「知花あるき」終了しました
2024年6月15日 Category: 沖縄ある記 Comment : 1
心配していた天気にも恵まれ、「知花あるき」が無事終了。案内していただいた池原秀幸さんや、地元の皆さまに感謝します。

地域の老人会や子供会の世話で忙しいにも関わらず時間を作ってもらい、対応していただいた。
「知花」と聞くと、ボクなどは「知花弾薬庫」を思い出す世代だが、調べると弾薬庫は知花の西側、正確には嘉手納町久得に位置している。米軍が適当に呼んでた名前がそのまま残ったのだと考えるが、これも戦後史の一断面ではないだろうか。ましてや、そこで働いていた地元の方もいた(いる)分けなのだから。

「みさと児童園」の敷地内に、奉安殿とともに残る忠魂碑(ちゅうこんひ)。
陸軍大将 井上幾太郎(いのうえいくたろう)の名が刻まれている。
井上幾太郎は、Googleで検索すると1927(昭和元)年~1933(昭和8)年に陸軍大将だった人物。
建立の時期が思った以上に古いことにちょっと驚いたが、忠魂碑が一般化するのは日露戦争後であり、明治末期からは在郷軍人会が主体となり、遺族会なども運営管理していたとある。
井上幾太郎の名は、全国に残る多くの忠魂碑に刻まれていることから、この頃がブームだったのかとも思うが、よく分からない。

旧暦5月15日と6月15日には、ウマチー行事が行われるようである。
知花グスクは、鬼大城(大城賢雄)の墓があることもあって、よく知られたグスク。しかし、城主が誰だったか不明で、石積みなども確認されていない。この日は時間の関係で頂上へは登らなかったが、少し前に登った際には以前あった展望台も今はなく、周辺の樹木に遮られて眺望もあまりよくなかった覚えがある。

麓に続く道をまっすぐ行くと、中腹にある鬼大城の墓に辿り着く。
知花グスクから大通り(県道74号線)を横切り、比謝川の支流・知花川沿いに歩くと、知花焼の窯があった所に出る。現在はまったく姿を変え、痕跡もないが、壺屋焼以前は重要な焼き物の産地だったという。

元々は三連のアーチ型石橋だったが、(戦後?)二つは埋められ、現在は一つが残るのみ。
写真左には涌泉があり、橋の下を流れる川に注いでいたが、1950年頃の改修工事で水路が変わり、川としては機能しなくなってしまったようだ。地元から参加したお年寄りに聞くと、子供のころはこの川で泳ぎ、魚を獲って遊んでいたという。

大きなガジュマルの木の下を過ぎると、ウスデーク(知花ではウフデークと呼ぶ)が行われる仲大屋と獅子屋がある。その道向かいは、鬼大城の母の実家だったと伝わる屋号ウフグシク家。
知花公民館の南東にあるスジ道は、鬼大城(大城賢雄)が、越来グスクから知花グスクに逃げたルートだと池原さんがいうと、そんな記録もあるのかと一同驚いたが、地元の方の鬼大城に寄せる強い思いにも驚かされる。
ボクはベトナム戦闘の頃から、知花弾薬庫の名称を聞いていた記憶があり、「知花」には「戦争」と結びついたイメージを持っていたが、今回のあるきでイメージが改まり、知花は伝統や集落のつながりが今に残る地域だと痛感した。
マチ化が進むなかで、伝統がないがしろになるではないかとの危惧もあるが、池原さんのように情熱を持って地域活動に取り組み、地域の未来を作っていこうとする人たちがいる限り、地域の絆はこれからも続くのだろうと確信した次第である。

<三嶋>

「知花あるき」のお知らせ
2024年5月30日 Category: 沖縄ある記, 案内 Comment : 0
6月の「定例あるき」は6月8日(第2土曜日)、「知花あるき」を行います。誰でも参加自由ですので、お暇な方は是非ご参加ください。
沖縄市知花では、奉安殿や知花グスクなどが知られていますが、そのほかにも、歩かないと分からないような場所などあります。
案内は、老人会や子供会活動に汗を流し、地域散策なども実施されている池原秀幸さん。地域に対する思いが強く、熱気をほとばしらせて語る方なので、誰でも楽しくユンタクできるんではないでしょうか。
●日 時:6月8日(土曜日) 午前9時30分〜11時30分
●集合場所:ワッシュランドちばな店(池原さん経営のコインランドリー店)
●見学内容;忠魂碑・奉安殿〜知花グスク〜鬼大城の墓〜公民館〜獅子屋など
季節柄、雨降りが心配されますが小雨決行。大雨の場合は中止、迷ったら電話ください。
※ボクは「ハレ男」ですから普段あまり心配してませんが(笑)
※資料代として200円をご用意ください。


「冨祖崎あるき」報告
2024年5月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
南城市佐敷にある冨祖崎(ふそざき)で、定例のあるきを実施した。
字誌の編集委員長を務めた楚南さんに、ガイドを引き受けていただいたので詳細な解説も聞け、たいへん充実したひとときだった。

冨祖崎は首里からのヤードゥイ(屋取)で、村立ては1740年という。平地に囲まれた地形の西側には海が広がり、水も豊富であるため1965(昭和40)年ごろまでは半農半漁のムラであった。
小さな集落だが、それだけに住民は結束し、進取の気性とあいまって、さまざまな活動も積極的に展開されてきた。地域外からの居住者も増えているとのことで、一緒に歩かれた屋良区長の声も明るかった。

写真:沖縄県公文書館

写真:沖縄県公文書館

沖縄県公文書館所蔵
現在、冨祖崎公園となっている場所は砂地が広がる海岸で、戦前から塩づくりが行われていた。
戦後になると、住宅再建(みんな焼けていた)で使うカヤ(茅)、と物々交換するために塩が作られたという。山がないため茅葺き屋根の材料がなかったからである。
しかし、集落の家屋の屋根が葺き終わり、若者が仕事を求めて軍作業などに出るようになると、製塩を担う者がいなくなって廃れたようだ。
また、海岸ではスンチャー(地引網漁)が盛んで、明治末期から戦前にかけて盛んに行われていたようだ。太刀魚などのほかに、5月にはタジク(キビナゴ)なども大量に獲れたという。しかし、戦後になると人手不足などで漁は途絶え、現在は海人もいない状況である。

解説してもらった楚南さんによると、戦後、中学校の先生が発見し、多和田真淳氏に問い合わせして世に知られるようになったとか。近年はマングローブ林の勢力に押され、生息域が狭まりつつあると懸念されている。 撮影(佐藤)

小じんまりとした集落には、オシャレなアパートなども散見されたが、地域外から移住する人たちが住んでいるとか。不動産業者の営業もあって、環境のいいい冨祖崎周辺に住まいを構える人も増えているようだ。
新しい道路も建設が進み、山の上に大型スーパーなどが開店すれば、環境と利便性を兼ね備えた新たな地域として、ますます注目されるのではないだろうか。

<三嶋>

南城市佐敷で「冨祖崎あるき」
2024年5月1日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
原則、毎月第2土曜日に行っている「定例あるき」について、お知らせします。
今回は5月11日(土曜)、南城市佐敷の冨祖崎(ふそざき)です。
日時:5月11日(土曜)。午前9時30分〜11時分
集合場所:南城市佐敷冨祖崎の運動公園駐車場(公民館の駐車場が狭いため)
※国道331号を佐敷から来る場合、シュガーホールに曲がる信号の一つ先の信号(バス停「佐敷」の手前)を左折して、真っ直ぐ北に進むと公民館があります。そこを過ぎてさらに進むと、陸上競技場や公園の駐車場となります。
冨祖崎は海に面した小さな集落ですが、それだけに住民の結束が固く、地域活動も活発に行われているようです。
当日は、首里の屋取だったという歴史や、海との関わり、集落の変せん、天然記念物ハマジンチョウなどの話などが中心になると思いますが、ボクのように「難しい話はパスしたい」という人は、ユンタクだけでも構いませんので、みなさんで楽しみましょう!
当日は雨も心配ですが、大雨でなければとりあえず実施しますョ(迷う場合は電話ください)
以上よろしくお願いします。

宇加地を歩きました
2024年4月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
一年ぶりに行う、恩納村の地域あるき。今年は村で一番西に位置し、読谷村と境を接する字、宇加地(うかじ)である。
東に行くと塩屋、真栄田と続くが、もともと真栄田だったものが、1949(昭和24)年に塩屋とともに別れ、現在の姿になった。そのなかには与久田(よくた)、美留(びる)という集落もあり、前者は宇加地、後者は塩屋にぞくしている。

また、宇加地は恩納村の中でも一番面積が小さく、一番人口も少ない地域だが、それだけに顔の見える付き合いが日常的な、結束の固い地域といえるだろう。
当日も、想定以上に多くの住民の参加があり、楽しいユンタクをしながら歩くことができたが、声を掛ければみんなが集まる、まとまりの良さに感謝である。
地元の方と直接触れ合う機会は少ないだけに、他所から訪れた者には嬉しいひと時であるし、地域の方にも刺激になったのではないだろうか。


ナーグシクの中腹にはコージガマがあり、沖縄戦の時には100人ほどの住民が避難した。そして全員助かったことから、今でもこのガマは大切にされ、子供たちの平和学習などにも利用されている。

国吉家は、牛や馬などを売買するバクロー(馬喰)で財を成し、ヤンバルいちえんで知られたエーキンチュ(財産家)。今は広い跡地に草が生い茂っているが、近くの石切場から運んだ石で造られたワーフールや、カーがわずかに残り、当時の栄華をしのばせる。
また、1960年代に41連勝し、沖縄の闘牛史に名を残す名牛「ゆかり号」を育てた家でもある。県道を渡った先にある砂浜は、かつて闘牛が開かれた場所で、多くの人が見物に訪れていたという。

干潮時にしか現れない石切場は、かつて「鳩の家」を意味するホートゥヌヤーと呼ばれていた(そんなにハトが多かったんですかね)。
写真では、石切場の向こうに残波岬の一部が少し見えるが、その先端部(右端)にはかつて米軍のミサイル基地があり、発射実験の際には住民もこの場所から見ていたそうだ(危ないな~)。

ソーシのテラは、与久田の海近くにある聖地。海から流れ着いたという二つの石が守り神として祀られている。
子どもの健康や旅の安全を守る神といわれるが、「何にでも効果がある」との区長の説明には、参加者は怪訝な顔。だが、周辺地域や村外からも拝みに来るそうなので、あながち笑ってもいられないだろう。
今回の「宇加地あるき」は、地域住民の参加も多く、本当に楽しく、無事に終えることができた。ユーモアたっぷりの徳村区長にも楽しませてもらい、感謝である。宇加地のみなさん、ありがとうございました!

<三嶋>
