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平和祈念公園内でフィールドワーク

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平和祈念資料館友の会の事務局長である仲村真さんが、公園内の慰霊碑を解説するという「平和学習フィールドワーク」に参加した。

慰霊の日の前日で人が多く、クソ暑い日だったが、知らなかった慰霊碑を訪ねたり、仲村さんの話に驚かされたりしてイイ刺激を受けた。

特に旧日本領だった地の慰霊碑などは、十分な知識がなかったため持ち帰って調べることにした。ここでは、後日得た情報も合わせて記述したい。

2016年に完成した台湾出身戦没者の慰霊碑「台湾之塔」。この日は、戦前、卒業証書を受け取らないまま台湾の中学校を卒業した95歳のウチナーンチュに、卒業証書を渡しに来沖した中学校の校長先生も顔を見せ、台湾と沖縄の関係をリアルに実感した。
「ダバオ之塔」。フィリピン・ミンダナオ島にあるダバオに移民し、戦災に倒れた沖縄県出身者約20,000人を祀っている。1972(昭和47)年3月、全国のダバオ関係者によって建立された。
沖縄戦で一家全滅した1,500余名(380世帯)を祀る「しづたまの碑」。1969(昭和44)年、那覇市壺川の「くろしお会館」内に建立されていたが、1988(昭和63)年に移設された。
沖縄戦で戦没した韓国人を祀る「韓国人慰霊塔」。1975(昭和50)年9月除幕。朝鮮出身の軍人軍属、女子てい身隊員11,000余柱を祀る。異郷で命を落とした人々の望郷の思いに応えるべく、写真手前に見える大きな矢印が、故郷・韓国の方角を指している。

1946(昭和21)年1月、北部に避難していた真和志村民4,337人は、摩文仁村の米須・糸洲に集められた。人々は、多数の遺骨が散乱する戦禍に荒れた村の姿に心を痛め、村長に任命された金城和信を中心に、遺骨収集と供養の許可を米軍から得た。

そして豊見城村に移動する4月20日まで、真和志村民は同地で収骨作業を続けたが、2月27日には「魂魄之塔」を建立(碑銘と和歌・翁長助静、文字・金城和信)し、546柱を合祀する慰霊祭を行った。

また、4月5日には、伊原集落の伊原第三外科壕の上に、「ひめゆりの塔」を建立している。

1965(昭和40)年10月。「立山の塔」(富山県)などの慰霊塔建設が進む平和祈念公園。
写真:沖縄県公文書館

その後、摩文仁で建立された慰霊碑を列挙すると、1950(昭和25)年6月に沖縄師範学校健児之塔、1951(昭和26)年6月に島守之塔、1952(昭和27)年6月に黎明之塔などとなる。

そして1964(昭和39)年6月22日に、琉球政府主催第1回沖縄戦没者追悼式が行われる頃になると、摩文仁に「慰霊塔ブーム」が訪れる。

本土の各県が、競うように次々と慰霊碑を建てるのであるが、戦没兵士の「英霊」を賛美し、郷土や国家への忠誠心を讃える墓碑銘が多く、兵士は死しても国家の頸木から逃れられないのかと気が滅入る。

強烈な日差しのなか、暑さにめげずに歩く。正面に見えるのが平和祈念堂と平和祈念資料館。

摩文仁の平和祈念公園は、「平和の礎」以外あまり県民も足を運ばない所だろう(ボクもだが)。

しかし、戦没者の骨は、兵士だけではなく一般のウチナーンチュのものも戦没者墓苑に祀られている。そして、今を生きるわれわれにつながっている。この地を過去のエリアとして葬るのではなく、未来に活かす聖地としたい。「新しい戦前」が迫る今だからこそ、あの戦争が何だったのか、自分に問いかける場所にしたいと思う。

<三嶋>

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