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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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宇加地を歩きました

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 一年ぶりに行う、恩納村の地域あるき。今年は村で一番西に位置し、読谷村と境を接する字、宇加地(うかじ)である。

 東に行くと塩屋、真栄田と続くが、もともと真栄田だったものが、1949(昭和24)年に塩屋とともに別れ、現在の姿になった。そのなかには与久田(よくた)、美留(びる)という集落もあり、前者は宇加地、後者は塩屋にぞくしている。

 また、宇加地は恩納村の中でも一番面積が小さく、一番人口も少ない地域だが、それだけに顔の見える付き合いが日常的な、結束の固い地域といえるだろう。

 当日も、想定以上に多くの住民の参加があり、楽しいユンタクをしながら歩くことができたが、声を掛ければみんなが集まる、まとまりの良さに感謝である。

 地元の方と直接触れ合う機会は少ないだけに、他所から訪れた者には嬉しいひと時であるし、地域の方にも刺激になったのではないだろうか。

公民館前に集合
ナーグシク(イイモー)と呼ばれる、集落の南にある小山

 ナーグシクの中腹にはコージガマがあり、沖縄戦の時には100人ほどの住民が避難した。そして全員助かったことから、今でもこのガマは大切にされ、子供たちの平和学習などにも利用されている。

国吉家の屋敷跡

 国吉家は、牛や馬などを売買するバクロー(馬喰)で財を成し、ヤンバルいちえんで知られたエーキンチュ(財産家)。今は広い跡地に草が生い茂っているが、近くの石切場から運んだ石で造られたワーフールや、カーがわずかに残り、当時の栄華をしのばせる。

 また、1960年代に41連勝し、沖縄の闘牛史に名を残す名牛「ゆかり号」を育てた家でもある。県道を渡った先にある砂浜は、かつて闘牛が開かれた場所で、多くの人が見物に訪れていたという。

闘牛を行なっていたという海岸。向こうの岩場が石切場だが、満潮のため行けず

 干潮時にしか現れない石切場は、かつて「鳩の家」を意味するホートゥヌヤーと呼ばれていた(そんなにハトが多かったんですかね)。

 写真では、石切場の向こうに残波岬の一部が少し見えるが、その先端部(右端)にはかつて米軍のミサイル基地があり、発射実験の際には住民もこの場所から見ていたそうだ(危ないな~)。

ソーシのテラ

 ソーシのテラは、与久田の海近くにある聖地。海から流れ着いたという二つの石が守り神として祀られている。

 子どもの健康や旅の安全を守る神といわれるが、「何にでも効果がある」との区長の説明には、参加者は怪訝な顔。だが、周辺地域や村外からも拝みに来るそうなので、あながち笑ってもいられないだろう。

 今回の「宇加地あるき」は、地域住民の参加も多く、本当に楽しく、無事に終えることができた。ユーモアたっぷりの徳村区長にも楽しませてもらい、感謝である。宇加地のみなさん、ありがとうございました!

<三嶋>

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3月30日(土)、恩納村宇加地を歩きます

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3月30日(土曜日)に、恩納村宇加地(うかじ)で「宇加地あるき」を開催です。

 宇加地は、読谷村長浜の東隣に位置する小さな地域です。馴染みがない人もいるかもしれませんが、足を踏み入れると、あ〜ら不思議、面白い!となること間違いなし。
 区長さんにガイドをお願いしているので、地元で知り得ないネタも教えてもらえますよ。地元の方も多少参加参加されるでしょうから、みなさんでユンタクしながら楽しんでください。

 天気もたぶんいいでしょうから(それはそれで水不足が心配ですが)、みなさんたまには恩納村まで遠出してみませんか?

日  時:3月30日(土曜) 午前9時30分集合、10時出発
集合場所:宇加地公民館(道路に案内板があるので分かりやすいです)
*詳細はチラシをご覧ください
*小雨決行です

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具志頭あるき

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 朝晩はいくぶん涼しくなり、歩くにはいい季節と思うこの頃。どこへ行こうかと悩んでいたが、あまり馴染みのない所を勉強しようと思い、八重瀬町の具志頭を選択。間違いやすいが、旧具志頭村の中心地である字具志頭である。

集合場所のJA前にあるガジュマル。具志頭のシンボルツリーとなっている

 ハナンダー(自然橋)や屋冨祖ガーなどを訪ねたあと、具志頭城址公園に行く。

 摩文仁の平和祈念公園にくらべると、訪ねる人は少ないが、住民が建立した魄水之塔のほか、甲斐之塔、土佐之塔という慰霊碑が建ち、周辺には住民が避難したガマも多数残っているようだ。

 沖縄戦における具志頭の経過は、いくつかの書籍などをみると、以下のようになるようだ。

 地域の人々は、1945(昭和20)年3月23日の空襲、24日の艦砲を受け、ようやく北部への避難が増加。具志頭村民の一部、約300人は金武村に集団移動する。

 地上戦が激しくなるのは6月5日。与那原・大里方面から南下した米軍が、具志頭付近に侵入。布陣する日本軍の独立混成第44旅団と、激しい戦闘が繰り返された。

 6月11日には、字具志頭・安里付近が米軍の猛攻を受け、玻名城東方の91高地を米軍が占領。抵抗する独立混成第15連隊第1大隊の大隊長以下20余名が、斬り込みを敢行するが、そのほとんどは戦死したという。

 そして、米軍は6月14日、八重瀬岳(米軍呼称ビッグアップル)頂上部を確保。17日には与座岳~八重瀬岳傾斜地における高地全部を支配した。

具志頭城跡から見える海岸。ギーザバンタ、摩文仁に続く眼下の海岸を、追い詰められた日本兵や避難民は、行きつ戻りつ逃げまわったのだろう。が、美しく輝く海を見ていると、戦争の悲惨とうまく重ならない。こんなにきれいな海を前に、凄惨な闘いが繰り広げられたのである。
集落の中に、今もひっそりと存在する避難壕のひとつ(アガリンダカリティダガマ)

 口を開けているガマは、人家の真下に伸びている。日常の中に、普通の姿で今も戦争が残っているのである。

 以前調査したというSさんの案内で、恐る恐る足を踏み入れた。石灰岩から落ちる水でぬかるんでいる所もあり、足場も不安定なため転びそうになる。割れた茶碗などが見える。戦時中は役所が書類なども運び込んだようだ。

20メートル程行き、道が左右に別れている地点で引き返したが、Sさんによれば、左にまだ続いているとのこと。

 短時間のガマ体験だったが、ジメジメとした暗闇の中での生活は、想像を絶する。頭の理解と肌感覚の相違に、今更ながらあきれ絶句した。

<三嶋>

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津嘉山あるき

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 今回お邪魔したのは南風原町津嘉山。だが、地元の知り合いもいないため、いくばくかの文献資料や観光パンフなどが頼り。

 津嘉山は、沖縄戦では第32軍の司令部壕があり、多くの避難民が命を落とした山川橋(宇平橋)もあるため、以前から気になっていた。しかし、壕は(予想通り)何の痕跡もなく、山川橋までは距離があって歩くのは酷かと断念。

集合場所は、2018年に造られたばかりの地域振興資料館。16世紀から行われている大綱曳きの展示もあるが、当日は閉館となっていて残念ながら見れず。う~ん、反省。

 津嘉山は、津嘉山ムラに仲間(名嘉真)ムラが合併されたのち、1700年代に玉那覇ムラが合併した地域のようである。

 戦後は、集落の西側を走る通り(国道507号)沿いに発展。那覇市に隣接するベッドタウンとなり、現在の人口は町内最大で、唯一1万人を超えている。

 また、近年は集落東側に津嘉山バイパスが開通したため、地域北西部の開発がいっそう活発で、都市化が急速に進展している。

 沖縄戦当時、首里城地下に第32軍司令部があり、摩文仁に撤退するまで使用されたことはよく知られているが、首里城に構築される前、津嘉山に司令部壕が造られていたことは、あまり知られていないようだ。

新しく出来た津嘉山バイパスが、司令部壕があった山のすぐ脇を通る。壕の痕跡として目に見える物は何もない。戦争の記憶はいっそう遠くなった

 津嘉山の第32軍司令部壕は、津嘉山北東部の高津嘉山とチカシ毛と呼ばれる小高い丘に、1944(昭和19)年夏頃か建設が始まった。

 完成時には高さ・幅2メートルで総延長1.5~2km。手掘り壕の中では県下最大の規模だったが、十・十空襲を受けて強度に不安が生じたことや、眺望の良さから首里城地下が司令部として選択され、津嘉山は軍事物資や資金管理部が置かれるだけとなった。

 しかし5月27日には、首里城地下から撤退した第32軍の牛島満司令官をはじめとする首脳部が立ち寄り、5月30日に終焉の地・摩文仁に向かうまで、この壕に宿泊している(1泊の説もあり)。

津嘉山の住宅街に残る弾痕の壁。激戦を物語る戦跡だが、戦闘を目撃した住民もおらず、詳細は誰も分からないようだ
集落の南側にあるイーチキの御嶽。古ジマの一つ、玉那覇ムラにゆかりのある御嶽。皇民化教育を受けた名残と思われる、金属製の鳥居が祠の中に見える

 沖縄では、いっそう進む都市化(ヤマト化)の陰で、かつての暮らしや戦争の痕跡が、見えづらくなっている地域が増えているように思う。しかし、あれだけの戦禍を負い、体験者もまだ残っている沖縄であればなおさら、地域の歴史を正しく伝えることが不可欠だろう。

 津嘉山指令部壕の跡地は現在、表に何も残されていないが、当時の遺構や遺骨が、地下には今も眠っていることを忘れてはならない。首里城地下の司令部壕にくらべ、あまりにも存在が薄いこの地に、光が当てられることを願う。

<三嶋>

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3月11日(土曜)、冨着を歩きます

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恩納村で毎年行ってきたムラ歩きが、コロナで中止になっていましたが、今年、復活しました!

恩納村教育委員会のお手伝いで、これまで6カ所の字をまわり、地図とテキストを村立文化情報センター(図書館)1階のPCに納めてきましたが、その事業の復活ですね。

で、今回の舞台は、字冨着(ふちゃく)。

那覇から行くと、仲泊で分岐する交差点を左折し、旧道を直進。ムーンビーチとタイガービーチを過ぎ、右側にあるゴルフ場に入るようにして小さな交差点を右折すると、集合場所の冨着公民館です。

コースはここから山の上に向かい、集落跡(拝所群)を回って海に向かって下り、海岸端にあった旧公民館跡などを訪ねる予定です。

参加費無料ですので、ご希望の方はお気軽にご連絡ください。

好天を願いつつ、みなさまのご参加をお待ちしております。

<三嶋>

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