大謝名取材記
2014年12月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で大謝名を歩きました。
案内は、地元の天久さんと同級生の崎間さん。大らかな天久さんとツッコミの崎間さんは、博識かつ名調子の絶妙のコンビ。楽しく学ばせてもいながら、大謝名三差路や市場通り、メーヌカー、黄金宮等々を歩く事が出来ました。
メーヌカーの解説板の前。パイプラインと、大謝名小学校の間にはさまれた空間は、通りの喧騒を忘れさせるオアシスです。勢いよく水が流れ落ちるカーは、子供たちの生きた教材として多様な利用が可能でしょう。
かつてはガジュマルの大木が木陰をつくったと聞きましたが、現在はありません。
天久さんの門中墓と、その近くにある旧日本軍陣地跡(写真中央右の穴)。沖合の艦船を攻撃する大砲もあったとの話ですが、詳しくは分からないようです。
この墓の南側には、沖縄戦における激戦地のひとつ嘉数高地があるので、この陣地はその前哨戦となった場所ではないでしょうか。
天久さんは、米軍が沖縄本島に上陸した1945(昭和20)年4月1日が、嘉数国民学校への入学式だったとのこと。しかし、その予定がかなうわけもなく、弾雨の中を逃げまどって嘉数高地手前のガマで捕虜になったとのこと。戦後、収容所から帰村して、小学校に通えるようになった時には、4年生になっていたそうです。
天久門中の墓から見た海。かつては水田が広がる先に海岸が見えたのでしょう。
米軍に捉えられ、ガマから出てきた天久さんは、沖合を埋めつくす米艦船の数に圧倒されたと語っていました。
旧県営鉄道(ケービン)嘉手納線の路線跡。国道58号と並行して走る、県営大謝名団地横の小道。写真右手前に大謝名駅があったとのことですが、当時を物語るものは何も残っていません。
戦前に那覇までケービンに乗ったことがあるという天久さんも、汽車のスピードに驚いた記憶しかなく、駅舎の形などまったく覚えていないとのこと。鉄道ファンならずとも、その片鱗でも聞けたらと思いましたが、残念。
詳しい話は『しまたてぃ』に書きましたので、そちらを読んでください(出し惜しみしてスンマセン)。
(三嶋)