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極限の地をあるく

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 沖縄県平和祈念資料館友の会が行う、「沖縄戦終焉の地摩文仁丘陵の深部と大潮干潮時の海岸を行く」というフィールドワークに参加した。

 同会のフィールドワークには、昨年も2回ほど参加したが、毎回、沖縄戦当時の雰囲気が残る現場の迫力に圧倒され、強い感動を味わっている。企画・実行するリーダーの中村真さんや、スタッフの労苦に感謝である。

  当日は雨が時折降る生憎の天気だったが、水を求めた当時の人々にとって雨は命の水であり、当時を思えば雨に感謝しなければ、と中村さんは明るく語る。

平和祈念資料館友の会作成のルート図。
健児の塔の南に位置する山の中を歩き、目的地の海岸を目指す。
道なき道を進む途中。当時使われていたと思われる茶碗なども転がっている。
再発見された「一中(現在の首里高校)学徒通信隊終焉の地」。

 この一中学徒通信隊の最後の地とされる場所は、1979(昭和54)年に同隊の生存者が33回忌を行ったあと、正確な場所が分からなくなっていたもの。

 友の会の中村さんたちが調査して確認し、この日のフィールドワークの一環として慰霊祭を行うことになったもの。

 当時、一中の学徒たちは273人が動員され、鉄血勤皇隊と通信隊に分かれて戦場に駆り出された。そして、南部一帯を彷徨ったすえ、153人が亡くなっている。

 参加者全員で合掌し、冥福を祈った。

琉球石灰岩の大岩がいくつもそそり立つ、ダイナミックな景観に圧倒される。
最終目的地の海岸。
写真右の大岩の中腹に見える3カ所ほどの穴は、米軍艦砲の跡だろうと聞く。

 当日は大潮。昼食を食べたあと、干潮のために広く露出したリーフを歩き、帰路に着く。

 固く尖ったサンゴが広がる場所は、思いのほか歩き辛く、バランスを崩すとケガを負いかねない。80年前、満足な靴もないような状態のなか、こんな場所を、人々は死に物狂いでさすらったのか、と過酷な当時の状況を想う。

 道のない山の中を登ったり降ったりし、雨と海水に濡れながら、多くの人々が生死の境を彷徨った極限の地で、安寧の尊さを実感したのだった。

<三嶋>

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窓のない家

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 最近、窓のない家を時折目にする。オシャレな雰囲気が漂っているが、通りに面した側に窓がない家である。

 そんな家を見ると何か落ち着かず、不快感といっていいような、不思議な気持ちは何だろうかと考えた。すると、それは窓がないことが、「周囲との関わりを拒絶する意志を示している」から、ではないかと思うに至った。

 周囲との調和が当たり前の社会では、家と周囲を隔てる発想はなかった。良し悪しは別として、そこにプライベートはなく、外界と屋内を隔てる壁はなかったといえるだろう。

 小津安二郎の名作映画『東京物語』には、通りをゆく近所のおばさんが、窓越しに室内の笠智衆と会話するシーンがあったと思うが、かつては家庭と外の世界を隔てる障壁は驚くほど低くかった。

 このような、すべてがさらけ出された生活空間ではなく、保安面からも個人・家族を守ろうとする住宅が求められるようになるのは、近代になってからだろう。

セメント瓦を屋根に乗せた、典型的な戦後の民家。南城市/2013年8月

 かつての社会は地域とのつながりが強く、地域全体が家族のような信頼の上に成り立っていた。それがユイマール(相互扶助)の仕組みを生み、保たれてきた。

 しかし、戦後に進んだ都市化が共同体の仕組みや意識を変え、同時に地域社会を支えていた絆も薄れてきた。受け継がれてきた行事や伝統芸能などの世界では、今もその関係は機能しているといえるが、都市型地域では消滅しており、ユイマールも死語になった状態だろう。

 しかし、だからといって、自ら地域との絆を断ち切ると宣言するのは、行き過ぎではないか。時代はここまで来たのか、とショックを受けたのである。

 厳しい自然条件や社会状況を経てきた沖縄では、自らが生きるためにも周囲との助け合いを不可欠としてきた。ジンブン(知恵)を生かしながら、手に入る素材でモノをつくり、助け合って生き抜いてきたのが沖縄ではなかったか。

 戦中・戦後もそうして人々は生き抜いてきた。そんな労苦の跡をながめたり、話を聞いていると、満ち足りた現在の社会が立ち行かなくなった時、われわれはどう乗り越えるのだろうかと、暗い予想をしてしまう。

国頭村奥で見たコンクリートの壁。バナナなどの大きな葉っぱを下に敷き、その上でセメントを捏ねて固めたため、葉っぱの形が残っている。2009年11月撮影。
面白い形の花ブロック。必然性だけでなく、そのなかにでも人は創造性を発揮する。
読谷村座喜味。2011年8月撮影。
保存か建替えかが話題の名護市庁舎。手作りのタイルなどがあちこちに配置され、機能性だけでない安らぎや落ち着きを与えてくれる。2010年9月撮影。
並木と一体化して道路沿いに設置されたベンチ。かつて人々はよく木陰に集い、たわいないユンタクに興じたが、そんなコミュニティーの姿が蘇る。宮古平良市。2014年7月撮影

<三嶋>

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路線バス無料の日

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 9月の水曜日と日曜日は、路線バスが無料になるというので、家内にさそわれ乗ってみることにした。

 どこまで行ってもタダというので、遠くまで行ってもいいのだが、若かったころの冒険心が消え失せた老境の身としては、とりあえず恩納村ぐらいは大丈夫か、と同村の図書館を目指して足をすすめてみた。

 バスに乗るのは何年ぶりかと思いながら、ネットで路線図やら調べると、複雑で分かりづらいのは相変わらず。

 とにかくバス停まで行ってみたが、なかなか目当てのバスが来ない。やっと来たかと思ったら満員(やっぱりタダだから人が多い)で乗れず。ようやく来た次のバスで目的地に着き、時計を見て結構時間がかかったことに驚いたが、時間を気にしていてはバス移動はダメだわね。

ワンマンカーになったころの首里バス。1965(昭和40)年6月撮影。首里バスが、首里市営バスとして再び那覇~首里間を走り出したのは、1950(昭和25)年7月。翌年、(株)首里バスになり、撮影された年からワンマンカーとなるが、本土復帰後の1974(昭和49)年8月に銀バスと合併し、首里バスは姿を消している。
(写真:沖縄県公文書館)

 時間はかかったものの、久しぶりに乗ったバスは、思っていたより快適だった。なにより、運転手の対応が以前(ずいぶん前だけど)より格段によくなっていることに驚いた。英語での対応もスムーズだったし、丁寧な運転で好感がもてた。

1960(昭和35)年撮影の那覇バスターミナル。前年の8月に造られたもので、現在は同じ場所に新しい施設が建っている。いろいろな組織や図書館も入った建物の、1階部分がバスターミナルとして機能し、観光客なども多く利用している。(写真:沖縄県公文書館)
1961(昭和36)年9月、やんばると思われる道路(悪路ですね)を走る貸切の昭和バス。昭和バス(その後の琉球バス)は、1953(昭和28)年ごろ国頭線に参入し、業界の競争が激しくなったと新聞にある。1960年前後は多くのバス会社が、ワンマンカーや観光バス、急行バスを登場させ活気があふれている。しかし、1963年4月にバス争議が持ち上がり、全面ストが長期間続き大混乱。このころからモータリゼーションが始まり、利用者が減り始めたことも、バス業界が陰りを見せた背景にはあるのだろうか。(写真:沖縄県公文書館)

そういえば学生時代、たまに首里バスに乗ったが、あのころを思いだすと、運転が荒かったなあ。運転手もやる気がないのか、格好も結構ラフだった。乗客にお構いなしに発車したり急停車していたし。今よりはるかに道が混んでいたし、給料も良くなかったんでしょうね。

 このバス事情のように、沖縄らしいといえば沖縄らしい、いい(イイ)加減さがボクは決して嫌いではなく、あのころ本土から沖縄に来た人が、バス事情の酷さを新聞投書欄で嘆いたりすると、同感よりも「本土と違う価値観や感覚もあるんだよね~」と沖縄側を擁護する気持ちが強かったのだが、しかし、あれは確かに酷かったよなあ。

<三嶋>

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摩文仁に残る戦争の爪痕を歩いて

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 沖縄県平和祈念資料館友の会が主催する、「平和学習フィールドワーク」に参加した。昨年も開催され、山側のコースに参加したのだが、今回は海までのコース約400mを歩くとのことである。

 「体力に自信のない方は参加しないでください」との注意事項のせいか、参加を見合わせた人もいたようだが、今回は、海岸にある艦砲射撃の弾痕を研究している、琉球大学の仲座栄三先生が解説するということもあってか、参加者が思った以上に多かった。

ボリュームのある配布資料を、平和祈念資料館友の会(代表・仲村真氏)からいただく。
コースの設定や準備に追われたであろうと想像し、関係者の努力に感謝する。
「平和の礎」から慰霊碑がある丘陵に向かう。左に見える一番高い部分の岩が、
艦砲射撃で二つに割れていると仲座先生が解説。
日本軍司令部があった89高地(摩文仁の南東斜面)で、アメリカの国旗掲揚式。
参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。撮影1945年6月28日。
<写真:沖縄県公文書館>

 79年前、旧摩文仁村(現在は糸満市)の海岸では、米軍が海上から日本兵や住民に投降を連日呼びかけていた。6月20日には将兵800人、住民4,000人が投降している。

 同日は、89高地(摩文仁の南東斜面)を守る小規模の日本軍が玉砕した日であり、翌21日、ガイガー米第10軍司令官が沖縄の確保を発表している。

1959(昭和34)年ごろの89高地(摩文仁の南東斜面)。1952(昭和27)年6月22日に除幕された「黎明之塔」が見える。同塔は「日沖合作で建立」と同年5月25日付「沖縄新民報(第193号)」にある。現在の塔は1962(昭和37)年に建て替えられ、吉田茂が揮毫している。
<写真:沖縄県公文書館>

 6月23日は第32軍司令官の牛島満と参謀長の長勇が自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日であるが、終結の日は当初22日とされていた。1962(昭和37)年に摩文仁の丘で行われた、全琉戦没者慰霊祭も6月22日開催であり、琉球政府はこの日を「慰霊の日」と定め休日に指定していた。

 しかし、3年後の1965年、「慰霊の日」は6月23日に変更された。その理由は、第32軍の高級参謀で1945年6月19日まで摩文仁に止まった八原博道が、著書『沖縄決戦』で、二人の将軍は23日に自決としたためとする説が有力なようである。

 反対に、22日説としたのが米軍資料に基づく上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』で、ムタグチという司令部付調理人の証言を取り上げ、同日午前3時40分ごろ、通常礼装に身支度した牛島・長が壕の入口3mほどの所で切腹し、坂口大尉が介錯したと記述している。真相はどちらなのであろうか。

 さて、われわれは「黎明之塔」から「健児之塔」に降り、チンガーを訪ねたあと「南冥の塔」の近くからいよいよ海岸を目指して道なき道を進んだ。このところ雨がないこともあり、猛烈な暑さである。生い茂る樹木と不安定な足場によろめきながら、慎重に足を進める。

珊瑚礁の岩陰に設置(平成4年)されている、この地で死去した学徒兵
(師範学校本科2年 池村恵潤氏)の名を記した板。
避難民が使っていたであろう食器の破片。再び使われることのない生活の痕跡がしみついた道具が、ジャングルの中で、今も人知れず眠っている。
ビルで考えれば、4、5階建てぐらいになるだろうか。見上げると、首が痛くなるほどの大きな珊瑚礁の塊が、青空を背景にあちこちにそそり立っている。

 緑の草木に覆われた、とてつもない大きな珊瑚があちこちに立ち、倒れ掛かり、いく手をさえぎる。とても普通に歩けるような所ではないが、岩や木につかまって体を支え、アップダウンを繰り返しながら海岸を目指す。

 手で土を掘れるような場所はなく、横たわって体を休めるような平地もない。岩の割れ目などを見つけて隠れるしか、戦火を凌ぐ方法は無かったであろう当時を偲ぶ。

 汗にまみれ、疲労を感じ始めたころ、ようやく波の音が聞こえる場所に来た。

大きく空を切り裂いて立ち並ぶ岩の隙間を抜けると、目の覚めるような美しい海が広がる。
79年前には、多くの兵士や避難民が、沖合の米軍艦船に向かって投降した場所である。
波打ち際の珊瑚の窪みに残る艦砲弾の破片。1~5cmほどであろうか。黒く、貝殻や海草かと見過ごしがちだが、磁石を近づけるとくっつきため、鉄であることが分かる。

 岩と同化して動かない珊瑚礁の鉄片は、人気のない美しい海岸が、けれど紛れもなく79年前には戦場であったことを突きつける。

 中国脅威論や台湾有事などがマスコミを賑わし、便乗して自衛隊のミサイル配備や基地設置などが続く沖縄だが、沖縄戦の実相を忘れた空論に踊らされている気がしてならない。

 今こそ79年前を振り返り、戦争の愚かさと命の尊さを思い返す必要があろう。たった79年前の悲劇が、もう忘れられようとしている。

<三嶋>

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なんかモヤモヤ

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5月末のある日、暑いなか那覇新都心を歩いていると、アレ、なんか変?と、交差点で足が止まった。ちょっとした木陰を提供していたガジュマルの木が、ない!切り株が残るだけだ。

誰が?とか、勝手に切っていいの?とか疑問が湧き上がる。こんなに簡単に切られていいの?とも思う。

そして、怒りと悲しみが混ざったような、モヤモヤが湧き上がってきた。

カメラのキタムラの向かい、四角にあったガジュマルの切り株。

いろんな思いが駆け巡るなか、そういえば、沖縄の街路樹に関係する新聞記事があったなあと探してみると、国際通りの記事がいくつか出てきた。

それによると、1954(昭和29)年2月には、クスとヤブニッケイ93本が植栽され、1955(昭和30)年5月には、本部町伊豆味からモクマオウ71本が運ばれて植えられている。

また、1958(昭和33)年7月には、「数年前に植樹されたヤナギの街路樹が詩情を詠んでいる」とある。ヤナギは、歌謡曲などで親しまれた「銀座の柳」にちなんで植えられたものだ。

しかし、これらの街路樹が、いずれも定着しなかったのはなぜだろう。行政の資金難なのか、市民にそんなゆとりはなかったのか、それとも愛情不足なのか。

1968(昭和43)年2月15日の沖縄タイムスには、「沖縄で緑化運動が広がるが、那覇市内の街路樹は大切にされていない」の記事も見える。

2001(平成13)年1月の那覇新都心。街路樹はまだ植えられていない。
画面の左、遠くに見える建物が那覇国際高校。

たかが街路樹1本のことだが、アレコレ考えていると、いろんなことが浮かんできた。

そういえば学生時代、先生の一人が「沖縄のヤシが風景を変えてしまった」と嘆いていたなあ。本土復帰あたりを境に、トロピカルイメージを売りにする沖縄観光にとって、南国のイメージづくりにヤシは欠かせないアイテムだった。

1997(平成9)年7月。ヤシの木が中央分離帯に並ぶ、北谷町の国道58号。

何だか、切られたガジュマルのことを考えているうちに、まとまりのない話になった。

そして、なんかモヤモヤする気持ちは、おさまらないままである。

<三嶋>

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