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いつの間にか、知らぬ間に

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中学生のころ、なぜ戦争を止められなかった母に聞いたことがある。国民にも非があったのではないかという意をふくむ問いかけに、仕方がなかったと母は返したのだが、酷な質問だったと今にして思う。

昭和元年生まれの母は敗戦時20歳。生まれた時から戦争は身近にあり、思春期を戦争一色に塗りつぶされた世代。

写真:沖縄県公文書館

富国強兵を唱え、世界の一等国を目指して突き進む日本は、日清・日露の勝利に味をしめ、国内の困難の解を戦争に求めて、他国への侵略を拡大していった。

軍国主義に染まる時代の波は、国民に選択を問いかけることもなく、一人一人を災禍に巻き込んでいったが、戦争に協力的ではないにせよ、「いつの間にか巻き込まれた」と思う人々が多かったようだ。

回り続ける歯車を市民が止める手段はなかったのかと単純に思うのだが、蔓延する時代の空気を個人が払いのけるのは、極めて困難だったのだろうと思う。

ここに、旧佐敷村に残る「能久親王御寄港之地碑」を写した2枚の写真がある。

記念碑は1895(明治28)年5月26日、台湾攻略のため佐敷村馬天港に寄港した近衛師団長・北白川能久親王一行を記念して、1922(大正11)年に建立されたものだ。

1959(昭和34)年6月撮影
(写真:沖縄県公文書館)

2011(平成23)年12月撮影

旧佐敷村で歓迎された北白川宮は、1895(明治28)年台湾で死去した。6年後の1901(明治34)年11月7日には、その亡骸を祀る台湾神社鎮座式に出席した宮妃が、帰途佐敷村に立ち寄り、津波古の住民はこれを歓迎して棒術を披露した。

日清戦争に勝ち日露戦争直前の時期だ。社会は戦争ムードに覆われていたのだろう。「台湾掃討」を成した北白川宮を讃える声は社会を覆い、熱狂的な歓迎だったのだろう。

しかし、長い戦争の時代を経て人々は全てを失った。熱気は雲散霧消し、記念碑は行き場を無くしたまま戦後取り残され、今は旧佐敷町役場の駐車場だった場所の片隅に、放置されている。

社会の移ろいやすさは呆気ない。

民主主義の危機が叫ばれるなか、ボクらはどう生きるのか。

未来を見通すことは難しいが、目先のことにとらわれない慧眼を持つ勇気と、努力を自らに誓おう。きっと、過去の記録や証言が力を添えてくれるはずだ。

<三嶋>

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はじめの放送局

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インターネットの普及で、世界はずいぶん狭くなったと感じる昨今だが、敗戦ですべてを失った戦後の沖縄では、情報が入らないなかで、人々は島流しにあったように感じていたらしい。

そんななか、一般向けのラジオ放送が1949(昭和24)年5月16日に復活する。

しかし、この日は2時間のテスト放送で、本放送は翌年1950(昭和25)年1月21日から始まった。米国民政府民間情報部にいた川平朝申を中心に進められたもので、琉球放送局、AKARと呼ばれた。

その戦後はじめてラジオ番組を送信した場所が、具志川村栄野比だったことを知る人は、今では少なくなっているようだが、その建物は一部が今も残っている。

戦後間もない頃の栄野比の家
(写真:沖縄県公文書館)

昨年、里帰りされた、沖縄のアナウンサー第1号となる川平朝清さんに確かめると、東恩納博物館のW・A・ハンナさんが住んでいたこの家に、自分もしばらく住んでいたとのこと。写真に見える家の奥側が少し高くなっていて、送信所があった。

現在も残る栄野比の家

前述のハンナさんと親交があった、琉米歴史研究会の喜舎場静夫さんによると、この家は、ハンナさんが身長に合わせて入り口や天井を高くさせたとのことで、なるほど、その通りの作りになっているし、一般の琉球家屋と異なる石積みの壁があるなど、当時の忍ぶ部分があちこち残っていて面白い。

家の裏側には暖炉と煙突も残っているが、防音工事で壁が作られたため現在は見えなくなっているらしい。

同じ家の前で撮影された上原栄子さん
(写真:琉米歴史研究会)

撮影時期など詳細情報が分からない写真だが、川平朝清さんの話から上原さんと確認することができた。

那覇の辻遊郭で育った彼女は、戦後、料亭「松乃下」を開業したり、自身をモデルにした演劇「八月十五夜の茶屋」で話題となった人物。

何気なく見ていた写真に、予想外の有名人が写っていて驚かされたが、敗戦直後は沖縄の中心地だった石川や栄野比のにぎわいが、かすかに浮かんでくるようである。

<三嶋>

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「谷茶あるき」が終了

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


3月22日(日曜)、「谷茶あるき」を実施した。

谷茶は恩納村で一番小さな字のため、どのくらい参加者があるか心配したが、糸満、那覇から来る人もいれて20名弱が集合。ちょうどいいぐらいの人数に安心し、いつものようにユンタクしながらみんなで歩き回った。

谷茶集落の入り口を流れるメンカーに掛かる谷茶橋。道路はかつての県道。河口では戦前、山原船2隻が入って来るほどの広さだったという。手前にある新しい橋の建設記念碑には、1923(大正12)年11月建立と刻まれている。

集落を流れるもう一つのせせらぎ、シリンカーを見ながら地元の年配者の話を聞く。

もう少し東に行くと戦前に造られたミージマ橋があり、明治の大火を被った後は、この橋より東側に人家が広がったと文献にある。

静謐な空間が広がる「お宮」。御嶽に次ぐ集落の拝所とされ、行事の際に拝まれているが詳細はよく分からない。

小さな集落のため、見て回るのにさほどの時間はかからないが、地元の方の話を聞いていると、いろんなエピソードが出てきて面白い。地元でないと味わえない出会いと体験であった。

<三嶋>

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石嶺写真展&公民館カフェ開催

 Category: 沖縄ある記, 活動クリップ  Comment : 0


一般社団法人沖縄しまたて協会の支援事業のひとつ、「写真展&公民館カフェ」を3月15日、石嶺1区の本字集会所で開催した。

同地区では、さる2月6日に実施した「石嶺あるき」に次ぐもので、前回からの告知もあってか多くの方々がお見えになり、にぎやかな1日となった。

朝早くから多くの方が訪れた。

子どもや若い人たちの姿が少なくなかったのも、嬉しい傾向。

現在、石嶺町全体の人口は約22,000人だが、もとから石嶺に住んでいる方は約1000人ほどと聞く。人口が多い割に地元意識が薄いといわれる原因は、そんなところにあるのだろう。

しかし、1960年代から移住者が増え、那覇のベッドタウンとして急激に開発が進んだ今日、地域の伝統や住民同士のつながりを求める住民も増加しているように思う。

みんなかつての時代が懐かしく、つながりを求めているのだろう。

展示された1959年ごろの石嶺風景。

左右に走る道路が現在モノレールが通る大通り(首里市道2号線と呼ばれた)。耕作地がほぼなくなった、現在の状態からは想像もつかない田園風景に驚かされる。

当時を思い出して懐かしむ声が、多くの来場者から聞こえてきた。

<三嶋>

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恩納村の谷茶をあるきます

 Category: 沖縄ある記, 案内  Comment : 0


恒例になった恩納村の村歩き。

来たる3月22日(日曜日)、恩納村谷茶で開催です。

同地は恩納村で一番小さな字とされ、普段は人影もまばらですが、高台の御嶽とそこを取り巻くように流れるせせらぎが、独特の雰囲気を醸し出しています。

この機会に是非、かつての農村の姿を想像してみてください。

<三嶋>

 

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