を敷きならし、物資集積場としたため、土地の境界線を巡る争いが長く続いていました。
そのことが、地域のコミュニティー形成に影を落としたことは想像に難くありませんが、国境問題から宅地まで、何と人々は土地に縛られているのかと思わずにはいられません。
佐敷で出会ったおばあさんが、「土地は神様から借りているもの」と話していたことを思い出しました。
IMGP2318
写真は2008(平成20)年、運玉森から見た与那原の埋立地(現東浜)。
与那原の街は戦後、山原船が途絶えるとかつての輝きを失い、那覇のベッドタウンとして位置づけられるようになっていきました(ボクが学生の頃、与那原テックというレジャー施設がオープンしたこともありましたが…)。

狭小な町域(確か沖縄島の市町村で最小)が、発展の阻害要因といわれてきたのですが、埋め立て地の出現が呼び水となり、町全体に活気が戻ってきたようです。町の未来も明るいと思われます。

そのことに、ボクは水を差すつもりはないのですが、山原船やケービン鉄道が行き来した頃の、与那原の姿も忘れないでいて欲しいと考えます。それは、海と陸を利用した中継貿易で、独自の道を切り開いてきた先人の知恵や勇気が、この町一番の財産だと思うからなのです。
<三嶋>

--------

 

与那原ある記パート2

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


『しまたてぃ』の取材報告。今回は与那原を取り上げます。

与那原は東部の湾岸埋め立てが進み、街のにぎわいも移動した感がありますが、私見では、那覇新都心的な街は「もういいんじゃないの」というのが本音。関係者には悪いけど。
全国どこでも同じような、キレイだけど面白味がない、ツルンとした顔の街が広がっていますよね。その方がいろんな意味で効率がいいし、差し障りがないのかもしれませんが、町の個性というか、「らしさ」がないのが、いただけないと感じてしまいます。
なので、歴史のある街のリニューアルはもちろん、これからの街でも是非、固有性を意識した地域づくりをしていただきたいと願う次第なのです(ストック・フレーズですね)。
DSCF0503
今回、街を案内していただいたお一人は、かつての与那原町長・粟国さん。
肩書きに少々ビビリましたが、気さくな人柄に安心し、面白い話をたくさん聞くことが出来ました。ありがとうございました。

なかでも驚いたのは、与那原から首里高校に毎日歩いて通ったという話です。
ボクも大学時代、1回だけ同じコースを往復し、ヘトヘトになったことがあったので、「毎日ですか?」と聞き返したのです。すると、「片道30分ぐらいだから、たいしたことないよ」との返事。う〜ん、さすがに昔の人は(失礼)強い、と感じ入った次第。恐れ入ります。

が、履物には困ったそうで、普段は裸足で歩き、首里に近づいて履くんだけども、ゲタはすぐダメになるので、米軍の戦闘靴を半分に切ったものを履いたそうです。
また、軍作業時代には、Tシャツを10枚も上着の下に着て、汗だくで「戦果」を挙げたこともあったそうで、そのたくましさには、やっぱり、かなわないなあと思った次第。
DSCF0498
かつての与那原海岸にかかる東浜橋。“旧市街”のえびす通りと、今が旬の東浜地区をつなぐ幹線道。
イラストにある山原船は、与那原〜本島北部をむすんだ東海岸交易ルートのスターです。
現在の与那原海岸は運河のようになってしまいましたが、戦前まではこの場所にいく隻もの山原船が寄港し、おおいににぎわっていました。

那覇や南部一円の物流を支えた港町・与那原は、山原船や県営鉄道、荷馬車・客馬車、バスなどが行き交い、今と比較にならないほど華やかなマチだった、と戦前を知るお年寄りの誰もが、誇らしげに語っていました。
<三嶋>

--------

 

名護ある記

 Category: Myある記  Comment : 0


久しぶりに自主企画で“名護ある記”を実施しましたが、参加者数名。クソ暑い天気を呪いました(暑さのせいではなかったカモですが)。
DSCF0444
前回ネタにした名護博物館にある壁面。
みんなで描いた可愛い壁画が楽しめます。
DSCF0450
オリオンビール工場の近くにある、沖縄で初めてのセメント瓦の家。
名護はセメント瓦発祥の地で、1935(昭和10)年2月、岸本久幸という人が「南国耐風瓦」を作って、沖縄中に広まったとされます。
DSCF0457
かつては映画館もあってにぎわったという、市街地の一角。
数年前に歩いた時より更地が広がっています。むき出しの土が乾き、寂寥感が募ります。
DSCF0461
名護十字路から続く通り。市街地を抜ける大通りが日曜でもこんな感じ。
名護の象徴ヒンプンガジマルと、ジンガムイ(銭ケ森)が遠くに見えます。
imh049
1958(昭和33)年の写真。名護十字路から、前掲の写真とほぼ同じ角度で見た大通り。十字路から北(画面左)に行くと北部病院、南(画面右)に進むとすぐ海岸でした。
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会

名護市街を歩いた後、午後から為又のコージン先生の畑を訪問したのですが、先生の話は、いずれまた(話が多くて語り切れません)。
今回の“ある記”は参加者が少なく、少々盛り上がりに欠けましたが、懲りずにまたまた企画しますので、ご協力のほどよろしくお願いします(ヤーグマイしてないで、さあ歩きましょう、語りましょう)。
<三嶋>

--------

 

ブラック企業化する行政のなかで

 Category: Myある記  Comment : 0


県内の各自治体は、それぞれの地域で、独自に市町村誌(史)を編集・発行し続けています。
その関係者がつくる団体(沖縄県地域史協議会)の総会に出かけてきました。
今回は浦添市が当番ですが、午前中にはいつも周辺の巡見があるので、いつも楽しみです(総会よりこっちが本命なんです)。

でも、集まったみなさんはあまり面白くないのか、巡見はいつも静か。地域史という共通項があるんですから(ボクは違いますが)、「もう少し盛り上ってもいいんじゃね」と思いますね。あまりの静けさに、案内する地元の方も力が抜けるんではと心配してしまいました。 
既知の情報が多いからかもしれませんが、地元でしか聞けない話もあるし、人脈を作るいい機会でもあると思いますけどね。何となくモヤモヤしてしまいました。

DSCF0404
有名な仲間樋川(フィージャー)。
DSCF0410
仲間火ヌ神。

午後の総会で刮目したのは、地域史に関わる人たちへのアンケート結果。非正規雇用が多くを占める厳しい現状に、いまさらながら同情しました。
学芸員資格や教員免許を持つ優秀な若い人たちが、非正規雇用下で働く状況は、今に始まったことではないのですが、他の職種同様にますますひどくなっているんですね。
が、いっぽうで、動き出しの遅さに少々驚いたのも事実。正直、「今ごろ?」という感じなのです。

ブラック企業化が進む行政に異議を唱えることは、個人では難しいでしょうが、それでも、数少ない自治体の求人に、われ先に群がるような状況を続けていることが、問題の共有化や顕在化の動きを阻害し、孤立化を進めているように見えてきます(競争関係が続いている分けですから)

生活のためには仕方がないと言われるでしょうが、共通の課題を話合うだけでも孤立は和らぎ、違った地平が見えてくるのではないでしょうか。
地域文化とそこに携わる人たちが窮乏に瀕している現状を、一般の人たちにもアピールするとか、徒党を組んで何らかの行動を起こしてもいいのではないでしょうか。
そして、少しでも解決に向けて事態が前進するならば、あとに続く人にも勇気が与えられるでしょう。

優秀な人材が不安定な地位に置かれていることは、地域の損失でもあります。貧弱な文化行政に対して、みんなで物申す姿勢を示せば、共感する人の輪は広がるはずです。
自分は行政にいたことはないので、見当違いのことを言っているなら勘弁願いたいのですが、以上の問題は、われわれや先輩たち世代が先送りしてきた結果でもある分けなので、似たような仕事をしてきた身としては、責任の一旦を感じてしまうのです。
<三嶋>

--------