久しぶりのFMレキオ「沖縄ある記」
2014年12月19日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
FMレキオで毎月第3金曜日、午後3時〜4時に放送している「沖縄ある記」に久しぶりに出演。
現在は國吉宏昭氏と玉那覇善秀氏が、毎回行き当たりばったりのトークを繰り広げて奮戦中(なので、みなさん聞いてあげて下さい)

しかし、今年最後となる今回は、2014年をふり返るということで、三人集まってあれこれユンタク。先輩二人の前で、多少言いすぎたかとチョッピリ反省しましたが、まあいいかあ。
来年もよろしくお願いします。
(三嶋)
南恩納の農業用水路
2014年12月17日 Category: Myある記 Comments : 2
恩納村には、字恩納から分離した南恩納という字があります。
かつては、東側に接する金武町屋嘉から、山を越えて運ばれた山原の物資を船に積み替え、ここから那覇に送っていたこともある交通の要衝です。
というようなことを調べ、現地に行ってあれこれ見て来たのですが、思わず足を止めたものがあったので、今回はそれにフォーカス。
紹介するのは、恩納小中学校の裏から、国道58号に並行して走る水路に架かる、コンクリートの用水路。これまで何度か通った道ですが、気づきませんでした。道路で断ち切られているものの、東西に延びるラインはうかがえますが、どちらもその先は草むらに隠れて確認できません。
文献では水路の西側には我那覇という部落があり、宿道も通っていようです。
また、大昔は浅い海が続く土地で、それが徐々に陸地化して間にこの川(水路)が残ったという話もあります。

水路をまたぐ用水路の跡。たぶん、稲作が盛んだった1960年代までは周囲に水田が広がり、この水路にも勢いよく水が流れていたのでしょう。
そういえば、各地で高架の用水路を撮影していたので、ついでにそれも引っ張り出して紹介します。

名護市安部に残る用水路。国道331号をまたぐ橋脚部分の高さは、おそらく沖縄一ではないでしょうか。

金武町金武に残る用水路。最近完成した金武ダムの貯水池にも残っていて、水位が下ると時おり顔を出す事があります。

伊平屋村我喜屋に残る用水路。伊平屋島は稲作がまだ盛んに行われているためか、この用水路はまだ現役のようです。
(三嶋)
大謝名取材記
2014年12月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で大謝名を歩きました。
案内は、地元の天久さんと同級生の崎間さん。大らかな天久さんとツッコミの崎間さんは、博識かつ名調子の絶妙のコンビ。楽しく学ばせてもいながら、大謝名三差路や市場通り、メーヌカー、黄金宮等々を歩く事が出来ました。

メーヌカーの解説板の前。パイプラインと、大謝名小学校の間にはさまれた空間は、通りの喧騒を忘れさせるオアシスです。勢いよく水が流れ落ちるカーは、子供たちの生きた教材として多様な利用が可能でしょう。
かつてはガジュマルの大木が木陰をつくったと聞きましたが、現在はありません。

天久さんの門中墓と、その近くにある旧日本軍陣地跡(写真中央右の穴)。沖合の艦船を攻撃する大砲もあったとの話ですが、詳しくは分からないようです。
この墓の南側には、沖縄戦における激戦地のひとつ嘉数高地があるので、この陣地はその前哨戦となった場所ではないでしょうか。
天久さんは、米軍が沖縄本島に上陸した1945(昭和20)年4月1日が、嘉数国民学校への入学式だったとのこと。しかし、その予定がかなうわけもなく、弾雨の中を逃げまどって嘉数高地手前のガマで捕虜になったとのこと。戦後、収容所から帰村して、小学校に通えるようになった時には、4年生になっていたそうです。

天久門中の墓から見た海。かつては水田が広がる先に海岸が見えたのでしょう。
米軍に捉えられ、ガマから出てきた天久さんは、沖合を埋めつくす米艦船の数に圧倒されたと語っていました。

旧県営鉄道(ケービン)嘉手納線の路線跡。国道58号と並行して走る、県営大謝名団地横の小道。写真右手前に大謝名駅があったとのことですが、当時を物語るものは何も残っていません。
戦前に那覇までケービンに乗ったことがあるという天久さんも、汽車のスピードに驚いた記憶しかなく、駅舎の形などまったく覚えていないとのこと。鉄道ファンならずとも、その片鱗でも聞けたらと思いましたが、残念。
詳しい話は『しまたてぃ』に書きましたので、そちらを読んでください(出し惜しみしてスンマセン)。
(三嶋)
県庁を包んできました
2014年12月4日 Category: Myある記 Comment : 0
雨と風が時おり吹きつけるなか、「12.4県庁包囲県民大行動」に参加していきました。
県知事選で破れた仲井間知事の、往生際の悪さにワジワジーする人たちが大勢集まっていました。名護から駆けつけた人もいました。
雨も寒さもものともせず、前向きに闘っていこうとする大勢の人たちから、こちらもエネルギーをもらった気分。

コンディションの悪い中、しかしみなさん元気でしたね。

帰りがけに見つけ、吹き出したビラ。
そうだ、不正義にはユーモアで立ち向かおう。何事にも笑いを忘れない精神がユトリを生むし、硬直した局面には有効な武器になるのではないでしょうか。
(三嶋)
佐敷と大里をつなぐ道
2014年11月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
徒歩が当たり前の時代、南城市佐敷小谷と山の反対側の旧大里村大城区に住む人たちは、よく往来していたそうです。
「ジャンクビリ道」と呼んでいたこの道を、小谷や隣の新里の人たちは、地域の特産品である竹細工(バーキ)をかついで登り、糸満まで歩いて売りに行っていました。
しかし、車社会が到来すると(1960年代)、山越えの道は忘れられ、人々の交流も途絶えがちになっていました。
昨年、小谷でそんな話を聞き、体験者がまだいるにも関わらず当時の記録や記憶が伝えられていないことに、何とも残念な気がしていました。
が、南城市商工会や地元の方たちが一緒になって、かつての道が改修され、立派な山道が復活することとなりました。
今後はこの道を利用し、以前のように、山の西側に位置する大城地区(稲福・真境名をふくむ)との往来も活発化していけば、地域間の交流が復活し、相互の活性化が期待できるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、大城区のあちこちを回ってきたので、少しだけここで紹介しようと思います。

小谷から大城に続く山越えの「ジャンクビリ道」。復元された山道は思ったより道幅が広くてきれい。「自然観察の森」として、一時期は整備されていたせいかもしれません(その後、ほったらかされた?)。
大きなガジュマルや各種の樹木、古いお墓なども見ながら、小谷から10分ほどで頂上に到着します。尾根を走る立派な道路は、東に行くと「ユインチホテル」につながります。山の西側が大城区となります。

尾根を走る道路沿いにある「大城按司の墓(ボーントゥ墓)」ふきんから見た、大城城跡(シマ言葉では「ウフグスクグスク」とちょっと面倒臭い)。写真の一番奥に観える山の頂上に、大城グスクはありましたが、現在は何も残っていません。

尾根を走る道路を西に進むと、かつて稲福集落があった場所に続きます。
写真の石碑は、集落の戦争慰霊碑が置かれた森の中に立っています。手書きで刻んだと思われる文字は「ブラジル再渡航記念/大前小(屋号) 玉城福吉 1978 9月」と読めます。周辺には、ブラジルとアルゼンチンに渡る別の方が、それぞれ建てたと思われる石碑もあります。
森の中に眠るこれらのコンクリートの柱を建てた人たちは、どんな気持ちでこれを残したのでしょう。また、その後、どんな人生を歩んだのでしょうか。

真境名樋川(まじきなヒージャー)。稲福の西隣に位置する真境名集落に残るカー。すぐそばには殿やいくつもの御嶽が集中し、一帯は村一番の聖地にふさわしい厳かな雰囲気が漂っています。
向かって左側の角ふきんはヌル(ノロ)が座る場所で、「ヌルのお座敷」と呼ばれる石が今も残っています。
(三嶋)
