人の痕跡
2015年3月26日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市許田のウガン崎に、自分たちで建てた家に住む夫妻がかつて居住していたことは、以前にも書きました。
当時の新聞や雑誌に掲載された記事を読むと、軍属だった米国人の夫と大阪出身の奥さんが、街の暮らしを捨て、自給自足の暮らしを目指して美しい海辺に移住したとありますが、その後を報じる記事は見当たりません。
二人がこの地を離れたのは、海洋博覧会開催(1975年)に合わせた高速道路の建設が、すぐ近くで始まったためだと思われます。
最近まで家の跡が残っていた、と言う友人たちもいたので(彼らの「最近」は30年ぐらいの振れ幅がありますが)、何か発見できるかもしれないと再び足を運んだのですが、背丈以上に生い茂る樹木に阻まれ、今回もそれらしい痕跡は見当たりませんでした。

写真の場所が唯一ともいえる平地。おそらくこのあたりに住居があったものと思うのですが、雑木が生い茂り、奥に進むことは無理でした。

その後、移動した源河ウェーキの屋敷跡。
高台に建つこの場所からは、南北の丘陵にはさまれた土地や海にそそぐ清流、川沿いの集落など、典型的なやんばるの農村風景が一望できます。
そして、源河の村を納め、隆盛を誇った家がこの場所にあったのですが、家屋が取り壊された今は石積みしか残されていません。
この日たまたま訪れた許田と源河の跡地は、どちらも今は時間のなかに埋没しつつあります。
許田に住みつき、自然と共存する暮らしを試みた夫婦、先祖伝来の土地を耕しムラを守ってきた一族と、人と土地との関係は異なりますが、やがてはその痕跡も土に還っていくのでしょう。
土地や家に縛られ、生きるのに必死だった私たちの先祖からすれば、人の一生はそんなものとの諦念や死生観が一般的だったのかもしれません。が、住居の痕跡さえ消えかかった跡地に立つと、寂寥感というか無常観のようなものが忍び寄るのも事実。
ピラミッドや銅像を建て、後世に残したい分けではない(そりゃそうだ)ですが、何も残らないというのも何だかなあとグズグズ考えたのでした。
(三嶋)
手登根の拝所と小谷の報告会
2015年3月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
小谷で開かれる報告会に招かれたので出かけてきました。
時間が多少あったので、手登根や字佐敷などを回り、以前、案内してもらった御嶽も確認してきました。

写真は、詳しいことはよく分かりませんが、地域で一番古い御嶽とのこと。
以前、地元の神事を任されているという大城チヨ子さんに案内してもらった時、「土地は神様から預かっているもので、人間のものではない」、「われわれは神様の土地を借りて住まわせてもらっているのだから、神様への御参りを欠かしてはいけない」と話されていた言葉が蘇りました。

小谷公民館で開かれた報告会&慰労会。
一昨年から始まった南城市商工会の事業をきっかけに、小谷は見違えるように活性化しつつあります。
何よりすばらしいのは、地元のお年寄りたちが積極的に参加し、地域散策のガイドなどを買って出たこと。バーキ作りで知られ、「竹の里」として名を馳せたかつての思い出やプライドが蘇ったようで、訪れるたびに村がキレイに、明るくなっています。
持続的な展開がこれからの課題でしょうが、こちらも出来る限りフォローしたいと思った一夜でした。
(三嶋)
名護のセミナーに参加しました
2015年3月22日 Category: Myある記 Comment : 0

名護市の中央図書館で開かれた、地域誌・字誌作りに取り組んでいる人たちの報告会。
沖縄は市町村をはじめとして、あちこちで多くの地域史が作られています。セミナーでは、実際に関わってきた人たちの苦労話や問題提起などもあって、いい刺激を受けました。
そして、行政やアカデミックな視点ではなく、日常の延長で地域を記録・蓄積することの重要性と、その方法論の検討が必要ではないかと感じました。
というのは、既存の市町村誌や字誌が、みんな同じような形態で作られていることに、ボクは以前から不満を抱いていたからです。
布張りのハードカバーに金箔の背文字、ケースに入った分厚く重い書籍といった従前のスタイルは、いかにも扱い辛いですし、一般の読者・住民に優しくありません。記念品として本棚にしまっておくとか、研究者などの利用を想定しているのなら別ですが、もう少し手に取りやすい形態やスタイルがあってもいいと思うのです。
このことは、「沖縄ある記」にも関わる課題であって、アウトプットだけを切り離して論じるのではなく、情報のインプットや加工、アーカイブなどについても同時に考える、包括的な取り組みが不可欠でしょう。
さまざまなメディアが発達した今日、コスト・パフォーマンスを最大化する手法と、そのための方向づけが立ち上げ時から求められるべきです。

写真は2014年3月に発行された、『新大宜味村史・ビジュアル版 わーけーシマの宝物』。
大宜味村内にある17の集落を、A4判・100ページほどの紙面でコンパクトに紹介しています。写真や地図などの情報が豊富で、ゆかりの人物やエピソードなども読みごたえ十分。
村史発刊は、民俗とか自然、沖縄戦、移民などのテーマごとに、それぞれ数年がかりで発刊されることが多いようですが、各巻は詳細すぎるがゆえに時間と経費がかかり、難しい内容は住民にも十分理解されていないように見えます。
この大宜味村のビジュアル版はその欠点を補い、今後の出版事業に対する住民の理解を得る効果もあるのではないでしょうか。
地域が急速に変容する今日、住民が地域を知るための出版が、まずは求められているように感じます。
(三嶋)
川は流れる
2015年3月8日 Category: Myある記 Comments : 2
那覇市内を流れるガーブ川沿いを歩くと、かつて仲宗根美樹(分かるかな?)が歌ってヒットした、「川は流れる」のイメージが浮かんできます。
「わくらばを/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる〜」という歌で(知らないか?)、「わくらば」って何?と思ったものですが、ハスキーな声で物憂げに歌われる川のイメージは、暗い心情を映すメタファーとして子供心に残りました。

そして、そのイメージにピッタリなのが、沖映通りの地下を流れ、ジュンク堂のビルの前で地表に顔を出すガーブ川。
しかし、このところ周辺ではいろいろな工事が進んでいる様子。この風景も近いうちに変わるのではないでしょうか。
汚い川がイイという分けではありませんが、何でもかんでもキレイでオシャレな空間になると、息苦しくなるのも事実なんです。
生来の卑しさや貧しさに天の邪鬼も味方して、小奇麗なものを見ると「ケッ!」とか毒づきたくなるんですわ。

新しいビルが建設されるそばの岩陰で、放置されたようにみえる墓がありました。
墓標には「故陸軍輜重兵上等兵呉屋喜次郎之墓」と刻まれています(「輜重兵」はWikipediaによると「しちょうへい」と読み、兵站業務を専門とする兵士とのこと)。
ガーブ川と沖映通りの間にある間隙に、ポッカリと空いたこの異空間は、近いうちに取り壊されるのでしょう(たぶんだけど)。
「生者は死者に患わされることなかれ」とも言いますが、70年前に戦死したこの方のことは誰かが覚えているのでしょうか。遺族も途絶えた墓が、彼の存在を証明する唯一のモノだとすれば、その喪失は、国のために戦死した魂が、「公」によって再度殺されることを意味しているようで、暗い気持ちになりました。

ガーブ川の側にあった、今では珍しい、子どもがたむろする商店。
コンビニに取って代わられて随分たちますが、地域交流の拠点だったマチヤグヮーは、地域のセーフティーネットとして大きな役割を担っていたと今にして思います。
わたしたちは、どこで間違えてしまったんでしょうね。
(三嶋)
県庁前通りの移り変わり
2015年2月27日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材が続いています。
今回は、戦後世代の話を聞こうと、わが沖縄ある記の玉那覇善秀さんと、その高校時代の同級生(久高さん・真栄田さん)に同行いただき、ハーバービュー通りまで歩きました。
現在、県庁が建っている場所には、アメリカ世の時代、行政府ビルがありました。
1953(昭和28)年4月、米国民政府が「琉球住民に献呈する」として建設したもので、1・2階を琉球政府、3・4階を米国民政府が使っていました。屋上には星条旗が翻っていたそうです(いかにも“占領”ですね)。
沖縄初のエレベーターもあって話題となり、近所の小学生たちは乗りに来たそうです。

ハーバービュー通りから見た県庁前通り。
現在の県庁前通りは政府前通りとよばれ、中央分離帯がある広い道路でしたが、当初は行政府ビル(現在の県庁)の前までしかなかったそうです。
アメリカのお偉いさんを乗せたでっかいアメ車も、ここでUターンするしかなかったとの話ですが、1954(昭和29)年6月に立法院ができたころ、ハーバービュー通りまで道が延びたのではないかという話でした。

県庁前通りから北に路地を入ると、かつての雰囲気が漂う変形の十字路があります。その角を左折すると“病院通り”、右の角には「松尾市場」があったそうです。
周辺には、琉球政府に出張で来る人が定宿にした旅館もあり、その奥は “ハーバービュー”とよばれた売春地帯でした。
“ハーバービュー”は西の行政区域と、東にある那覇高校との間にはさまれた空間で、近くの米軍基地の兵隊を相手にした飲食店が並び、戦争未亡人などが相手をする歓楽街でした。
現在の街並みから、隠微で危険な香りを漂わせていた当時の歓楽街の姿は想像できませんが、戦後史の断面として記録しておくことは重要でしょう。名もない庶民の姿は、表の歴史から抜け落ちるものですが、どんな人でも生きていた証は残したいものではないでしょうか。そして、そんな人たちの積み重ねで「今」があることを、忘れてはならないような気がします。

戦後の一時期、“ハーバービュー”とよばれた歓楽街の周辺は、沖縄戦の際に激戦が繰り広げられた場所でもあります。当時の弾痕も確認される戦前のレンガ塀は、戦後の混乱期を乗り越え、今にいたるまでこの路地裏にあって、何を見つめてきたのでしょうか。
(三嶋)
