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前田高地の戦い

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浦添城跡は、沖縄戦における激戦地のひとつである。

その東側は前田高地と呼称され、昨年(2017年)公開されたハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台となった。

映画には、住民の視点が欠けているという指摘もあったが、商業映画として成功させるには、シンプルなヒーローものとして展開する必要があったのだろう。

それよりボクが驚いたのは、驚くほどリアルな仮想空間を現出させている、映像技術である。人と人が至近距離で殺しあう生々しさは想像を超え、誰もが目を覆いたくなる恐怖を味わうことだろう。それは実写ではないかと錯覚するほどだ。

かつて戦争映画を見た父親は、「本当の戦争はこんなものではない」と漏らしていたが、最新の映像は、ホンモノ以上にホンモノらしく戦争を見せているのかもしれない。

問題がない分けではないだろう。

が、戦争体験者がやがていなくなる時が迫る今、フィクションを超えたリアルな映像表現が、戦争の実相を継承する有効なツールになるかもしれない。

そこには恐怖や嫌悪が満ち満ちていて、耐え難い苦痛を伴うのかもしれないが、それは致し方ないだろう。なぜならそれが戦争なのだから。

昨年(2017年)6月に参加した前田高地見学会。為朝岩(ニードル・ロック)に向かって歩く

 

この場所で絶望的な戦いに身を投じた日本兵の一人に、沖縄学で著名な外間守善氏がいる。

奇跡的に生き残った氏は、その過酷な戦場体験を『私の沖縄戦記 前田高地・60年目の証言』にまとめている。

その書によれば、上記写真の手前、為朝岩の南東部250mほどの地点が、日米双方に死傷者が続出した「魔の高地」であり、戦友600余人が屍をさらした場所だという。

浦添市当山の住宅地から見た前田高地一帯の風景

このハクソー(金ノコ)・リッジでは、1945年4月30日の夜、米軍が長さ15mのハシゴ4つと貨物網5つをかけてよじ登った、とアメリカ陸軍省戦史局『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』(喜名建勇訳)にあるが、崖をよじ登った全兵士は、翌日、日本軍の攻撃ですべて駆逐される。

以後、日米の兵士による壮絶な肉弾戦がこの高地で繰り広げられ、崖を登る米兵に加え、南側に回った米軍戦車や火炎放射攻撃に対し、外間氏をふくむ日本軍は、洞窟陣地に立てこもりながら必死で応戦するが、圧倒的な米軍の力にねじ伏せられていく。

あらゆる弾を撃ち尽くしたあとは、手榴弾や石を投げ、体がバラバラになった戦友の死体が壕内には積み重なった、と外間氏は書いている。

前田高地の南、現在の前田小学校付近を前進する米軍。背後に為朝岩や「魔の高地」が見える
※参考:水ノ江 拓治のHP「沖縄戦史」(http://www.okinawa-senshi.com)

前記の『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』によれば、7日間におよんだ前田高地の戦いで、米軍は3000人以上の日本兵を殺害したと推定している。しかし米軍側の消耗も大きく、手榴弾を双方で投げ合うという肉弾戦を経て占領した結果、断崖を登った約800の米軍兵士は、324人になっていたとに記されている。

<三嶋>

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中村さんと十・十空襲を追体験する

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1945年に本部町健堅で撮影された日本兵の墓標の写真が、以前、新聞で公表されたたほか、このサイトでも紹介した。その墓標のうちの二人が朝鮮籍だったとわかり、8月初め、健堅の中村英雄さん宅まで韓国のテレビ局が訪ねて来た。

地元でもほとんど知られていない事実に光を当て、体験者の声に耳を傾けながら真摯に歴史と向き合おうとする人々の姿に、立ち会ったボクも刺激された。

そこで、さまざまな経験を経てきた中村英雄さんのことを、より多くの方に知ってもらいたいと、本人同行で十・十空襲を追体験する“ある記”を提案。同意を得たので、現場を訪れながら当時の状況を確認した。

1944(昭和19)年10月10日、炎上する渡久地港と瀬底島。写真:沖縄県公文書館蔵

瀬底島と本部の間(瀬底水道)で投錨していた日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」も、米軍機の攻撃で炎上。約150名の死者を出し、5日間ほど燃え続けた。

戦後間もない時期、着底したまま赤錆びる「迅鯨」。写真:琉米歴史研究会蔵

沈没する直前まで学童疎開船としても使用され、8月14日には宮崎への学童疎開第一陣(児童119名・付添12名)を鹿児島港に運んだほか、同月26日に185名、30日には180名の学童を乗せて那覇港から出航した(三上謙一郎『沖縄学童集団疎開』)。

瀬底島と本部の間(瀬底水道)は日本軍の要港とされた場所。迅鯨は9月、奄美大島近海で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷。この場所に曳航されて修理していたと思われる。

戦後、5カ月におよぶ沖縄初の沈没船引き揚げ作業が行われ、1952(昭和27)年7月25日、7年ぶりに浮上するが翌月、北九州の八幡に曳航され解体された。

本部町健堅の山並みと海岸。1948(昭和23)年8月撮影。写真:琉米歴史研究会蔵

かつては美しい白砂の海岸が続き、アギヤー(追い込み漁)が盛んなウミンチュのムラとして知られた。海洋博を画期として周辺海岸の改良整備が進められた現在、この地から砂浜は消滅した。

日本兵を救助した瀬底島の浜に立つ中村英雄さん(89歳)

迅鯨は、中村さんの背後に見える瀬底島の沖合およそ300mの地点で、午前7時ごろから米軍機の攻撃を受けた。

グルクン漁に向かう途中だった中村さんと2人の仲間は、燃え盛る迅鯨にサバニを近づけ、負傷した日本兵約30名を救助し、このニーカジラーの浜に往復して運んだ。

軍国少年だった当時15歳の中村さんが、その翌年、予科練に入学したのは、来襲する米軍機をこの浜の岩陰で歯噛みして眺めたという、この日の体験があったからではないだろうか。

<三嶋>

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キバナノヒメユリ展示会

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今年もまた、絶滅危惧種キバナノヒメユリの展示会が開かれた。

すでに4年目。昨年末に城間光雄さんがいなくなり、保存会の今後の行方が気になるところだが、弱々しく見えても厳しい自然環境を生き抜き、今年も可憐な花を咲かせたヒメユリの姿に、一つの光明をみる思いがした。

自生地で咲くキバナノヒメユリ

盗まれるのを防ぐため、場所を明かすことができない現状が復活の妨げにもなっている。

大里イオンの一角に展示された会員の鉢植え

栽培はなかなか難しいようで、愛情と細やかな手入れが必要とのこと。サボテンも枯らすボクにはとうてい無理である。

キバナノヒメユリを守る会の面々

会長の前城さん(左)と、神谷さん(中央)、山内さん(右)。苗の無料配布に行列ができ、忙しかったと嬉しそうであった。

<三嶋>

 

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県民大会

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時折り雨が降る天気を心配しながら、辺野古への土砂投入断面を求めて開かれた「8.11沖縄県民大会」に出かけた。

予想通り、観光客には迷惑だったかもしれないが、モノレールは大混雑。駅を降りると会場の奥武山陸上競技場を目指す人の波が、途切れることなく続いている。

「辺野古新基地NO!」を突きつける

時折り強くなる雨にも動じない人々。壇上を見つめ、翁長知事を追悼し、辺野古NOの意思を表示する。思いを共有するこれだけの人々のなかにいると、忘れかけていた勇気がふつふつと湧いて来る。主催者発表で、予想を大幅に上回る7万人が詰めかけたと知った。

2000年7月、宜野湾市で行われた緊急県民総決起大会で見たハンカチ。

愚直でも、足下の小さなことから始めるしかないのではないか、とあらためて決意する。

基地との境界が、まだユルかったころの辺野古(1997年4月)

20年以上の年月と膨大なエネルギーを費やし、地元民の思いを切り裂きながら、外国政府に追随する国家とは何だろう。沖縄県民だけではない、国民一人一人の尊厳が今も毀損され続けている。

<三嶋>

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アギヤーの話

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本部の中村英雄さんに、アギヤー(追い込み漁)の話を聞きました。
中村さんはかつて沖縄中の漁港を訪ね、漁法や漁具などの調査を行なっています。漁のようすを説明するために描いた、大きなイラストも見事で、海人の経験や各地を回って得た知見には驚かされました。


本部の追い込み漁は1970年ごろはまだ盛んで、海洋博が来たからダメになったそうです。グラフを見ると、沖縄本島では、本部・伊江の追い込み漁(グルクン)の水揚げが60%を占め、それ以外の漁港では行われていないことが分かります。


詳しく紹介するスペースがありませんが、糸満からはじまったアギヤーが、やんばる各地で盛んに行われていたころの中村さんの話は、体験者ならではの迫力があります。
ぶっきらぼうな言葉の端はしに、透明な海の輝きや男たちの躍動する肢体、獲物で湧き返る市場の姿が垣間見えたようで、胸が熱くなるのを覚えました。

と、同時に、海とともに生きてきたそんな人々が、工夫と努力を重ねて作り出してきた道具や技術が、永遠に失われつつある現実を思うとなんとも言葉が継げません。
かつてのきれいな海が汚され、次第に姿を変えて行く様を日々見ている中村さんの心中は、いかばかりでしょう。
<三嶋>

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