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戦火に消えた小学校

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『しまたてぃ』の取材で、県庁前から久茂地交差点まで歩いてきました。
案内は知り合いの増村さんと、渡名喜さんという同級生コンビと、先月も名護に同行していただいた大嶺昇さん。
大嶺さんと渡名喜さんは、現在バスセンターの敷地となっているあたりでともに生まれ、ご近所付き合いがあった一つ違いの先輩と後輩。二人とも、近くにあった甲辰小学校に通っていたので、学校跡地に建つ石碑も訪ねました。


左から増村さん、大嶺さん、渡名喜さん。
甲辰小学校は久茂地川のすぐそば、現在のパレット久茂地あたりからその西側にかけてあったのですが、1944(昭和19)年の十・十空襲で焼失し、その後、再建されることはありませんでした。
大嶺さんと渡名喜さんはその少し前(対馬丸が沈められた8月22日あと)、潜水母艦迅鯨で鹿児島に到着し、宮崎で疎開生活を送っています。
また、天妃小学校に通っていた増村さんは、十・十空襲のあと家族とともに疎開船で鹿児島にたどり着き、大分で疎開生活を送ったそうです。


久茂地川にかかる甲辰橋は、1959(昭和34)年11月竣工。「甲辰」の名は、この橋にしか残されていないようです。
日露戦争開戦の年に設置され、十・十空襲で消滅した甲辰小学校は、軍国主義教育とともにあった学校といえます。戦後再建されなかったのも、そんなことが影響したのでしょうか。
無論、それは80歳を超えた当時の子どもたちには関係のない話で、跡形もなく戦火に消えた学校は、彼らの脳裏に今も生きているといえるでしょう。

※参考:「甲辰橋と甲辰小学校」2013年3月27日
(三嶋)

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旧正月だけど津堅島

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例年より遅い今年の旧正月、なぜか津堅島で散策となりました。
日曜日も重なって人が多いだろうとの予測通り、フェリーは満杯。
普段は本島などに居る島の出身者たちも、この日ばかりは故郷に帰って正月を祝うのでしょう。大きなバックや、お土産らしき荷物を抱えた人たちが多いようでした。


大漁旗も掲げられ、華やいだ雰囲気が島のあちこちにあふれていました。


港が見える小高い場所に、漁師のおじさんたちが集まっていました。
普段から波の様子を見に来る場所らしいのですが、今日は正月休みなので女性陣が料理を作っている間は、ここでビールを飲みながらユンタクしているとのこと。
そこへ見知らぬ女子大生が乱入したので、多少驚いたようでしたが、百戦錬磨(?)のお父さんたちは破顔一笑。自分の子どもほどの年娘たち相手に、大盛り上がり。
彼女たちも普段はあまり接することがない人たちだけに、仕事の話や島の暮らしに興味をそそられた様子で、質問の嵐。しかし、一番クイツキがよかったのは、「ここでは伊勢エビがいっぱい食べられるよ」との言葉。
島の未来を考えると、エビで嫁を釣る婚活もアリですね。


港から続く学校前の通り。
普段は人通りの少ない通りも、この日ばかりは通行人がぐっと増え、空気も華やいだよう。やはり、若者や子どもがいると、それだけで地域が明るくなります。


ロシアではありません。走れるかどうか疑問ですが、かなりイケテル感じの車。いいですね〜。
よく見ると、ワイパーには松の小枝が挟んであります。正月飾りですね。


民家の塀や門の上でよく見かけた、シャコガイの魔除け。
こっちは中身に魅かれます。食べたいですね〜。
(三嶋)

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泡瀬干潟の今

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泡瀬まで出かけたので、その帰り、海岸に車を止めてパチリ。


辺野古がクローズアップされるなか、泡瀬干潟の問題が少しかすんでいる感じですね。


だそうです。
どんよりとした夕方の天気と、大潮のせいか海が遠い干潟の光景に、いっそう気分が滅入りました。
(三嶋)

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佐敷と知念をつなぐ道

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このところ通っている、南城市佐敷の手登根(てどこん)の続報。
手登根の背後に連なる丘陵地帯は、旧知念村知念との境になります。
かつては両者をむすぶ山道がいくつかあったのですが、がけ崩れが多い地帯なので現在それらの道は閉ざされ、新しく造られた車も通れる農道が1本あるだけとなっています。
国道331号を海沿いに走るよりかなり大幅にショートカットできるため、ボクもこの道はよく利用していますが、琉球王国時代の王女も通って斎場御嶽や久高島に詣でた話も残るだけに、かつての歴史をふりかえりながら歩くイベントが出来ないかと考えます。
中城湾に面した佐敷から、太平洋に面した知念にいたる古代のルートを体現し、地域をまたいで往来していた人々の暮らしや、価値観を学ぶ機会になると思うんですよね(距離もあるし高低差もあるのでシンドイでしょうが)


山側から見た手登根の集落。中城湾に面した平地には、1950年代まで水田が広がっていました。


知念側から見た佐敷側に下りる道。手登根と接する字伊原(いばら)・字屋比久(やびく)の集落が見えます。
ガードレールの右側の谷が、かつてスクガー(底川)集落があった場所。1960年代まで居住した人によると、ここから佐敷側のバス停まで歩き、知念高校に通ったとのことでした。


スクガー(底川)を守る会の拠点、「木創舎(きづくりや)」から見た佐敷方面の景観。
左端に見える風車があるあたりが通称“アカバンター”で、尚巴志王の弟にあたる手登根大比屋(てどこんウフヤー)という人が、ここから海岸ふきんまで石を投げたという伝説があり、それが次の写真ですね。


これが、手登根の海岸近くに突き刺さったとされる“フッチャー石”。
山の上からここまで投げたんですねえ、って、んなアホな!
港が近い場所なので、交易船がバランスをとる重りか碇にしたのではないかという説もあり、そちらの方が説得力がありますが、畑のなかに唐突に石が立っている光景は確かに不思議。
一体なんなんでしょうね。
(三嶋)

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名護の二宮金次郎

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敬愛する名護の又吉康仁先生を久しぶりに訪ねました。
自宅横の畑には、ホーレンソウやネギ、シマナー(島菜)が、青々と葉っぱを広げ、畑の奥にある土手ではサクラの花が咲き誇っていました。
まさに少量多品種の「やんばる型農業」の実践場。
先生はいつも元気で落ち込むことがないようですが、「小学生の時から二宮金次郎だったさあ」と言うように、家の手伝いをこなしつつ、勉強もスポーツも力いっぱいやってきた経験と自信が生きているからでしょう。
農業にはまったく素人のボクが先生のお宅に通うのも、先生の前向きな姿勢に学ぶ点が多いからに他なりません。


コージン先生とも話すのですが、現在の農業の行き詰まり状況は、農や食の問題を経済だけで語りすぎてきた帰結なのではないでしょうか。
近年かまびすしいTPPや農協問題の根底には、この国のずさんな農業政策が積み残してきたツケがあり、それが一気に表面化してきた結果のように思われます。その結果、零細な生産者がいつも振り回される、という事態を招いているのではないでしょうか。
「儲かる」農業を当たり前とし、コメや野菜を都合のいい商品とするために、合理化や機械化を進め、農薬をまき散らしてきたのが戦後の農業ではなかったのか。そして「豊かさ」を追求してきた結果、農業の崩壊を招来してしまいかねない所まで追い込まれてしまったのではないか、そんな疑問が頭をもたげるのです。
貧乏でいいと言うのではありませんが、もっと別の道があるのではないか。
そんなときに、コージン先生が語る「生き延びる農業」に出会い、目が奪われたのです。
理論と実践をくり返し、一人でコツコツと畑を耕す姿は、まさに現在の二宮金次郎ですし、理数系の頭と同時に琉歌や詩を諳んじるロマンチストは、宮沢賢治のようにも映ります。
われわれが先生に学ぶべき点はまだまだ、多いように思います。
少しほめ過ぎでしょうか、先生。
(三嶋)

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