盛り上ったユンタク会
2014年3月14日 Category: ユンタク会 Comment : 0
今年に入って、実況中継と動画記録を停止しているユンタク会。
まとまったテーマの用意と、その準備が追いつかないのがその理由です(忙しいし)が、カメラを気にせず話せるので、それもイイかもしれないですね(ホントのユンタクですね)。
この日は、来沖された東京のお客さんも交えて、いつになく多くの顔ぶれが揃いました。みんなもテンション上がりまくりで、楽しいおしゃべりの会となりました。

(三嶋)
中央パークアベニュー
2014年3月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』67号で取材した中央パークアベニューの、Web版制作のために追加撮影をしてきました。
沖縄市は、1974(昭和49)年4月にコザ市と美里村が合併して誕生した地域ですが、40年たった今も、“コザ”という名前に愛着をもつ人は多いはず(たぶんだけど)。それだけ、コザ時代が強烈な印象を残したといえるのでしょう。
否応なく基地の門前町として生きてきたこの街の戦後は、日米琉の綱引きに、たえず揺すぶられてきた沖縄そのものです。
憎しみと憧れを同居させたまま向き合ったアメリカと、救いを求めた「母国」日本の沖縄への眼差しは、本土復帰を経た今も変わっていないようで、“手のかかる継子”以外の何者でもないのでしょう。

破産した「コリンザ」から東に続く中央パークアベニュー。それまでセンター通りと呼ばれた道路が、大幅な改修・改称を実施したのは1985(昭和60)年4月。基地経済からの脱却を企図し、歩行者優先のオシャレな通りへと生まれ変わったのですが、遠のく客足を引き止めることは今も厳しいそうです。

“ビジネスセンター”に由来する、センター通りの建設が始まったのは1950(昭和25)年6月。原野だった場所はあっという間に商店街となり、大勢の米兵がかっ歩する歓楽街へと変貌しました。

現在の沖縄市は多国籍の人々が暮らす街。さまざまな人種や世代が、多彩で自由な空気を満喫しながら、独自の文化を形成しています。
ドル時代のように儲からなくても、それでイイんじゃないの、と思わず声をかけたくなったのでした。
(三嶋)
安里川の南が海だった話
2014年3月10日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の追加取材で、安里に行ってきました。
今回は特に、おもろまちから続く新しい道路が、安里大通り(又吉道路・崇元寺通り)とクロスする安里一丁目交差点を紹介。
交差点の南側にある御嶽が、これまでよく分からなかったのですが(何の表示もないし)、それが「浮縄(ウチナー)の御嶽」だと真栄里泰山さんに教えていただきました。
金丸を国王(尚円)に推挙したことで知られる安里大親が、この場所で釣りをしながら、金丸とクーデター計画を練ったという話や、ここが「沖縄(ウチナー)」の語源とする説もあるようで、そんな重要な場所という認識がなかったこちらはビックリした次第。
慌てて再訪し、よく観察したのですが、以前の場所から移動したせいなのか、歴史を伝えるものは何もなく、目の前をたくさんの車が通過するのみ(みんなもたぶん知らないハズ)。
また、そばを流れる安里川は、遠い昔は海の一部で、このあたりが港だったようです。
海を干拓した場所が対岸の牧志で、真栄里氏が小学生時分(1950年代)までは田んぼだったそうです。
しかし、現在マックスバリューが見える付近に、水田が広がる風景を想像することはかなり難しい作業ですね。


2004(平成16)年当時(上)と、現在の安里一丁目交差点。上の写真の左端に写る、「外間金物店」だけは今も健在。

「浮縄の御嶽」。安里川を越えた向こう側に、かつては水田が広がっていました。

安里一丁目交差点の北西側に残るムラガー跡。戦後まで住民の暮らしを支えた命の水ですが、交差点が建設される際、その真ん中に位置する井戸は埋められ、現在の位置に祠が造られたようです。
(三嶋)
しまたてぃPlus更新情報
2014年3月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
しまたてぃPlusの連載「沖縄の戦後を歩く」に【石川銀座・栄・南栄通り】【安謝トンネル通り】を追加しました。
下記のリンクからご覧下さい。

しまたてぃPlus
名護博物館が開館30周年を迎えました
2014年3月3日 Category: Myある記 Comment : 0
名護博物館は1984(昭和59)年、それまで名護市庁舎だった建物を利用し、リニューアルして開館しました。
博物館の理念は、「ぶりでぃ(群手=みんなの手)」という言葉で表しているように、市民参加を基本としたものであり、地域の自然と暮らしに密着した活動を重視したものでした。
それは、地方であることを逆手にとり、地域の固有性をもって中央に対峙するといった、1973(昭和48)年の「名護市総合計画・基本構想」、いわゆる「逆格差論」の流れに沿ったものだったと理解されます。市立博物館でありながら、「市立」の文字が入っていないのも、市民を中心に据えるというこだわり故でしょう。
みんなで備品を作ったり、ペンキを塗ったりすることから形作られた博物館は、学校帰りの小学生や市民が気軽に立ち寄り、宿題をしたり打ち合わせやおしゃべりを楽しむ場所として今も親しまれていますが、その光景を見るにつけ、これこそ故・伊藤寿朗氏がとなえた、市民参加型を基本とする「第三世代の博物館」なのではないかとさえ思うのです。

記念式典。今にいたる博物館の骨格を形作った初代館長・島袋正敏さんも、功労者の一人として表彰されました。

これまでの歩みをふり返る展示会。
手づくり感がいっぱいの名護博物館ですが、建物の老朽化と狭隘なスペースの解消策として、新館建設も急がれるところ。
その際には、建物は新しくなっても、市民や関係者と築き上げてきた歴史やネットワークを基本に、地域に開かれたアクティブな博物館であり続けて欲しいものです。
(三嶋)
