okiaruki

沖縄ある記

 

«Facebook
facebook.com/okiaruki

«Youtube
youtube.com/user/okiaruki

«Ustream ustream.tv/channel/okiaruki

 


特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

〒903-0801
那覇市首里末吉町2-141-60

■お問い合せ

info@okiaruki.com

糸満市兼城マーイ(まわり)

 Category: Myある記  Comment : 0


南城市佐敷小谷の人たちと、糸満市観光協会の「あ・るっく糸満」を、兼城で体験してきました。
市内にいくつか設定されたコースのひとつで、地元の方(玉那覇さんと大城さん)の案内で、楽しく廻ることが出来ました。
兼城は、1961(昭和36)年10月1日に糸満町・高嶺村・三和村と合併するまで独立した村であり、現在も糸満市で一番人口が多い所とか。中国と交易を行っていた歴史や数多く点在する拝所、集落のあちこちに残る立派な石積みなどを見ても、歴史と伝統が横溢する地域であることが分かりました。
糸満では、旧市街地や発展が著しい西海岸に注目が集まりがちですが、こんなに興味を引かれる地域が近くにあったとは、まったく驚きです。


案内していただいた大城さんの住居。代々受け継がれた風格あるたたずまいが、圧倒的な存在感を放ちます。地域の暮らしがこの屋敷から見えてくる、と言っても過言ではない気がしました。


大城家を取り囲む石積みの一部。接合面をよく見ると、曲線や直線の組合せなどがあり、しかもそれらがみんなピタリと密着していることに気付きます。素晴らしいイシゼーク(石大工)の技量と、それを命じたエーキンチュ(豪農)の力に驚嘆させられました。また、ここまで凝った石積みにした理由は、耐久性もさることながら、腕を競う心理が彼らに働いたのではないかと勝手な想像を巡らしました。
(三嶋)

--------

 

18年前のコンテンツ

 Category: ユンタク会  Comment : 0


金曜(8日)のユンタク会で、1995年にバグハウスで制作したコンテンツ、「美術館へ行こう!!」を久しぶりに見ましたが、今とあまり変わらないつくりであることに、多少驚きました(成長してないのかも)。
18年前のあのころはCD-ROMをつくったり、普及し始めたインターネットに取り組んだり、試行錯誤をくり返していた時期。沖縄の素材を活かしたコンテンツ作りを、自分たちでアレコレ模索していたんだなあ、とプロジェクターの画面を見ながら感慨にふけりました。
このコンテンツは、沖縄の戦後美術史をやさしく解説するというものですが、沖縄におけるメディアやコンテンツの発達史も、アーカイブしておく必要があるのかなあと改めて思います。黎明期のころを知る人も減っていくだろうしね。
(三嶋)

--------

 

沖縄の戦後美術ユンタク会ビデオ

 Category: ユンタク会  Comment : 0


--------

 

大城勝遺作展の告知

 Category: 案内  Comment : 0



実行委員会をつくり、夏場から進めていた「大城勝遺作展」の段取りがほぼ終わり、一段落といった感じです。
案内ハガキとリーフレットも出来上がりました。そろそろ、生前の日記やアイデア、スケッチなども取り込んだ遺稿集『正方形の偶有』も、完成するはずです。
展示は県立博物館・美術館の県民ギャラリーで、11月12日(火曜)から17日(日)までです。
多くの方に見て欲しいと思いますが、アートの洗礼を70年代に受けて以来、今もゲージツし続けているオヤジたちが、何に悩み何を問題としてきたのかを、とりわけ美術を学ぶ若い世代に知って欲しいと思う次第です。
(三嶋)

--------

 

小谷が盛り上っています

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


南城市全域を会場にした「半島芸術祭」が、11月16日(土曜)から始まため、字小谷でも何だかソワソワし始めているようです。
タカンリと地元で呼ばれる集落の南東にある高台も、生い茂っていた樹木がユンボでなぎ倒され、整地作業の真最中。この場所は、佐敷から知念半島まで眼下に見渡す絶景ポイントで、かつては毛アシビーの名所だったという話もうなずけます。夜空の下で、若者たちが謡ったり、踊ったり、愛を語ったりする場所だったんでしょうね。


樹木を払ったタカンリに現れた大岩。ガケの上にあり、しかも大きな亀裂があるため、転げ落ちないか心配する声も。


ムラのなかで新たに確認した140年前に造られたというヒンプン。一見するとコンクリートのようですが、4枚の琉球石灰岩がピッタリとつながって出来ています。石は牧港で切り出し、馬天まで舟で運んだあと、10人ほどの村人でこの場所まで担ぎ上げたようです。昔の人はエライ!と言う以外、言葉が見つかりません。
(三嶋)

--------