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特定非営利活動法人
沖縄ある記
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シンタの復元もアリでは?

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旧大里村真境名(まじきな)は、かつてシンタ作りで知られた集落です。
シンタとは島尻周辺の呼び名で、他の地域ではカマンタと呼ぶことが多い鍋のフタ。一番大きなシンメーナービなどでイモを蒸す時など、蒸気がいい具合に抜けて重宝したそうです。おもにススキの葉を使い、かつてはあちこちの家で作っては那覇や糸満に売ったそうですが、最後まで頑張っていたおばあちゃんが作れなくなったので、途絶えるのではないかと危惧していました。
が、公民館で聞いてみると、何と、自分が作れると言うおじいちゃんがいるではないですか。何ということでしょう。ビックリです。聞いてみるもんですね。
今すぐ計画がある分けではありませんが、もう一度作ってもらい、材料や技術を若い人たちに伝えられたらイイんですけどね。資料としてももちろんですが、かつては地域を代表する技(わざ)ですし、特産品だった分けなので、消えてしまうのはもったいないですね。
今風にアレンジしたり、何とかならないかなあ。


真境名公民館に置かれた、大小二つの“力石”。
かつての村の青年たちは、近くのカンナムイと呼ぶ場所で、「イッパー」と呼ばれるこの石を持ち上げて力競べを行っていたそうです。


メーチヂグヮーと呼ばれる現在のゲートボール場。
今ではちょっと想像できませんが、以前は小高い森になっていて、子どもたちの遊び場だったそうだ。夜になると、ここから南の方角に“火の玉”が見えるという場所でもあり、子供たちが肝試しをしたとのことです。
そんな思い出を、楽しげに語るお年寄りの笑顔は何とも魅力的で、接するこちらも楽しさが伝染しますが、考えると、彼らは沖縄戦を幼少に経験し、戦後を必死で生きてきた人たち。その軌跡や労苦に思いを馳せると、笑顔も特別のものに感じられたのでした。
(三嶋)

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おじいさんが笑った

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恩納村で展開する字歩きの第2弾。「字恩納を歩こう」を開催しました。
公民館に集まった地元の方は20名弱。
すべておじいちゃん達で、いかつい顔の先輩たちを前にどうしようかと思いましたが、今回も玉城さんの巧みなリードで盛り上がり、盛況のうちに終えることが出来ました。
最初とはうって変わって、途中からお喋りになったおじいちゃんたちを見て、こちらも嬉しくなりましたし、いろいろな話も聞けたので収穫の多い歩きになりました。
とにかく、みんな楽しそうだったので何よりでしたが、それにしても、やっぱり玉城さんの島クトゥバは最強ですね。


恩納ナビーの歌碑で知られる恩納松下。
現在の松の大木のそばには、かつて生えていた松の根っ子も。


赤平森(アカヒラムイ)ふきん。
西側はくぼ地になっていて、反対側の高台あたりにかつて我那覇集落がありました。そこから南西方向に向かってはチャラチャラグーフと呼んだ宿道があったようですが、今回はそこまで行けないので、こちら側でユンタクです。斜面の下にすむ家のご夫婦も呼んで、いっそうお喋りが弾みました。


赤平森(アカヒラムイ)の拝所。恩納共同売店(沖縄最大の共同売店だそうです)から左折した先にあって、かつての集落(古島)の方を遥拝する場所のようです。
祠の「ブロックがなんか変」と思って近寄ってみると、小さな貝殻や砂が混じっているのを発見。
本土復帰前後の開発ラッシュの際に、あちこちで建設用の砂が足りないということで、水洗いしない海砂を使って急場をしのいだ話もあちこちで聞くので、その名残ではないでしょうか(たぶんだけど)。
(三嶋)

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手登根は寒かった

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って、どこも寒かったんですが。
昨日の名護に続いて今日は南城市。ご無沙汰していた佐敷の手登根で、調査歩きの第2弾といったところ。


写真だけ見るとここはどこ? 沖縄ではないみたいですね。
天気もいまいち、風もあって少々つらい歩きとなりました。


山側の道。
今は途切れていますが、かつては首里・佐敷から続く道が手登根から山頂に続き、反対側の知念につながっていたようです。 これが“ユックイヌヒラ(日暮れ坂)”と呼んだ道の一部かもしれませんが、他にも道があったそうなので、確証はありません。いずれも、当時の人は山頂部(アカバンタと呼んだ)まで登ると、一休みして知念に下って行ったんでしょうね。
今では樹木に覆われてはっきりしませんが、「掃除すると通れるはず」とのことなので、古道が復活すると面白いでしょうね。って、言うのは簡単ですが。


集落内で見つけた家の柵(?)。再利用で、ビール缶も浮かばれるのではないでしょうか。
こういった、暮らしの中から生み出されるアイデアやジンブン(知恵)、自由な手づくり感が、沖縄らしいところでは。何でもアリだし、何をしても許されるっていう解放感がありますね。
う〜ん、ビール缶恐るべし。
(三嶋)

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久しぶりの名護

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名護琉米文化会館に勤めていた大山さんと一緒に、名護に行ってきました。久しぶりの名護です。
大山さんは現在名護市役所となっている場所にあった、名護琉米文化会館のスタッフとして、1951年から1953年まで働いていた方です。
その後、那覇の琉米文化会館に移動されたのですが、大山さんが働いていた当時のようすを、しかも現場で聞くことができたのは貴重です。当時の関係者は、大山さんによればほとんどいらっしゃらないそうなので、なおさらではないでしょうか。
また、当時、文化会館に植えられたというデイゴも1本確認でき、周辺の町のようすも歩きながら聞くことが出来ました。


味がある大南区のビル。消えかけた文字が壁に残っています。


現在の合同庁舎はもとの名護高校。その道向いに写真のスージグヮーがあり、この細い路地を高校生たちが行き交ったとか。同行した一夫先生によれば、「あまり変わってないなあ」とのこと。


セメント瓦を乗せた木造家屋が、周辺にはまばらに残っています。セメント瓦が多いのは、名護が発祥の地で、工場も多かったからでしょう。
かつてはこの辺から、北西方向に嘉津宇岳の山並みが見えたそうですが、現在は建物の影に隠れてほとんど見えなくなっています。
(三嶋)

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大山ターンム(田芋)畑の散策と意見交換会

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宜野湾市大山で「ターンムfanクラブ」が主催する散策会と、意見交換会に参加しました。
昨年もこの時期に散策会が開かれ、おいしいムジ汁などを食べたので、今年もか?とちょっぴり期待しましたが、今回はサプライズなしで(そりゃそうだね)、真面目な話に終始しました。


少し肌寒い天気でしたが、歩けば汗ばむほどでイイ気持ちでした。


“クンジャン(国頭)アブシ(畦道)”とよばれる里道には、水路にかかる石橋(大きめの石を置いただけですが)が、今も残されています。

外野席にいるこちらとしては、何をどうすればいいのかよく分かりませんが、砂川さんが言ったように、大山のターンム畑は宜野湾の「宝」という以上に、沖縄の「宝」ではないかと思います。
年を追うごとに、栽培面積が小さくなっていくようですが、歴史や人の知恵、思いが詰まった畑を消滅させるのは寂しい話ですよ。でも、そのためには、情緒的な論ではなく、具体的で戦略的な実践こそ必要でしょうねえ。
そして、行政批判だけではなく、市民・県民としてどう地域の課題にコミットしていくか、が問われるでしょう(それは地域共通の問題ですね)。行政を当てにしない覚悟があるのかとか、自立とは何かとか、自問自答する毎日です。
(三嶋)

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