与那原が面白くて
2016年6月16日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
このところ与那原にどっぷり浸かり、抜けられない状態。
調べれば調べるほどネタが増えて、キリがないんですよね。嬉しいんですが、『しまたてぃ』紙面には納まりそうにないので、もったいないけど割愛するしかないでしょうね。
これまでは、そんな紹介しきれなかった話や写真を、ネットでカバーしていたんですが、サイトがクローズしちゃいました。残念ですが。
写真は国道331号から東浜につながって、以前より広くなった「えびす通り」。
この辺から、西側に並行して走る「親川通り」あたりが、与那原の中心街。戦後、いちはやく復興し、周辺の人たちの暮らしを支えてきた地域ですが、東浜ができた今は過去形になった感じが否めません。
歩いていると、最近はついついセメン瓦に目が行きます。
与那原のセメン瓦は、現在の長嶺木材店の南側で、諸見里という方が作り始めと聞いていましたが、写真の瓦もそのひとつではないでしょうか。鬼瓦のMは諸見里のMだと思います。
「親川通り」入口。戦後いち早くマーケットが復活した場所です。
この通りには南部一円の人たちが集まり、物々交換を路上で盛んに行ったそうです。右角の二階屋は昭和25年完成。鬼瓦には、二羽の可愛いハトが刻まれているので、行かれた方は捜してみてください。
沖縄戦で焼け野原となった与那原は、それまでの通りや屋敷を無視して米軍が土地を敷きならし、物資集積場としたため、土地の境界線を巡る争いが長く続いていました。
そのことが、地域のコミュニティー形成に影を落としたことは想像に難くありませんが、国境問題から宅地まで、何と人々は土地に縛られているのかと思わずにはいられません。
佐敷で出会ったおばあさんが、「土地は神様から借りているもの」と話していたことを思い出しました。
写真は2008(平成20)年、運玉森から見た与那原の埋立地(現東浜)。
与那原の街は戦後、山原船が途絶えるとかつての輝きを失い、那覇のベッドタウンとして位置づけられるようになっていきました(ボクが学生の頃、与那原テックというレジャー施設がオープンしたこともありましたが…)。
狭小な町域(確か沖縄島の市町村で最小)が、発展の阻害要因といわれてきたのですが、埋め立て地の出現が呼び水となり、町全体に活気が戻ってきたようです。町の未来も明るいと思われます。
そのことに、ボクは水を差すつもりはないのですが、山原船やケービン鉄道が行き来した頃の、与那原の姿も忘れないでいて欲しいと考えます。それは、海と陸を利用した中継貿易で、独自の道を切り開いてきた先人の知恵や勇気が、この町一番の財産だと思うからなのです。
<三嶋>