雨のなか、嘉数高台と部落を歩く
2025年5月18日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
宜野湾市嘉数は、自分たちが以前、会社を置いていたところ。
高台にある“外人住宅”を事務所にし、仕事を始めたころは、沖縄戦当時の状況や部落の事柄などはよく知らなかったが、その後、周辺を歩き、NPOを始めたころ、「嘉数あるき」を2度(2011年11月・12月)行っている。
その時、お世話になった方が伊波義雄さん(86歳)で、かつての縁をたよりに今回も案内をお願いした。
伊波さんは、生まれも育ちも嘉数の人。6歳で小学校の入学式を迎える直前、米軍が侵攻してくるとの知らせで家を離れ、家族5人と親戚で避難壕を経て南部に逃げたという。そして、父親の機転で何度も危機を乗り越えた末、旧高嶺村(現糸満市)真栄里の壕で、米軍に捕らえられている。
現在は、嘉数高台の平和ガイドとして忙しく、たくさんの資料を小脇に抱えながら、自分の体験を交えた沖縄戦の状況を説明する毎日である。

この日の嘉数は朝から小雨模様だったが、せっかくだからと雨の合間を見計らって歩き出したものの、途中から雨が強くなりずぶ濡れ状態。思ったより辛い状況だったのだが、伊波さんの熱心な話に引き込まれ、当時の過酷な状況を多少なりとも想像することができたように思う。

宜野湾市の一番南にある嘉数は、宜野湾の中心・普天間と浦添・首里とをつなぐ地点にある。沖縄戦当時、この地の高台に日本軍が防御拠点を置いたのも頷ける。第32軍司令部がある首里城を控え、浦添城跡・伊祖城跡より北に位置するこの高台が最前線基地であり、南進する米軍に対峙したのである。

無血上陸して南下する米軍は、嘉数高台において始めて戦闘らしい戦闘を経験することになった。
米軍は4月7日から、西側の大謝名と東部から嘉数高台を攻撃し、25日まで日米両軍の激しい戦闘が続いた。高台南側に居住する住民は、道案内や弾薬補給、負傷者介護などのために戦場に駆り出され、多数の犠牲者を出すこととなった。
そして、日本軍は浦添城跡(前田高地)、首里へと敗走した。



嘉数高台を中心とした戦線を守る日本軍(第62師団独立混成旅団第13大隊)には京都出身者が多く、その2,536人が玉砕している。
戦後、この地を訪れた遺族たちは、肉親が闘ったこの地に「京都の塔」を立て弔ったが、碑文には、「多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶えない」という一節を刻んだ。これは、沖縄戦に巻き込まれた住民の悲劇を悼む文言であり、数多く建てられたその他の戦争慰霊碑に見られないもので、希有な例であると指摘されている。
「嘉数の塔」が京都府民によって同じ敷地に建てられたのも、住民への感謝と同情を込めてのことであろう。


今も変わらない普天間基地に対し、十数年ぶりに訪れた嘉数部落はこ綺麗な住宅やマンションが増え、だんだんと“マチ化”の波が進行している印象を受けた。
嘉数高台を訪れる観光客や修学旅行生も増え、米軍が上陸した北谷海岸や、普天間基地から浦添城跡(前田高地)まで見渡せる展望台には、人影が途切れないようだ。
沖縄戦の体験者も少なくなり、当事の出来事が次第に遠のいていくのは避けられないが、人々の記憶が色褪せず、次代に受け継がれることを祈る。嘉数高台周辺の戦争遺跡や慰霊碑の存在は、その意味でも重要である。
沖縄戦の体験を熱心に語る伊波さんの、ご健康と長寿を祈らずにはいられない。

<三嶋>

久志をあるく
2025年5月4日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
名護市の東海岸は、新基地建設の騒動が続く辺野古以外、あまり知られていないように思う。
西海岸が、リゾート開発の波にさらされて著しく変化しているのにくらべ、昔ながらの佇まいが残り、静かな落ち着きが満ちているようにみえる東海岸には、どんな暮らしがあったのだろうか。今回は、「久志あるき」を通じ、そんな地域の姿を学ぼうと考えた。
案内をお願いした方は、以前からヤンバル各地の案内などを行い、よく知られている宮里健一郎さん。久志で生まれ育ち、他所に住んだことがないと話す通り、経験に基づく中身の濃いお話に、一同うなづく事しきりであった。

現在の名護市が1970(昭和45)年8月に合併する前、東海岸一帯には南北に長い久志村があり、そのなかで一番南に位置する地域が字久志だった。
宜野座村と接する静かな純農村で、「久志マサー」と呼ばれる住民の協力精神が、以前から地域の特徴と指摘されている。
また、近年は集落の北部にあったとされる「上里グスク」が注目され、話題を集めている。奄美やヤンバルのグスクにみられる、石積みのない「土のグスク」のためか痕跡もよく分からず、幻のグスクとも言われていたようだが、専門家の調査も進み、文化財に指定される可能性もあるため、地域活性化につなげようと地元では盛り上がりを見せている。

2023年・池上典氏作成

久志の家々は、碁盤の目のように四角く区切られた中に、規則正しく並んでいるが、路地が細いため車での通行はなかなかにしんどいと思われる。家々の樹木や人々の暮らしぶりなどを眺めながら、のんびりと歩くのにうってつけだ。


観音堂がある周辺が、アタイバルと呼ばれるもともとの村落跡で、周囲には多くの御願所がある。
集落は17世紀後半、現在のノロ殿内やアサギがあるあたりに移動したが、生い茂る樹木に囲まれ、あちこちにある御願所の由来などを聞いていると、古の時代に何があって人々が移動したのか、謎が膨らみ興味が尽きない。
また、アタイバルの北東側にあるウガミと呼ばれる拝所は、ムラの女性が祈願祭を行う場所で、男子禁制だったとか。今も多数の女性が集まり、家から開放されて「遊ぶ」日が数日あるそうだ。


今回の「久志あるき」では訪れなかったが、忘れてはならないのが、この地域に収容されていた伊江島の住民が味わった苦労であろう。
伊江島の住民は1945(昭和20)年4月、多くの住民や日本軍守備隊が全滅したあと、5月には慶良間諸島の渡嘉敷島と慶留間島へ強制移動させられ、6月には今帰仁村に疎開していた住民約3,200人が、久志村の大浦崎に収容される。
そして9月10日、大浦崎収容所の伊江村民は、久志部落の西方、街道より約1.3kmほど奥の山手にあるこの場所に移動を命じられ、11月に移動した。住居もない山の中での暮らしを唐突に強いられた、彼らの労苦はいかばかりであっただろう。
彼らは山の中での耐乏生活を約2年間送り、1947(昭和22)年3月、コーチバルから名護の湖辺底に出る。そしてLCTに乗り伊江島東海岸に帰着する。ようやく元の住所に戻れたのは、半年近く海岸で過ごしたあとのことであった。
久志の集落には静かで穏やかな日常が広がっていた。経済活動が活発とは言い難いが、毎日がおだやかで平和な暮らしを送れるのであれば、それ以上を望むことはないとも思えてくる。
それだけに、集落のすぐ近くにある辺野古の工事を止められれば、一層いいのだがとの思いを強くした。

<三嶋>

地域が助け合い、苦難を乗り越えてきた
2025年3月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
南風原町では以前、「津嘉山あるき」をおこなったことがあるものの、あまり馴染みがあるとはいえないため、今回、あらためて学ぼうと思い立ち、歩いてみることにした。
選んだのは、南風原文化センターがある喜屋武(キャン)である。
幸いなことに、地域をよく知る大城和喜さんに案内をお願いできたので、当日はいつにもまして楽しいなあるきとなった。
大城さんは、南風原文化センターの設立から関わり、長く館長を務められた方。当初から地域とのつながりを重視し、さまざまな事業や展示企画を住民目線で実施してきた。
住民参加の展示や、新鮮な切り口の提案などを実践してきたのは、大城さんとスタッフの意欲に加え、地域の協力があったからだろう。

地元の言葉に誇りとこだわりを持つ大城さんによると、喜屋武は「キャン」ではなく「チャン」と言うそうである。
「ちゃんと言ってね」と駄洒落も飛び出し、大城さんの語りに参加者も笑いが絶えなかったが、陸軍病院壕があった黄金山に登ると、当時の状況がしのばれ、みな神妙な面持ちとなった。
南風原陸軍病院壕は、全国で初めて文化財指定された戦争遺跡である。保存状態が良かった20号壕が、2007(平成19)年6月から一般公開され、山の北東側から入ることができるが、今回は時間の都合からパス。頂上周辺を歩いたあと、山の西側を降り、集落をめぐって、「飯上げの道」から帰るルートをとった。

黄金山頂上は、樹木が伸びて周囲を見渡すのは難しいが、見張りの兵士が配置されていたというから、当時は四方がよく見晴らせたのだろう。周辺には兵士が移動するために造られた通路が残り、爆発した穴や埋葬地などが確認できるという。戦場跡に立ち、当時の話を聞くだけで、緊迫した空気が今も漂っているような気分になる。
戦後、おびただしい数の人骨が散乱した山を、地元では「ガイコツ山」と呼んでいたという話が、リアリティをもって迫ってきた。

黄金森の一部をなす御嶽のある森から、西に下った一帯に、旧家群が広がっている。「飯上げの道」の南側に、「名護の殿」という拝所があるが、名護家も喜屋武のはじまりの頃にあった家だという。現在の中央公民館の後ろに広がる丘陵地から、南西部に広がりながら、ムラは発展したようだ。

学徒が命がけで往復した道。
「飯上げの道」では、一斗樽に詰めたご飯を、看護婦やひめゆり学徒が早朝と夕方、数百メートル離れたムラから山に運んでいた。
2名から4名ほどが、約100人分のご飯(約14kg)を入れた樽を担いだが、降り注ぐ砲弾を避けながら、暗い山道を登る運搬は容易ではなく、途中で、幾人もの人が命を落とした。
南風原陸軍病院では、女子学徒約200名の看護協力のもとで、傷病者を治療していたが、撤退の指示が出た5月25日には、収容中の患者2000名余を、軍医らが青酸カリや手榴弾で殺害・自決に追い込んだという話が伝えられる。
看護補助要員として動員された女子学徒は、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222名と、教師18名。学徒らが「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるのは、戦後、映画などで取り上げられるようになってからである。

喜屋武(チャン)の心意気を示す熱戦は、“ケンカ綱”とも呼ばれ広く知られる。2004年8月撮影。
現在の喜屋武は都市化が進み、かつて広がっていた農村の風景はほとんど目にすることができない。が、共同体意識は色濃く残り、綱引きや絣織などのような伝統行事、工芸の世界に今も反映されているという。
個人より集団で力を発揮するため、スポーツでも団体競技に強く、陸上競技のような個人競技には弱いという話も伝わる。
綱引きは現在、6月25日と26日に行われ、アガリ(東)とイリ(西)に分かれて引かれる。当日は、東の人々が公民館下で「ハーイヤ・ハーイヤ」と囃子はじめ、人数が揃ったところで東西の綱が寄せられ、カヌチ棒を入れて交互に引き合うこととなる。
西側の綱だけに枝綱が付けられ、東の綱にないのがユニークだが、東が高い位置になるため、ハンディをつけてバランスをとっているとされる。
しかし、綱引きの勝負にこだわり、多大なエネルギーを注ぎ込む喜屋武の人々のエネルギーは凄まじい。
勝負への執念とか、心意気を表す「綱のイカリ」という言葉があり、困難な状況に直面したときに役だつための、先人の思いが込められているという。先人への尊敬と感謝を忘れず、ムラに尽くそうとする人々の思いは、時を経てもなお変わらないのであろう。
戦争の悲惨や、戦後の困窮を乗り越えてきた地域の団結力は、今なお健在なのである。

<三嶋>

戦後史の一端を顧みる
2025年1月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
旧玉城村親慶原と旧佐敷村新里には、1946(昭和21)年7月から1949(昭和24)年7月までの約3年間、米軍政本部と沖縄民政府が置かれていた。
台風被害をきっかけに両者が那覇に移転すると、同地区は人口が急減するが、1951(昭和26)年には、米軍のCSGと呼ばれた知念補給基地(キャンプ知念)が設置されたため、本土復帰するまで、住民の多くはここで働くことが常態化した。
このCSG(混成サービス群)が、CIA(米国中央情報局)の基地であるとニューヨーク・タイムス紙が明らかにするのは、本土復帰直前の1971(昭和46)年だった。テレビや映画でよく登場するCIAという名を聞き、ギョッとする人は多いだろうが、この基地は事件や事故とは縁遠く、住民の多くはこの基地に好感を抱き、基地に依存した生活が形成されていた。

戦前までの親慶原は、静かな農村だった。首里などから移住した士族が開いたヤードゥイ(屋取)だったが、戦後になり環境は激変した。
米軍政本部と沖縄民政府、CSGが身近に形成され、その中で住民は生活をともにしてきたのである。現金収入がある暮らしは、他シマの人々から羨ましがられたようだ。
CSGは「沈黙の基地」と言われるほど騒音や犯罪と無縁であり、基地周辺に盛場が形成されることもなかった。基地では約600名の住民が働き、基地とは良好な関係が築かれていた。
ただ、秘密主義が貫かれた基地では、従業員は自分の職場しか見聞きできず、誰がどこで何をしているのか分からず、不気味な静けさが支配していたという。

CSGは、1951(昭和26)年から52(昭和27)年にかけ、作家・鹿地亘が誘拐された事件(キャノン事件)の中にも登場する。詳細は謎に包まれているが、松本清張の『日本の黒い霧』などによると、米ソが絡んだ謀略事件のなかで、CSGも舞台のひとつになったようだ。
鹿地亘は戦前、中国で共産党を支援した経験のある活動家だったが、キャノン少佐が率いる米軍の情報機関に誘拐され、約1年後に解放された。
その背景には、冷戦構造の中で繰り広げられたソ連・アメリカの情報戦があるようで、謀略の渦のなかで頻繁に監禁場所を変え、最後はCSGに送られたあと解放された。
事件は今も詳細不明だが、CIAの拠点のひとつだったCSGの存在と役割の一部が、うかがえる事件だったことは間違いない。


運動場跡の北東部には、米軍の大型機墜落の歴史も眠っている。
おそらくB29だと思われる「大型機」は、1955(昭和30)年4月28日午後、近くの山林に墜落。乗員全員が死亡し、洗濯中の主婦ら4人が負傷したという(1955.4.29 沖縄タイムス)。
同紙によると、墜落した飛行機は「B29のような大型機」で、馬天方面から久高島方面に向かっている途中墜落。炎は約3時間ほどで自然鎮火したとされるが、事故の重大さに比べて新聞紙面の扱いが驚くほど小さく、そのことに二重の驚きを覚えた。当時の米軍による、報道規制の厳しさがうかがえるようである。

親慶原は、わずかな期間とはいえ沖縄の中心的役割を果たした地域である。そこではさまざまな人々が集まり、多くの出来事が起こり、消えていった。今ではよく分からないことも多いが、そこで見えてくる当時の人々の姿は、輝いている。
混乱の時代を必死で生きる人々は、時代に翻弄されながらも、家族や地域を守り、共に生を紡いでいただろう。そんな人々の労苦や想いは、今を生きるわれわれに受け継がれているのだろうか。
時代の曲がり角に来ているような思いに駆られる昨今、戦後を生き抜いた人たちのエネルギーや逞しさが、ここでもいっそう眩しく感じられたのである。

<三嶋>

今も情熱は冷めやらず
2024年12月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「復帰前」、旧具志川村(現うるま市)昆布では、米軍による土地接収に対する闘争が繰り広げられた。
以前から、この昆布の土地闘争は知っていたが、足を踏み込むきっかけがなかった。しかし、「天願あるき」をやったあと、その隣に位置する昆布に入るにはいいタイミングではないかと思い、公民館を訪ねてみることにした。
すると、闘争に関わっていた佐々木未子さんが案内するということになり、ほとんどおまかせ状態で解説を頼むこととなった。
佐々木さんは、昆布で組織された「土地を守る会」の会長、佐久川長正さんの娘。高校時代から反対運動に関わり、伊江島の阿波根昌鴻さんなどと交流しながら、闘ってきた人だ。米軍に怯むことなく相対し、19歳のときにはその後、闘争の場でよく歌われた歌、「一坪たりともわたすまい」を作詞したことでも知られている。
当日は公民館で佐々木さんの概略を聞いたあと、現場に移動して闘争小屋の跡地などを訪ねた。佐々木さんは終始熱く当時を語り、理不尽な米軍に怒るその姿に参加者は惹きつけられた。


佐々木さんによれば、米軍は、天願のキャンプコートニーと天願桟橋の一体化を計画していたという。したがって、その間にある昆布の黙認耕作地(24000坪)が、邪魔だったのである。
しかし、示された土地の借地料は、1坪コーラ1本分の10セント。キビ作に追いつく額ではなく、土地を守り抜こうと決意した39人の地主たちが立ち上がった。彼らは「土地は農民の命だ」と体を張り、「土地を守る会」を結成し、米軍に立ち向かったのである。
地域には戦争で夫を亡くした未亡人も多かっただけに、闘争は生活権をかけた闘いという認識が広がり、昆布だけではなく具志川村全体が米軍に立ち向かった。
米軍にすれば、24号線(現県道75号線)沿いにある接収予定地が、一般の目に触れやすいため、実力行使をためらったのではないかと思われるが、1966(昭和41)年12月には、天願桟橋から直接上陸してきたベトナム帰還兵と、闘争小屋に詰めていた若い連中との間で喧嘩が発生した。
そして、石を持った米兵が集団で襲撃する事態となり、咄嗟に男達を小屋の裏から逃した後に女性たちが残った。女性たちだけの様子を見て米兵の集団はたじろいだものの、旗を折るなどの蛮行を行なった。たいへんな恐怖であり、忘れられないと佐々木さんが語る。

1971(昭和46)年7月19日。(写真:沖縄県公文書館)

きちんと整備された土地は綺麗だが、張り巡らされフェンスのなかに住民が入ることはできない。

昆布の土地闘争は、1966(昭和41)年1月から1971(昭和46)年6月まで続けられ、沖縄で唯一、米軍に計画を諦めさせて勝利した闘いである。
約5年半におよぶ闘いの間、住民たちは闘争小屋を建て、座り込みを続けて米軍に立ち向かい、勝利を勝ち取った。
「復帰」のあとも続く米軍との軋轢は、簡単に終わりそうにないが、世界中が右寄りに傾く今だからこそ、昆布の闘いを胸に刻み、糧にする必要があろう。屈服することなく、強大な敵に立ち向かった佐々木さんたちの闘いをみて、自分たちの覚悟が試されていると感じた1日であった。

<三嶋>
