本部の撮影場所が分かる
2016年8月5日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりに本部の中村さんを訪ねました。
すると、以前あずけておいた写真の、撮影場所がどうやら分かったとのことで、砂浜の位置や岩、家並みから、「塩川だろう」と地元の知り合いが話していたとのことです。
海岸道路が建設されてからのこの辺りの変わりようは凄まじく、採石工事で山も形を変えているため、確認は難しそうでが、この次に来る時に実行してみようと思います。

撮影:H・テューン 1948(昭和23)年8月6日
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会
綱引きpart2
2016年7月31日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
与那原の大綱曳をあとにして、帰宅途中のコンビニで一休みしていると、チンチキ、チンチキと鉦の音が聞こえます。
ン? とあたりを見回すと、どうやら道向いで何かやっている様子。
近づいて行くと、字宮城の集落で、どうやら綱引きが始まるようです。
そういえば、今日はあちこちで綱引き行われるはず。与那原に気がとられ、ここは気がつきませんでした。

近づいて行くと広場に人が集まっています。準備されている綱も見えます。
あわてて区長さんを探すとすぐに見つかったので、取材許可をもらって撮影しました。
この宮城部落は数年前に来たことがあったものの、詳しく知らないところ(なのに勝手なことを書くのは少々気が引けますが)。

雌綱と雄綱を合わせるシーン。なかなかうまくいかなかったので、カヌチ棒を入れた時には、すでに疲れていたのでは?
が、プログラム通りにいかないところも魅力だし、見物人や引き手ものんびりと待つのが風儀というもの。慌てるなということですね。

綱引き開始。多くの住民が集まり、必死で引き合います。真ん中で紅白の旗を持つのが宮城区長さん。
ここでは、綱引きが出来るほどの住民がいて、集落の結束もまだ維持されているようです。
が、旗頭を担ぐ若者たちはさほど多くないようで、都市化が進むなか、これらの行事がいつまで続けられるか分からないのではないでしょうか。
地域の若者にとって、いつの世もムラ社会は窮屈でしょう。しかし、それが地域のセーフティーネットとして機能していたことには、孤独死などが話題になるまで、あまり気付かなかったような気がします。
田舎から都市を目指し、個として生きる選択をした団塊世代が、今になって相互扶助的なかつての村社会を見直しているような気がします。虫のいい話のようにも思えますが、時代はくり返すのでしょうか。
だけど、最近は、最初から田舎を出ない(出られない)若者も増えているようで、それはそれで問題でしょう。いつの世も、「青年は荒野をめざす」存在であって欲しいですね。
<三嶋>
綱引きpart1
2016年7月31日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
与那原の大綱曳に行ってきました。
これまで、あちこちで綱引きを見てきましたが、ここは初めて。「県内三大綱引き」のひとつというぐらい超有名ですが、天の邪鬼としては、あえて避けてきた感じですえ。

港区コミュニティーセンターの裏に残る、戦前の護岸。
『しまたてぃ』の取材時に教えてもらったもので、当時の護岸はこの部分しか残っていないとのこと。
かつては山原船で栄えた与那原の遺産ですから、大切にして欲しいところですが、ほとんどの人が気付いてないみたいです。

えびす通り交差点で、交通止めにして行われたガーエー。
子どもから高齢者まで、地域総出で取り組むようすには感動を覚えます。特に魅力的だったのは、旗頭を持つ青年たち以上に、はつらつと踊る若い女性の姿。ほとばしるエネルギーに、元気をもらった気がしました。

支度を乗せ、見物人の間近を通って綱引き会場の広場まで移動します。高まる緊張感が間近に伝わります。
綱引きの勝負は、このあと広場で二回行われたのですが、われ先にと前に出てくるカメラやケータイにウンザリし、白けて(今は使わないか)しまいました。
地元の方々の綱引きにかける熱い思いは、多少は分かっているつもりでしたが、これだけの大きさの行事になると、イベント化するのもしょうがないところでしょうか。
ここで伝統の継承とか言うと嫌な顔をされそうですが、すべてを観光に収斂させるような流れには注意が必要な気がします。
ちなみに、一般社団法人しまたて協会が持つ、1960年代と思われる与那原の綱引きの写真がありますので、ここで紹介。

当時も場所は現在とほぼ同じ、埋め立て前の砂浜です。
ここは戦前まで、海水浴場として知られていた場所ですが、残念ながら、この頃から生活排水などの汚れがひどくなったようで、海が身近な存在ではなくなったんでしょうね。
それにしても、この人々の真剣な姿はどうでしょう。
派手さはなくとも、綱を引く人、見物客、みんなが一体となって盛り上がり、殺気立った興奮が伝わってくるようです。
<三嶋>
摩文仁の丘で写真を確かめる
2016年7月21日 Category: Myある記 Comment : 0
前城さんと別れたあと、久しぶりに摩文仁まで行ってきました。
琉米歴史研究会(以下「琉米」)の写真展が10月に決まったので、すこしでも整理しておこうと思ったからです。とりあえず確認したかったのは2ヶ所。
1ヶ所目は、「黎明の塔」があるあたりから見た風景です。


下の写真が、同じ場所から撮影した思われる摩文仁の集落。撮影は1958〜59(昭和33〜34)年。
と、ここで、こんな写真も琉米にあるのを発見。

ボケボケで申し訳ないのですが、1954〜1955(昭和29〜30)年に撮影された「黎明之塔」です。
現在のものと形が違いますね。
調べてみると、この塔は1952(昭和27)年6月22日完成したもので、沖縄新民報(第193号)によれば、「日本側と沖縄側の有志」が工事を行ったようです。
現在の塔が建設されたのは、それから10年後の1962(昭和37)年10月。沖縄協会の援助で行われています。
2カ所目の確認は、祈念公園の南側駐車場から、「健児之塔」に向かう途中にある崖。
写真の手前が健児之塔側、左に進む小道を抜けると海岸に出ます。


米国から送られてきた下の写真は、撮影年月日が分かりませんが、周囲の状況などからみると1950年前後ではないでしょうか。
米兵は、周辺の断崖を “Suicide Cliff(スーサイド・クリフ=自殺の崖)”と呼んでいて、複数の写真が琉米にも集められています。
彼らがどういう心理でこれらの写真を撮影したのかは分かりません。が、ここで失われた命や流された血に対し、悼む気持ちがあってのことと信じたいところです。
<三嶋>
旧玉城村親慶原のCSG部隊
2016年7月21日 Category: Myある記 Comment : 0
知念に住む前城さんは、旧玉城村の親慶原にあった知念補給地区(通称CSG)で、かつて働いていました。
先日、ひょんなことからその通勤ルートも確認しようという話になり、この日、二人で出かけました(暑かったァ)。

志喜屋バス停前。
当時は前方に見える山を上って垣花集落に抜けたが、現在、その山道は樹木に覆われていて、確認できなかった。

知念補給地区の入り口のひとつ(垣花ゲート)。
何十年ぶりなので記憶もあいまいだったのですが、近くで尋ねたり、行きつ戻りつしているうちに、たぶんここだろうということになりました。

前城さんの通勤ルート(赤線)。
字知念の自宅から志喜屋までバスに乗り、そこから山の斜面を上って垣花に抜け、垣花ゲートを毎日くぐっていました。
バス停からゲートまでは直線距離で1kmちょっと。案外近いと感じます。
が、されにゲートから職場まで、広大な基地内を横切って歩いたということです。
前城さんはここで、カメラの点検や修理をしていました。
ベトナム戦争で壊れたものなど、あちこちから大量のカメラが送られてきたそうで、その中には、スパイが使うミノックスという小型カメラなどもあったそうです。
この知念補給地区は、表向きは米陸軍基地でしたが、実は映画などでおなじみのCIA(アメリカ中央情報局)の拠点でした。
1951(昭和26)年ごろから使われはじめ、前城さんをはじめとするかなりの人たちが、周辺地域から働きに来ていました。
知念補給地区の存在は、本土復帰前の1971(昭和46)年、米国防総省の高官が持ち出した極秘文書が、ニューヨーク・タイムス紙とワシントン・ポスト紙に掲載されたことがきっかけで、暴露されることになりました。
同地区は、一般の基地とはかなり違う「秘密部隊」であり、事実、職場以外の部屋は隠されていて、何があるのか分からないようになっていたと前城さんも語っていました。基地の外で遊ぶ兵士もいないため、周囲に特飲街や商店街が形成されることもなく、事件や事故もありませんでした。
しかし、前述の漏えい事件がなければ、米国は本土復帰以後もこの基地を存続される計画でした。
そうなれば、米国諜報機関(キャノン機関)が日本本土で拉致した人物を、ここで監禁したような薄気味悪い事件(カジ事件)が、その後も続いたかもしれません。事実、アジア系の人たちが監禁されているのを見たという話も、別の人から聞いたことがあります。
知念補給地区は、本土復帰後1974年に返還され、その翌年、レジヤー・センターを計画する民間企業グループ(玉城園地)が、約55万坪という広大な土地の賃貸契約を結びました。ここに建設されたのが現在の琉球ゴルフ倶楽部で、完成は1977年9月のことでした。
※参考資料:2007.5.11琉球新報 「世替わりの記憶(3)」/2010.5.18琉球新報 「1次資料から見る日米安保改定50年(12)」新原昭治/ほか
<三嶋>
