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摩文仁のフィールドワークに参加して

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 平和祈念資料館友の会が行った、「沖縄戦終焉の地 摩文仁丘陵の深部を行く」というフィールドワークに参加したので、ご報告。

 体力のない人や子供の参加が除かれ、ヘルメット・手袋着用などの条件が付けられたが、それも仕方がないと思われるほど険しいコースだったが、たいへん有意義であった。戦後、ほとんど人が入ったことがないという場所を歩くという、貴重な体験をすることが出来たし、この地で生き残った方の体験を聞き取った方の話を聞くこともでき、充実した1日となった。

 草刈りやコース設定、資料の準備など、準備段階の苦労を考えると、友の会事務局長の仲村真さんや、関係者の苦労は大変だっただろうと想像する。みなさんに感謝である。

南冥の塔の奥から密林に入り、師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいた壕などを訪ね、崖を登って摩文仁集落の畑に出るコース
1961年7月撮影(沖縄県県公文書館)。南冥の塔は1954年9月14日、ハワイの二世兵士・山本達雄氏が、戦死者を悼み自費で建立。1万2千柱が弔われている
(琉球新報1977.6.25朝刊)
大きな琉球石灰岩が入り組んでいる地形で、足場が悪く、アップダウンを繰り返すコース。まとわり付く草木を払い除けながら進むと、あちこちに潜り込めるような隙間が見える。
事前に友の会の人たちが見つけていた砲弾の破片

 砲弾はまさに鉄の塊である。それが破裂して不規則に飛び散り、燃えながら飛んでくるのである。展示会などで、破片を持ったことがある人もいるかと思うが、予想を超える重量に驚いたのではないだろうか。

暗闇の中で、78年の時を重ねた壺やビン、クシ、靴底などの破片が生々しく迫る
数メートル下がった岩の割れ目から、身を縮めて入った洞穴。戦火に追われた住民や、
日本軍の兵士が潜んでいたのだろうか
師範学徒隊や軍の電信隊が潜んでいたとされる壕。あまり見たことがない様な、大きな琉球石灰がいくつもそそり立つ間に、ポッカリと出来た空間で休息し昼食を取った
最後の関門。30メートルほどの崖を上ると、集落の崖下墓(按司墓?)がある場所に出る。そして自然に出来たと思われる「通り穴」を抜けると、ようやく地表に戻った気分である

 「通り穴」を抜けた斜面にある1メートルほどの岩は、学徒隊の友人をそこで亡くした方が、よく弔いに訪れていたという話を聞く。

 負傷して動けなくなった友人を担いてここまで来たが、手榴弾を渡したまま別れ、背後で自決する爆発音を聞いたことから、戦後もずっと苦しんでいたとのこと。ある時には、蝶々がまとわりついて離れなかったそうで、これは友人の魂が還ってきたと語っていたそうである。

 帰宅して思い出したが、そういえば同じ様な話があったと調べたら、デール・マリッジという米国人が、『日本兵を殺した父』(原書房・2013年)という本の中でご本人を紹介していた。山田義邦という方である。

 著者のデール氏はボクとほぼ同じ年齢だが、沖縄戦でPTSD(心的外傷後ストレス)となった父親が死去したあと、父親が体験した沖縄戦を本格的に調べ始める。資料を集め、生き残っていた父親の中隊の戦友たちに会い、沖縄を訪れ、父親のPTSDの原因を突き止め、父親の追体験をしている。その中で前述の山田氏にも会い、話を聞いたのである。

 精神を壊した兵士の話は、シュガーローフの戦闘などで多く発生したというが、勝利者として母国に引き揚げたあとの人生にも、戦争が陰を落としていたということは、これまであまり省みられなかったと思う。 

 アメリカでさえそうだから、ましてや日本では相当の数の元兵士が苦しんでいたはずだ。今となっては遅すぎるのだが。戦争は兵士の家族まで壊すと改めて思う。

 貴重な体験をさせてもらい、いろんなことを考えさせられたフィールドワークであった。

<三嶋>

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久場崎の引揚者上陸記念碑

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中城村の久場崎にある引揚者上陸記念碑が、移設されたと聞いたので確認に行ってきた。

それまで会社の敷地内にあったため、気づかなかった人も多いだろう。

新しい場所は、誰にも気兼ねせずに当時の姿を忍び、痛ましい時代の記憶と平和の尊さを後世に伝えるものになるのだろうと思ったのだが、あにはからんや、ただ場所を移しただけで、荒地に放置したようにも見える。

これでいいんですか、と天を仰いだ。

2022年2月、以前あった場所のすぐ近く、会社の敷地外に記念碑は移設された。

本土からの船を降り、この地に戦後沖縄の第一歩を記した人々は約10万人。その後、多くの人々が復興の担い手となっただけに、この地はまぎれもなく戦後沖縄の出発点の一つだ。

しかし、戦後沖縄の社会は生活にかまけ、さまざまな戦後の記憶を置き去りにしてきた。この記念碑もその一つだろう。

最初の引揚者の記念碑が建立されたのが、戦後50年経っていたことだけでも、そのことは明らかだろう。戦後50年もの間、引き揚げ者の苦労や思い出が、記念碑などの形で公式に慰撫されることはなかったのだ。そして、建立される時には、この地はすでに企業のものとなっていたのだろう。

戦後沖縄の歴史が、あまりにも軽くぞんざいに扱われている。

2001年8月撮影。記念碑の建立は1996年3月で、終戦50周年祈念事業の一環だった。
1946年夏、久場崎桟橋に引き揚げてきた人々。
この地で検査・DDTの散布を受けたあと、すぐ近くの久場崎収容所や、現在の沖縄市高原にあったキャンプ・キャステロ(インヌミヤードウイ)に移され、帰村まで数日を過ごした。1946年8月17日から12月ごろまで続いた引揚げで、10万人以上の人々が帰島したとされる。
(写真:琉米歴史研究会)

<三嶋>

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椿食堂と当之蔵界隈

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先日、首里にあった椿食堂の方の話が新聞に掲載されていたので、そういえば昔、撮影したことがあったと思い出した。

それで引っ張り出したのが以下の3点の写真。いずれも1995(平成7)年8月の撮影である。

椿食堂。学生時代は、間借りしていた所から少し遠かったからか、行ったことはあまりない。すぐ近くに沖縄ソバで有名になった「さくら食堂」があったが、こちらも行った記憶はあまりない。卒業したころ閉店したように思う。
椿食堂のメニュー。400円、500円、600円といたってシンプル。(新聞にもあったよう)椿食堂は当時、近くにあった県立博物館の職員がよく利用していた。

自分はこの店より学校に近い食堂の方によく行った。確か230円の野菜炒めをよく食べていたように記憶している。椿食堂のメニューを見ると、「野菜おかず」が500円だから、約20年で2倍を超えるぐらいになる計算だ。

当蔵交差点。赤瓦の家は長い間あったように記憶している。角の所の板壁(写真では見えない)が、首里劇場のポスター掲示用のスペースで、扇情的なピンク映画のタイトルが、赤い筆文字で書かれて貼り出されていた。 交差点から向こうに走る小道が、前述の食堂(名前が思い出せない)や椿食堂に続く通りである。

龍譚通り沿いが観光とのバランスをとりながら再開発され、モダンで綺麗な建物が並ぶ現在の「当之蔵」(「当蔵」?)に、残念ながらボクらが生活していた頃の雰囲気はあまり残っていない。

首里城にも琉大の痕跡はほとんどない(記念碑があるけど)ため、ろくでもない学校ではあったにせよ、「跡形もないのはどうよ」と天邪鬼の血が疼く。

アメリカ世の遺産(傷痕)にフタをしたいのか、と日本政府の思惑を勘繰りたくもなるが、いい悪いは別として、特異な大学があったことは歴史的事実だからねえ。

<三嶋>

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さよなら首里劇場

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首里劇場が閉館するため、「内覧ツアー」をやるというので行ってきた。

天も味方したのか久しぶりに晴れ間がのぞき、集まった人たちの沈みがちな気持ちも、少しは救われたのではないだろうか。

ペンキも剥げ落ちて痛々しい

学生時代には、近くの当之蔵や赤平に住んでいたこともあったので、時々足を運んだ。「エデンの東」のリバイバル上映や、ベトコンのサイゴン解放のニュース映像など観た記憶が蘇る。

その後ピンク映画専門館になり、社会人になるとほとんど関わりがなかったが、無くなるとなると、それはそれで寂しくなるものだ。

舞台の両袖にしつらえられた花道が、芝居小屋だった当時を忍ばせる。
こんな形式の建物は、今ではどこにも残っていないだろう。
舞台裏に残るカマドの跡。
芝居を演じる劇団員は舞台裏に泊まり込み、この場所で自炊したとのこと。
すぐ外に井戸も残っている。
1階と2階の観客席。左右の通路に余裕があるのは、芝居の際に必要なのだろうか。当時のものと異なるが、座席に残る長い木のベンチには、当時驚かされたことを覚えている。2階席は復帰後に使われなくなったとか。消防法とか小難しい法律が、従来のやり方を許さなかったのだろう。

崩れかかった建物のあちこちを案内してもらっていると、沸き起こる人々の歓声や笑い声が、ふっと脳裏に浮かび上がる。辛い浮世をしばし忘れる地域のオアシスが、またひとつ消えてなくなった。

<三嶋>

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与論島復帰ツアー

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来沖している町田忠昭さんたちと、与論島に行って来た。

町田さんは、「海上大会」の船に乗ることを希望していたが、コロナや健康のことも考慮して漁船への乗船は諦めてもらったとのこと。

しかし、何とか思いを叶えてあげたい方法を探したら、鹿児島~那覇のフェリーが、4.28の日には海上に集まっている船の周りを1周するというので、そちらに変更となり、ボクも同行することとなった次第。

与論島はボクも始めてだが、海上大会と復帰祝賀行列参加、かがり火見学、島内見学と中身の濃い予定を組んでもらい、充実したツアーとなった。いろいろとお世話をしてもらった民宿の女将さんや、案内してもらったまちづくりに汗を流す麓才良さんにも感謝である。

国頭の山並みを後ろに、北緯27度線上に集結した漁船。
海上大会の漁船に向け手を振る町田さん(左)。仲間が東京から持参した「沖縄解放」の旗を取り出し、漁船に向けて掲げた。
4.28の海上大会は、1963年の第1回大会(集会)に与論から向かい、波に翻弄されながら沖縄側から来た人たちとやっとの思いで交歓した、とその体験をガリ版刷りの報告書にまとめた町田さんにとっては、やはり特別の感慨があるだろう。高齢にもかかわらずいつまでもデッキに立ち続け、海上を見ていた姿が印象的だった。
与論島で行われた沖縄の本土復帰を祝う行列。中学校からサザンクロスセンターまで、強い日差しにもかかわらず、大勢の島の人たちが歩いた。
驚いたのは、日の丸の小旗が数多く見られたこと(写真には写っていないが)。沖縄で日の丸というと抵抗があるし、町内で見ることはほとんどないと思うが、日本の「尻尾」を見るようで複雑な気分に囚われた。
また、その後の式典で、参加者の多くがスーツ姿だったこと。西日が強い強烈な暑さのなかで、演壇の上も下も、オジサンたちの多くが汗をかきながら「形」を整えていく共同体意識にも、「日本」を意識せざるを得なかった。
与論城から眺めた沖縄島方面。写真ではあまりよく分からないが、思いのほか国頭の山々が近くに見え、沖縄本島北部と与論島との歴史的・民俗学的なつながりを実感した。
人の交流が日常的に行われ、同じ文化圏を形成していたのだろうと、素人のボクにも感じ取れた。そして、そんな古代から続く共同体に、国境を落とし込み、両者を隔てた政治とは何かと思わずにはいられない。その無情、理不尽さに改めて憤りを覚えた。
辺戸岬と呼応して燃やされていた「かがり火」の再現。大勢の住民が参加して「お祭り」のような賑やかさ。

今回の与論島訪問を通じて、4.28や5.15に関連する行事を、10年ごとではない観光イベントとして、毎年開催するとするのも一つの方法かも知れないと思った。地域活性化、まちづくりのためにも外から訪問客を呼び込み、ここを入り口にして「復帰と何か」を考えてもらうということもあるのではないだろうか。

とまれ、充実した与論島ツアーだったことは確か。お世話になった方々に感謝である。

<三嶋>

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