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与論島復帰ツアー

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来沖している町田忠昭さんたちと、与論島に行って来た。

町田さんは、「海上大会」の船に乗ることを希望していたが、コロナや健康のことも考慮して漁船への乗船は諦めてもらったとのこと。

しかし、何とか思いを叶えてあげたい方法を探したら、鹿児島~那覇のフェリーが、4.28の日には海上に集まっている船の周りを1周するというので、そちらに変更となり、ボクも同行することとなった次第。

与論島はボクも始めてだが、海上大会と復帰祝賀行列参加、かがり火見学、島内見学と中身の濃い予定を組んでもらい、充実したツアーとなった。いろいろとお世話をしてもらった民宿の女将さんや、案内してもらったまちづくりに汗を流す麓才良さんにも感謝である。

国頭の山並みを後ろに、北緯27度線上に集結した漁船。
海上大会の漁船に向け手を振る町田さん(左)。仲間が東京から持参した「沖縄解放」の旗を取り出し、漁船に向けて掲げた。
4.28の海上大会は、1963年の第1回大会(集会)に与論から向かい、波に翻弄されながら沖縄側から来た人たちとやっとの思いで交歓した、とその体験をガリ版刷りの報告書にまとめた町田さんにとっては、やはり特別の感慨があるだろう。高齢にもかかわらずいつまでもデッキに立ち続け、海上を見ていた姿が印象的だった。
与論島で行われた沖縄の本土復帰を祝う行列。中学校からサザンクロスセンターまで、強い日差しにもかかわらず、大勢の島の人たちが歩いた。
驚いたのは、日の丸の小旗が数多く見られたこと(写真には写っていないが)。沖縄で日の丸というと抵抗があるし、町内で見ることはほとんどないと思うが、日本の「尻尾」を見るようで複雑な気分に囚われた。
また、その後の式典で、参加者の多くがスーツ姿だったこと。西日が強い強烈な暑さのなかで、演壇の上も下も、オジサンたちの多くが汗をかきながら「形」を整えていく共同体意識にも、「日本」を意識せざるを得なかった。
与論城から眺めた沖縄島方面。写真ではあまりよく分からないが、思いのほか国頭の山々が近くに見え、沖縄本島北部と与論島との歴史的・民俗学的なつながりを実感した。
人の交流が日常的に行われ、同じ文化圏を形成していたのだろうと、素人のボクにも感じ取れた。そして、そんな古代から続く共同体に、国境を落とし込み、両者を隔てた政治とは何かと思わずにはいられない。その無情、理不尽さに改めて憤りを覚えた。
辺戸岬と呼応して燃やされていた「かがり火」の再現。大勢の住民が参加して「お祭り」のような賑やかさ。

今回の与論島訪問を通じて、4.28や5.15に関連する行事を、10年ごとではない観光イベントとして、毎年開催するとするのも一つの方法かも知れないと思った。地域活性化、まちづくりのためにも外から訪問客を呼び込み、ここを入り口にして「復帰と何か」を考えてもらうということもあるのではないだろうか。

とまれ、充実した与論島ツアーだったことは確か。お世話になった方々に感謝である。

<三嶋>

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町田忠昭さんと嬉野京子さん

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3月末から4月上旬に実施した「27度線をこえて~「復帰」をめぐる人々の足跡をたどる~」でも紹介した、東京で復帰運動に関わって来た町田忠昭さんが来沖された。

90歳を超える今もお元気で、県立博物館で開催されている復帰の展示会を訪れ、カメラマンの嬉野京子さんと歓談。

県立博物館の企画展に展示されている、嬉野さんの写真を前に、当時を振り返る町田さんと嬉野さん。
東京中野区の区議・中澤ひろや氏などとともに、廃品回収をする20代の町田忠昭さん(写真右)。むしろ旗には「沖縄・小笠原返還要求/沖縄・小笠原をベトナム侵略の基地にするな/四・二八海上大会代表派遣のため」の文字。

沖縄返還要求の行進に参加していた頃の嬉野京子さん。中澤ひろや氏のアルバムに「闘いは体で/口で語り、筆で書き、写真でそのものを知らせる。カメラをもって闘いを記録した彼女の功績は、極めて大きい」と書かれている。
辺戸岬で与論島を眺め、「祖国復帰闘争碑」の前に立つ町田さん。
復帰に対する思いを今も熱く語る様は、自他共に認める現役の「活動家」。

当時の若者が体を張り、情熱を傾け立ち向かったものは何だったのか。現在の沖縄の有り様は、彼らが望んだ姿だったのか。遅々として進まない現状を前に、個人の人生はあまりにも短く、はかないと思う。

それにしても、今もボクらの胸を打って止まない彼らの熱情を、ボクらは持ったことがあるのだろうか?

<三嶋>

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「復帰」展示とフォーラム終了

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3月27日から4月9日まで、南風原文化センターで開催した「27度線をこえて~『復帰』をめぐる人々の足跡をたどる」が、終了した。

主催者である「沖教組資料調査会」のメンバーとして関わっていたので、展示会場作りや会場案内などでバタバタと慌ただしく、あっという間に終わった感じであった。

今年が復帰50周年のため、内外のマスコミも活発だったが、足元で復帰が遠かっていく印象があっただけに、自分も含めていい勉強の機会になったのではないだろうか。

なかでも、石垣島の出身で沖縄の状況を本土の人たちに知らせたいと、東京で7、8本の沖縄映画を作った安室孫盛氏や、その活動を支えた町田忠昭氏、中野区の市議でありながら沖縄復帰に尽力した中澤ひろや氏、その活動を記録した嬉野京子氏などについて知り得たのは、大きな喜びとなった。

これらの人々は、沖縄ではあまり知られていないが、その果たした仕事ぶりを知るにつけ、驚かされると同時にその熱意に頭が下がる思いで一杯になった。

会場では、中澤ひろや氏の遺品である復帰運動のノボリやタスキ、写真などが展示され、同時に安室孫盛の映画「パーランクーの響き」「石のうた」を上映したほか、土曜日と日曜日には、合計4回のフォーラムを開催し、お呼びした合計8人の方から当時の貴重な証言も聞くことが出来た。

1966年の海上集会(撮影・嬉野京子)
1963年を第1回に始められ、1970年まで毎年開催された北緯27度線上の交換会。
本土でたびたび行われた「沖縄返還国民大行進」(撮影・嬉野京子)。
中澤ひろや氏をはじめ多くの本土の人間が関わったが、本土における沖縄返還運動の実態は、沖縄ではあまり知られていないように思う。
上映した映画は、沖縄で高まる復帰運動を時系列に紹介した「パーランクーの響き」、伊江島の阿波根昌鴻を中心に沖縄の抵抗運動を描いた「石のうた」。いずれも沖縄ではほとんど上映されていない、貴重な映像といえよう。
荒々しい白黒画面の映像で、不鮮明な場面もあるが、抵抗せざるを得ない人々の熱意や情熱が痛いほど伝わり、迫力に圧倒される。そして誰しもが、「沖縄の現状は今もほとんど変わっていない」と思うだろう。
映画の後に行われたフォーラムに聞き入る参加者。

登壇された方々の中で、ボクが特に印象的だったのは、仲里効氏の「戦争責任を問うことと同じように『復帰責任』も問わなければならない」という言葉。「なるほどそうか」と会得したし、復帰運動の裏側を刮目する必要があると今更した。

「反復帰論」で知られる、新川明氏と仲宗根勇氏も登壇されたが、復帰協関係者も反復帰論者も一緒に(フォーラムは別の日だったが)、復帰を学ぶ機会になったのはよかったのではないか。過去にはそれぞれの立場で激しい論争もあったのであろうが、復帰事態が歴史的事象のひとつになりつつある今日、体験者の声を聞きながらもう一度、復帰と沖縄のこれからを考えてみるには絶好の機会になったのではないだろうか。

ボクも、イメージでしか捉えていなかった「復帰」が、にわかに蘇り、迫ってきたようで大変刺激を受けた。。一番聞いて欲しかった若い世代が少なかったのは、残念ではあるが。

<三嶋>

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南海の塔

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今帰仁村湧川にある戦争慰霊碑「南海の塔」に行ってきた。

1963(昭和38)年5月10日の琉球新報に、大分に住む父親が嵐山で戦死した息子の供養に慰霊観音像を建て、息子と戦友の霊を弔ったという記事があったからである。

弔われているのは、1945年6月18日に戦死した大分県日田市出身の海軍中尉、武下一氏と12人の戦友。

南海の地に散った息子を偲ぶ親の心情や、その願いを受けて建立に動いた地元の方々の行動を、“心温まる話題”として記事は構成されている。

しかし、昭和20年春には、敗残兵となった日本軍兵士が、地元民の食糧強奪や虐殺といった事件を各地で引き起こしている。

調べていると、2005(平成17)年12月28日の沖縄タイムス朝刊で、米軍が記録した旧日本兵の軍用手帳に、「スパイ殺害」の記述があることが確認されたことを発見。その手帳の持ち主が「竹下ハジメ」だという。

スパイ殺害は昭和20年4月17日。八重岳から多野岳に移動中の出来事のようだ。

翌4月18日には、本部国民学校校長の照屋忠英氏が、スパイ容疑で日本軍に殺害されるなど、日本兵は各地で住民虐殺を行っているが、日本兵自身の記録が確認されたのはこれが初めてだという。

新聞掲載の写真では観音像の周りに何もないが、57年経った現在、周囲は雑木で覆われ、場所を探すのにも一苦労した。

台座には「南海乃供養塔」と刻まれている観音像

前回紹介した渡野喜屋や本部半島以外にも、日本兵による住民の「スパイ殺害」事件は各地で証言されている。

しかし、ネットにある「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ」を読むと、武下一中尉23歳は、意外にも礼儀正しく思いやりがある好青年で、人間的な魅力のある若者だと地元民から信頼されていたようだ。

また、一人息子を失った父親は、遺骨を集めてくれた湧川の青年団に感激し、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと南海の塔を建立したという。そして毎年、慰霊祭に訪れ、地元の小学校に書籍を寄贈するなど、地元の人たちと深く交流を保ったと記されている。

旧日本兵が沖縄各地で非道を重ね、住民に恐れられていたことは事実だ。

だがしかし、個人としての日本兵の平時の素顔は、平穏な日常を生きる庶民でもあったはずだ。

極悪非道な殺人鬼としてくくれるなら、分かりやすい話であるが、軍隊という組織に身を置き、戦争という極限状況に追い込まれた時、天使は容易に悪魔に変貌する。

そして、若くして逝った息子を弔う親の心情を思うと、戦争の非情さに改めて息苦しさを覚えたのである。

1945(昭和20)年9月3日。米軍に投降する第27魚雷艇隊(白石部隊)。
写真:沖縄県公文書館

米軍の攻撃ですべての艇を失った本部半島の海軍部隊は、海から陸に上がって宇土部隊の支配下に入った。

武下中尉らが支配下に入った第27魚雷艇隊(白石部隊)は、住民虐殺や食糧強奪を繰り返し、住民を恐怖に陥れていたが9月3日、名護市古我地において183名が投降した。

9月3日の白石部隊の投降に際し、数日前から日米両軍と調整し、通訳も務めた比嘉善雄・古我知村長。
写真:沖縄県公文書館

第27魚雷艇隊の投降をサポートした比嘉善雄氏は、戦後、沖縄文教学校外語部教師を務め、1947(昭和22)年7月には第1回世界キリスト教大会に出席するため、第1号となるパスポートを取得。

1952(昭和27)年に沖縄キリスト教連盟理事長に就任。志喜屋知事の専属秘書兼公式通訳官、比嘉秀平・当間重剛両主席のもとで、東京事務所長などを務めた。

1985(昭和60)年12月、81歳で死去している。

 

また、第27魚雷艇隊の人々は、1975(昭和50)年11月23日、湧川にある慰霊塔で30年ぶりに慰霊祭を実施した。

出席した生存者27人、遺族約40人は、そのあと湧川区民を招いて交換会を開催し、旧交を温めて当時を懐かしんだと書かれている。(沖縄タイムス1975年11月26日夕刊)

<三嶋>

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塩屋湾のムラ

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大宜味村の塩屋湾は、カキの養殖が試みられたほど、波の静かな美しい海だった。

しかし交通の便が悪く、名護から北上する人が対岸の塩屋に行くには、東に約8キロほど迂回して大保の橋を渡るか、南側の集落・白浜から渡し舟に乗るしかなかった。

白浜集落は渡野喜屋(とのきや)という名で、大宜味の間切番所があった塩屋とは縁が深く、客が3~4人集まると公民館西側の渡し場から舟を出していた。塩屋と白浜は、直線にすると約800メートルほどしかない距離である。

1958〜59(昭和33〜34)年。
写真:琉米歴史研究会提供

白浜トンネルの上から見た現在の白浜集落。

白浜から見た宮城島。1954(昭和29)年6月。
写真:琉米歴史研究会提供

この地で忘れてはならないもののひとつに、戦時中の旧日本軍が起こした住民虐殺事件(渡野喜屋事件)がある。

渡野喜屋事件は、1945(昭和20)年5月12日夜、10人の日本兵が、同地に避難していた那覇や中南部の人たち40~50人を広場に集め、その中に手榴弾を投げ込んで全員の殺害をはかったもの。35人が死亡し15人が負傷したが、そのほとんどは婦女子であった。

戦火を逃れ、飢えに苦しむ避難民は、「友軍」である日本軍にスパイの疑いをかけられたあげく、いきなり殺害されたわけである。

この事件は米軍の報告書でも記載され、確認されている(沖縄タイムス1985年3月12日)。

琉球新報(2008年6月22・23日)に紹介された体験者の話を読むと、命を奪われた無辜の人たちの姿が痛ましく、死を免れた人たちのその後の苦しみにも胸がふさがれる。

日本軍の起こした住民への虐待・虐殺は数多く記録されているが、この地の出来事も、忘れてはならない負の歴史のひとつである。

<三嶋>

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