与論島復帰ツアー
2022年5月7日 Category: Myある記 Comment : 0
来沖している町田忠昭さんたちと、与論島に行って来た。
町田さんは、「海上大会」の船に乗ることを希望していたが、コロナや健康のことも考慮して漁船への乗船は諦めてもらったとのこと。
しかし、何とか思いを叶えてあげたい方法を探したら、鹿児島~那覇のフェリーが、4.28の日には海上に集まっている船の周りを1周するというので、そちらに変更となり、ボクも同行することとなった次第。
与論島はボクも始めてだが、海上大会と復帰祝賀行列参加、かがり火見学、島内見学と中身の濃い予定を組んでもらい、充実したツアーとなった。いろいろとお世話をしてもらった民宿の女将さんや、案内してもらったまちづくりに汗を流す麓才良さんにも感謝である。
今回の与論島訪問を通じて、4.28や5.15に関連する行事を、10年ごとではない観光イベントとして、毎年開催するとするのも一つの方法かも知れないと思った。地域活性化、まちづくりのためにも外から訪問客を呼び込み、ここを入り口にして「復帰と何か」を考えてもらうということもあるのではないだろうか。
とまれ、充実した与論島ツアーだったことは確か。お世話になった方々に感謝である。
<三嶋>
町田忠昭さんと嬉野京子さん
2022年5月1日 Category: Myある記 Comment : 0
3月末から4月上旬に実施した「27度線をこえて~「復帰」をめぐる人々の足跡をたどる~」でも紹介した、東京で復帰運動に関わって来た町田忠昭さんが来沖された。
90歳を超える今もお元気で、県立博物館で開催されている復帰の展示会を訪れ、カメラマンの嬉野京子さんと歓談。
当時の若者が体を張り、情熱を傾け立ち向かったものは何だったのか。現在の沖縄の有り様は、彼らが望んだ姿だったのか。遅々として進まない現状を前に、個人の人生はあまりにも短く、はかないと思う。
それにしても、今もボクらの胸を打って止まない彼らの熱情を、ボクらは持ったことがあるのだろうか?
<三嶋>
「復帰」展示とフォーラム終了
2022年4月15日 Category: Myある記 Comment : 0
3月27日から4月9日まで、南風原文化センターで開催した「27度線をこえて~『復帰』をめぐる人々の足跡をたどる」が、終了した。
主催者である「沖教組資料調査会」のメンバーとして関わっていたので、展示会場作りや会場案内などでバタバタと慌ただしく、あっという間に終わった感じであった。
今年が復帰50周年のため、内外のマスコミも活発だったが、足元で復帰が遠かっていく印象があっただけに、自分も含めていい勉強の機会になったのではないだろうか。
なかでも、石垣島の出身で沖縄の状況を本土の人たちに知らせたいと、東京で7、8本の沖縄映画を作った安室孫盛氏や、その活動を支えた町田忠昭氏、中野区の市議でありながら沖縄復帰に尽力した中澤ひろや氏、その活動を記録した嬉野京子氏などについて知り得たのは、大きな喜びとなった。
これらの人々は、沖縄ではあまり知られていないが、その果たした仕事ぶりを知るにつけ、驚かされると同時にその熱意に頭が下がる思いで一杯になった。
会場では、中澤ひろや氏の遺品である復帰運動のノボリやタスキ、写真などが展示され、同時に安室孫盛の映画「パーランクーの響き」「石のうた」を上映したほか、土曜日と日曜日には、合計4回のフォーラムを開催し、お呼びした合計8人の方から当時の貴重な証言も聞くことが出来た。
登壇された方々の中で、ボクが特に印象的だったのは、仲里効氏の「戦争責任を問うことと同じように『復帰責任』も問わなければならない」という言葉。「なるほどそうか」と会得したし、復帰運動の裏側を刮目する必要があると今更した。
「反復帰論」で知られる、新川明氏と仲宗根勇氏も登壇されたが、復帰協関係者も反復帰論者も一緒に(フォーラムは別の日だったが)、復帰を学ぶ機会になったのはよかったのではないか。過去にはそれぞれの立場で激しい論争もあったのであろうが、復帰事態が歴史的事象のひとつになりつつある今日、体験者の声を聞きながらもう一度、復帰と沖縄のこれからを考えてみるには絶好の機会になったのではないだろうか。
ボクも、イメージでしか捉えていなかった「復帰」が、にわかに蘇り、迫ってきたようで大変刺激を受けた。。一番聞いて欲しかった若い世代が少なかったのは、残念ではあるが。
<三嶋>
南海の塔
2020年9月4日 Category: Myある記 Comment : 0
今帰仁村湧川にある戦争慰霊碑「南海の塔」に行ってきた。
1963(昭和38)年5月10日の琉球新報に、大分に住む父親が嵐山で戦死した息子の供養に慰霊観音像を建て、息子と戦友の霊を弔ったという記事があったからである。
弔われているのは、1945年6月18日に戦死した大分県日田市出身の海軍中尉、武下一氏と12人の戦友。
南海の地に散った息子を偲ぶ親の心情や、その願いを受けて建立に動いた地元の方々の行動を、“心温まる話題”として記事は構成されている。
しかし、昭和20年春には、敗残兵となった日本軍兵士が、地元民の食糧強奪や虐殺といった事件を各地で引き起こしている。
調べていると、2005(平成17)年12月28日の沖縄タイムス朝刊で、米軍が記録した旧日本兵の軍用手帳に、「スパイ殺害」の記述があることが確認されたことを発見。その手帳の持ち主が「竹下ハジメ」だという。
スパイ殺害は昭和20年4月17日。八重岳から多野岳に移動中の出来事のようだ。
翌4月18日には、本部国民学校校長の照屋忠英氏が、スパイ容疑で日本軍に殺害されるなど、日本兵は各地で住民虐殺を行っているが、日本兵自身の記録が確認されたのはこれが初めてだという。
前回紹介した渡野喜屋や本部半島以外にも、日本兵による住民の「スパイ殺害」事件は各地で証言されている。
しかし、ネットにある「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ」を読むと、武下一中尉23歳は、意外にも礼儀正しく思いやりがある好青年で、人間的な魅力のある若者だと地元民から信頼されていたようだ。
また、一人息子を失った父親は、遺骨を集めてくれた湧川の青年団に感激し、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと南海の塔を建立したという。そして毎年、慰霊祭に訪れ、地元の小学校に書籍を寄贈するなど、地元の人たちと深く交流を保ったと記されている。
旧日本兵が沖縄各地で非道を重ね、住民に恐れられていたことは事実だ。
だがしかし、個人としての日本兵の平時の素顔は、平穏な日常を生きる庶民でもあったはずだ。
極悪非道な殺人鬼としてくくれるなら、分かりやすい話であるが、軍隊という組織に身を置き、戦争という極限状況に追い込まれた時、天使は容易に悪魔に変貌する。
そして、若くして逝った息子を弔う親の心情を思うと、戦争の非情さに改めて息苦しさを覚えたのである。
米軍の攻撃ですべての艇を失った本部半島の海軍部隊は、海から陸に上がって宇土部隊の支配下に入った。
武下中尉らが支配下に入った第27魚雷艇隊(白石部隊)は、住民虐殺や食糧強奪を繰り返し、住民を恐怖に陥れていたが9月3日、名護市古我地において183名が投降した。
第27魚雷艇隊の投降をサポートした比嘉善雄氏は、戦後、沖縄文教学校外語部教師を務め、1947(昭和22)年7月には第1回世界キリスト教大会に出席するため、第1号となるパスポートを取得。
1952(昭和27)年に沖縄キリスト教連盟理事長に就任。志喜屋知事の専属秘書兼公式通訳官、比嘉秀平・当間重剛両主席のもとで、東京事務所長などを務めた。
1985(昭和60)年12月、81歳で死去している。
また、第27魚雷艇隊の人々は、1975(昭和50)年11月23日、湧川にある慰霊塔で30年ぶりに慰霊祭を実施した。
出席した生存者27人、遺族約40人は、そのあと湧川区民を招いて交換会を開催し、旧交を温めて当時を懐かしんだと書かれている。(沖縄タイムス1975年11月26日夕刊)
<三嶋>
塩屋湾のムラ
2020年8月10日 Category: Myある記 Comment : 0
大宜味村の塩屋湾は、カキの養殖が試みられたほど、波の静かな美しい海だった。
しかし交通の便が悪く、名護から北上する人が対岸の塩屋に行くには、東に約8キロほど迂回して大保の橋を渡るか、南側の集落・白浜から渡し舟に乗るしかなかった。
白浜集落は渡野喜屋(とのきや)という名で、大宜味の間切番所があった塩屋とは縁が深く、客が3~4人集まると公民館西側の渡し場から舟を出していた。塩屋と白浜は、直線にすると約800メートルほどしかない距離である。
この地で忘れてはならないもののひとつに、戦時中の旧日本軍が起こした住民虐殺事件(渡野喜屋事件)がある。
渡野喜屋事件は、1945(昭和20)年5月12日夜、10人の日本兵が、同地に避難していた那覇や中南部の人たち40~50人を広場に集め、その中に手榴弾を投げ込んで全員の殺害をはかったもの。35人が死亡し15人が負傷したが、そのほとんどは婦女子であった。
戦火を逃れ、飢えに苦しむ避難民は、「友軍」である日本軍にスパイの疑いをかけられたあげく、いきなり殺害されたわけである。
この事件は米軍の報告書でも記載され、確認されている(沖縄タイムス1985年3月12日)。
琉球新報(2008年6月22・23日)に紹介された体験者の話を読むと、命を奪われた無辜の人たちの姿が痛ましく、死を免れた人たちのその後の苦しみにも胸がふさがれる。
日本軍の起こした住民への虐待・虐殺は数多く記録されているが、この地の出来事も、忘れてはならない負の歴史のひとつである。
<三嶋>