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塩屋の戦後風景

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先日、大宜味村塩屋に行く機会があり、公民館で地元の方々と、戦後の写真を見ながらユンタクした。

いつも思うが、やはり地元のことは地元の方に聞くのが一番だ。得難いナマの声に接し、今後の資料にさせていただこうと思う。

小高い丘の上から塩屋湾を一望できるハーミンゾー(神門)。塩屋の聖地であるが、久しぶりに訪れた場所は周囲の樹木が伸び放題で、期待した眺望は望めなかった。

1949(昭和24)年撮影の上記と同じ場所。
(写真:琉米歴史研究会)

鳥居がある頂上付近で子供達が遊んでいるが、画像が小さすぎて氏名までは特定できなかった。

写真手前に写る曲線は、コンセットの支柱だろうと聞いた。戦後すぐの頃は、米軍がこの地に駐屯していたとのことで、その後、コンセットは住民に提供されたようだ。

ハーミンゾー(神門)から見た塩屋集落。

上記とほぼ同じ角度。ウンガミ(海神祭)が繰り広げられているのか、大勢の人が溢れている。背後の山が、頂付近まで耕作されていることが分かる。
(写真:琉米歴史研究会)

ハーミンゾー(神門)から北側の風景。現在はあちこち樹木に覆われているため、北側を撮影するにはこの角度からしか叶わなかった。

上記の場所とほぼ同じ所から見た1949(昭和24)年の風景。人家が多く立ち並んでいるのも、交通の要所だった同地区の特徴だろう。
(写真:琉米歴史研究会)

少子高齢化が著しいヤンバルでは、小中学校の統廃合が急速に進んでいる。塩屋湾に突き出すように建っていた素晴らしい佇まいの塩屋小学校も、2016(平成28)年3月で廃校となった。長い歴史を誇り、地域に愛されてきた小学校だっただけに、子供達の声が途絶えた建物の周囲を歩き、やるせない思いが溢れた。

塩屋は戦後間もない頃、東村とむすぶ米軍車両の通り道で、米兵からお菓子をもらうことも多かったようだ。米兵の姿を見ると、授業中でも外に駆け出したと体験者が笑っていた。

かつての元気な子供達の笑い声が、どこからか響いた気がしたが、照り返しに蒸された町に人影はまばらであった。

<三嶋>

 

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