泡瀬干潟の今
2015年2月10日 Category: Myある記 Comment : 0
泡瀬まで出かけたので、その帰り、海岸に車を止めてパチリ。

辺野古がクローズアップされるなか、泡瀬干潟の問題が少しかすんでいる感じですね。

だそうです。
どんよりとした夕方の天気と、大潮のせいか海が遠い干潟の光景に、いっそう気分が滅入りました。
(三嶋)
佐敷と知念をつなぐ道
2015年2月9日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
このところ通っている、南城市佐敷の手登根(てどこん)の続報。
手登根の背後に連なる丘陵地帯は、旧知念村知念との境になります。
かつては両者をむすぶ山道がいくつかあったのですが、がけ崩れが多い地帯なので現在それらの道は閉ざされ、新しく造られた車も通れる農道が1本あるだけとなっています。
国道331号を海沿いに走るよりかなり大幅にショートカットできるため、ボクもこの道はよく利用していますが、琉球王国時代の王女も通って斎場御嶽や久高島に詣でた話も残るだけに、かつての歴史をふりかえりながら歩くイベントが出来ないかと考えます。
中城湾に面した佐敷から、太平洋に面した知念にいたる古代のルートを体現し、地域をまたいで往来していた人々の暮らしや、価値観を学ぶ機会になると思うんですよね(距離もあるし高低差もあるのでシンドイでしょうが)

山側から見た手登根の集落。中城湾に面した平地には、1950年代まで水田が広がっていました。

知念側から見た佐敷側に下りる道。手登根と接する字伊原(いばら)・字屋比久(やびく)の集落が見えます。
ガードレールの右側の谷が、かつてスクガー(底川)集落があった場所。1960年代まで居住した人によると、ここから佐敷側のバス停まで歩き、知念高校に通ったとのことでした。

スクガー(底川)を守る会の拠点、「木創舎(きづくりや)」から見た佐敷方面の景観。
左端に見える風車があるあたりが通称“アカバンター”で、尚巴志王の弟にあたる手登根大比屋(てどこんウフヤー)という人が、ここから海岸ふきんまで石を投げたという伝説があり、それが次の写真ですね。

これが、手登根の海岸近くに突き刺さったとされる“フッチャー石”。
山の上からここまで投げたんですねえ、って、んなアホな!
港が近い場所なので、交易船がバランスをとる重りか碇にしたのではないかという説もあり、そちらの方が説得力がありますが、畑のなかに唐突に石が立っている光景は確かに不思議。
一体なんなんでしょうね。
(三嶋)
名護の二宮金次郎
2015年2月6日 Category: Myある記 Comment : 0
敬愛する名護の又吉康仁先生を久しぶりに訪ねました。
自宅横の畑には、ホーレンソウやネギ、シマナー(島菜)が、青々と葉っぱを広げ、畑の奥にある土手ではサクラの花が咲き誇っていました。
まさに少量多品種の「やんばる型農業」の実践場。
先生はいつも元気で落ち込むことがないようですが、「小学生の時から二宮金次郎だったさあ」と言うように、家の手伝いをこなしつつ、勉強もスポーツも力いっぱいやってきた経験と自信が生きているからでしょう。
農業にはまったく素人のボクが先生のお宅に通うのも、先生の前向きな姿勢に学ぶ点が多いからに他なりません。

コージン先生とも話すのですが、現在の農業の行き詰まり状況は、農や食の問題を経済だけで語りすぎてきた帰結なのではないでしょうか。
近年かまびすしいTPPや農協問題の根底には、この国のずさんな農業政策が積み残してきたツケがあり、それが一気に表面化してきた結果のように思われます。その結果、零細な生産者がいつも振り回される、という事態を招いているのではないでしょうか。
「儲かる」農業を当たり前とし、コメや野菜を都合のいい商品とするために、合理化や機械化を進め、農薬をまき散らしてきたのが戦後の農業ではなかったのか。そして「豊かさ」を追求してきた結果、農業の崩壊を招来してしまいかねない所まで追い込まれてしまったのではないか、そんな疑問が頭をもたげるのです。
貧乏でいいと言うのではありませんが、もっと別の道があるのではないか。
そんなときに、コージン先生が語る「生き延びる農業」に出会い、目が奪われたのです。
理論と実践をくり返し、一人でコツコツと畑を耕す姿は、まさに現在の二宮金次郎ですし、理数系の頭と同時に琉歌や詩を諳んじるロマンチストは、宮沢賢治のようにも映ります。
われわれが先生に学ぶべき点はまだまだ、多いように思います。
少しほめ過ぎでしょうか、先生。
(三嶋)
シンタの復元もアリでは?
2015年1月28日 Category: Myある記 Comment : 0
旧大里村真境名(まじきな)は、かつてシンタ作りで知られた集落です。
シンタとは島尻周辺の呼び名で、他の地域ではカマンタと呼ぶことが多い鍋のフタ。一番大きなシンメーナービなどでイモを蒸す時など、蒸気がいい具合に抜けて重宝したそうです。おもにススキの葉を使い、かつてはあちこちの家で作っては那覇や糸満に売ったそうですが、最後まで頑張っていたおばあちゃんが作れなくなったので、途絶えるのではないかと危惧していました。
が、公民館で聞いてみると、何と、自分が作れると言うおじいちゃんがいるではないですか。何ということでしょう。ビックリです。聞いてみるもんですね。
今すぐ計画がある分けではありませんが、もう一度作ってもらい、材料や技術を若い人たちに伝えられたらイイんですけどね。資料としてももちろんですが、かつては地域を代表する技(わざ)ですし、特産品だった分けなので、消えてしまうのはもったいないですね。
今風にアレンジしたり、何とかならないかなあ。

真境名公民館に置かれた、大小二つの“力石”。
かつての村の青年たちは、近くのカンナムイと呼ぶ場所で、「イッパー」と呼ばれるこの石を持ち上げて力競べを行っていたそうです。

メーチヂグヮーと呼ばれる現在のゲートボール場。
今ではちょっと想像できませんが、以前は小高い森になっていて、子どもたちの遊び場だったそうだ。夜になると、ここから南の方角に“火の玉”が見えるという場所でもあり、子供たちが肝試しをしたとのことです。
そんな思い出を、楽しげに語るお年寄りの笑顔は何とも魅力的で、接するこちらも楽しさが伝染しますが、考えると、彼らは沖縄戦を幼少に経験し、戦後を必死で生きてきた人たち。その軌跡や労苦に思いを馳せると、笑顔も特別のものに感じられたのでした。
(三嶋)
おじいさんが笑った
2015年1月24日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
恩納村で展開する字歩きの第2弾。「字恩納を歩こう」を開催しました。
公民館に集まった地元の方は20名弱。
すべておじいちゃん達で、いかつい顔の先輩たちを前にどうしようかと思いましたが、今回も玉城さんの巧みなリードで盛り上がり、盛況のうちに終えることが出来ました。
最初とはうって変わって、途中からお喋りになったおじいちゃんたちを見て、こちらも嬉しくなりましたし、いろいろな話も聞けたので収穫の多い歩きになりました。
とにかく、みんな楽しそうだったので何よりでしたが、それにしても、やっぱり玉城さんの島クトゥバは最強ですね。

恩納ナビーの歌碑で知られる恩納松下。
現在の松の大木のそばには、かつて生えていた松の根っ子も。

赤平森(アカヒラムイ)ふきん。
西側はくぼ地になっていて、反対側の高台あたりにかつて我那覇集落がありました。そこから南西方向に向かってはチャラチャラグーフと呼んだ宿道があったようですが、今回はそこまで行けないので、こちら側でユンタクです。斜面の下にすむ家のご夫婦も呼んで、いっそうお喋りが弾みました。

赤平森(アカヒラムイ)の拝所。恩納共同売店(沖縄最大の共同売店だそうです)から左折した先にあって、かつての集落(古島)の方を遥拝する場所のようです。
祠の「ブロックがなんか変」と思って近寄ってみると、小さな貝殻や砂が混じっているのを発見。
本土復帰前後の開発ラッシュの際に、あちこちで建設用の砂が足りないということで、水洗いしない海砂を使って急場をしのいだ話もあちこちで聞くので、その名残ではないでしょうか(たぶんだけど)。
(三嶋)
