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「知花あるき」終了しました

 Category: 沖縄ある記  Comment : 1


心配していた天気にも恵まれ、「知花あるき」が無事終了。案内していただいた池原秀幸さんや、地元の皆さまに感謝します。

張り切って解説する池原秀幸さん。
地域の老人会や子供会の世話で忙しいにも関わらず時間を作ってもらい、対応していただいた。

「知花」と聞くと、ボクなどは「知花弾薬庫」を思い出す世代だが、調べると弾薬庫は知花の西側、正確には嘉手納町久得に位置している。米軍が適当に呼んでた名前がそのまま残ったのだと考えるが、これも戦後史の一断面ではないだろうか。ましてや、そこで働いていた地元の方もいた(いる)分けなのだから。


「みさと児童園」の敷地内に、奉安殿とともに残る忠魂碑(ちゅうこんひ)。
陸軍大将 井上幾太郎(いのうえいくたろう)の名が刻まれている。

井上幾太郎は、Googleで検索すると1927(昭和元)年~1933(昭和8)年に陸軍大将だった人物。

建立の時期が思った以上に古いことにちょっと驚いたが、忠魂碑が一般化するのは日露戦争後であり、明治末期からは在郷軍人会が主体となり、遺族会なども運営管理していたとある。

井上幾太郎の名は、全国に残る多くの忠魂碑に刻まれていることから、この頃がブームだったのかとも思うが、よく分からない。

知花グスク北側にある神アサギ(カンサヂヤー)の前。
旧暦5月15日と6月15日には、ウマチー行事が行われるようである。

知花グスクは、鬼大城(大城賢雄)の墓があることもあって、よく知られたグスク。しかし、城主が誰だったか不明で、石積みなども確認されていない。この日は時間の関係で頂上へは登らなかったが、少し前に登った際には以前あった展望台も今はなく、周辺の樹木に遮られて眺望もあまりよくなかった覚えがある。

別の日に撮影した知花グスク南側の姿。
麓に続く道をまっすぐ行くと、中腹にある鬼大城の墓に辿り着く。

知花グスクから大通り(県道74号線)を横切り、比謝川の支流・知花川沿いに歩くと、知花焼の窯があった所に出る。現在はまったく姿を変え、痕跡もないが、壺屋焼以前は重要な焼き物の産地だったという。

メーヌカーガー橋。
元々は三連のアーチ型石橋だったが、(戦後?)二つは埋められ、現在は一つが残るのみ。

写真左には涌泉があり、橋の下を流れる川に注いでいたが、1950年頃の改修工事で水路が変わり、川としては機能しなくなってしまったようだ。地元から参加したお年寄りに聞くと、子供のころはこの川で泳ぎ、魚を獲って遊んでいたという。

鬼大城(大城賢雄)が逃げたルートを歩く。
大きなガジュマルの木の下を過ぎると、ウスデーク(知花ではウフデークと呼ぶ)が行われる仲大屋と獅子屋がある。その道向かいは、鬼大城の母の実家だったと伝わる屋号ウフグシク家。

知花公民館の南東にあるスジ道は、鬼大城(大城賢雄)が、越来グスクから知花グスクに逃げたルートだと池原さんがいうと、そんな記録もあるのかと一同驚いたが、地元の方の鬼大城に寄せる強い思いにも驚かされる。

ボクはベトナム戦闘の頃から、知花弾薬庫の名称を聞いていた記憶があり、「知花」には「戦争」と結びついたイメージを持っていたが、今回のあるきでイメージが改まり、知花は伝統や集落のつながりが今に残る地域だと痛感した。

マチ化が進むなかで、伝統がないがしろになるではないかとの危惧もあるが、池原さんのように情熱を持って地域活動に取り組み、地域の未来を作っていこうとする人たちがいる限り、地域の絆はこれからも続くのだろうと確信した次第である。

<三嶋>

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Comment

  1. まんぶー より:

    知花も興味深い所が点在して良い魅力的な場所ですね。
    温故知新の世界これから益々大切だと思います。

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