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謝苅を歩きました

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『しまたてぃ』連載「戦後の沖縄を歩く」で、2回目の謝苅取材を行いました。
前回は晴天の暑い日で、10名が同行しましたが、今回は曇り時々雨という生憎の天気。
教育長の玉那覇さん、前町長の辺土名さんといった、偉い方々に案内してもらうということで、ビビリながらでしたが、何とか一巡りして終了。ホッとしました。

謝苅(ジャーガル)は、「ジャー」が「蛇」を連想させるのか、耳に残る独特の響きが気になりますよね(ボク一人かな?)。
しかし、こちらの勝手な思い込みとは関係なく、調べてみると、この地が沖縄の置かれたいびつな戦後史を映し出す、鏡のような場所のひとつだということが分かってきました。

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中央左の三角屋根が元の謝苅琉映、その右上の段々になった屋根がナポリ座跡。
頭の上を車が走るような狭隘な土地ながら、肩を寄せ合うように戦後を生き抜いてきた人たちの絆は強く、コミュニティは健在なようです。

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県道24号線が走る謝苅三差路。
シャッターを閉める店が多いなか、今も幸地書店が頑張って営業を続けています。中央の道に入るとすぐ左に旧ナポリ座が見えます。

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謝苅三差路の東南部に広がる住宅街。左の建物がユーフル屋(謝苅湯)跡。
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集落の南を流れる白比川の近く。この場所に、北谷町唯一の泡盛工場、「北谷長老」がかつてあったようです。近くにはダンスホールや料亭もあって、にぎやかな一角だったと聞きましたが、今ではウソのような静けさが広がっていました。

戦後、米軍基地に土地を奪われた北谷町の住民は、ほとんどが傾斜地の、小さな山間のこの土地に居住するしか術がなく、1万人を超える人々であふれたといいます。
現在は、若者や観光客でにぎわう西海岸と、沖縄市を結ぶ道(県道24号線)沿いにある通過点、といった認識しかないかもしれませんが、最近まで町役場もあった謝苅は、戦後の北谷町の政治・経済を支えてきた中心地でした。

道沿いにあった商店や飲み屋が減少し、多くの人でにぎわった通りに人影はまばらとなりましたが、混乱と困窮の戦後を生き抜いてきた、バイタリティーあふれる人々のDNAは今も息づいているはず。先人の労苦やジンブンを推進力に、明日を切り開いて欲しいと願いました。
<三嶋>

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太平橋(平良橋)の見学会

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首里平良にある太平橋(平良橋)で、発掘調査の現場説明会があるというので出かけてきました。現在の太平橋は、一昨年このコーナーで紹介し、もうすぐ無くなるよと書いたのですが、まだ残っていました(ははは)。
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2013年6月の太平橋(平良橋)。
もとの太平橋は、この橋のすぐ向こう(下流)にあったもので、川の両側に残る当時の痕跡を、今回は見学したということになります。

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石畳道の一部が残る橋の西側部分。大勢の歴史マニア(?)が詰めかけました。
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車が見える向こうの橋が現在の太平橋。すぐ手前(結構深い)が昔の橋の跡。
井戸
川の東側から出土したミーガー(新井)。
写真のずっと左側が、昔の橋のたもとになっていて、その場所で大量の赤瓦や焦げ跡が見つかったことから、ここには赤瓦の屋敷があって沖縄戦で焼けたのだろう、ということでした。
また、屋敷の西側にあったのが、共同井戸だったという写真のミーガーで、屋敷の住民も写真の手前から降りて利用していたと考えられるようです。

いやあ、70年の時を超えて現れた、生々しい生活痕が放つ存在感は相当なものがありますね。本物ですから。どんな人が、どんな思いで暮らしていたのか…。関係者がまだいらっしゃるかもしれませんし、想像がふくらみますね。
また、分かりやすい解説とともに担当者の熱意も伝わって、充実したひと時を過ごせました。素直に感謝したいですね。
<三嶋>

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ニクブクはムシロでムシロはゴザ?

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今月末に予定しているワークショップに向けて、城間光雄さんのギャラリー・木創舎(知念)でニクブクの勉強会を開催しました。
講師は那覇市繁多川公民館でも教えている与儀善邦さん。
材料は本来ならワラ(藁)やイグサ(藺草)なのですが、城間さんの提案で、サンニン(月桃)の茎を裂いた繊維を使ってやってみることにしました。継続的にやるなら、入手しやすい材料がいいし、サンニンの香りも効果的ではないでしょうか。

沖縄の敷物では、ニクブクのほかにムシロ(莚)があります。子供時分の記憶では、宮崎では前者をムシロ、後者をゴザと呼んでいたので、話が混乱していたんですが、調べてみるとどうやら呼称が違うようですね。

ニクブク(宮崎ではムシロ)は、庭先で脱穀などをする時に敷いたりしたもの。以前は普通に自作したそうですが、1960年代中ごろから需要が減って、急速に姿を消していったと思われます。そのころ田んぼがサトウキビに替わって、ワラの入手が困難になったことも一因でしょうか。

しかし、子供の時には自分も作っていた、とか見ていたという人は以外に多いため、今のうちに聞き取りを行ったり、できれば技術も伝えられるようにしたいとの希望も込めて、今回の講習会となったのでした。

実際にやってみると、思いと現実のギャップに打ちひしがれたのですが、なるほど難しいというのが分かっただけでも収穫でしょう(と負け惜しみ)。いつかリベンジを果たしたいものです。
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小さな練習用キットを作り、編み方を説明する与儀さん。サンニンの繊維を小さな束にして、ねじりながら縦糸を前後ではさむように織っていきます。
見ていると簡単そうなのですが、やってみるとこれが難しいんです。
昔は三畳敷き(約180cm×約270cm)が普通だったようですが、気が遠くなる大きさです。

ムシロ織り
戦後の暮らしが分かる写真の一枚(写真提供:NPO法人 琉米歴史研究会)。
女性が編んでいるのは、ムシロ(宮崎ではゴザ)でしょうか。家の柱と柱のあいだに横木を取り付け、大きな機のようにして編むことが多かったようです。

原料にはイグサなどの植物が使われ、夏の夜などにはその肌触りが寝苦しさを軽減させてくれたものですが、防犯上からも窓を閉めてクーラーを使うことが当たり前になると、影が薄くなった感は否めません。

うるま市照間などは今でもビーグ(イグサ)の産地として知られますが、かつては沖縄中でつくられ、特産品として本土に出荷されていたこともあるだけに、消滅させてしまうのは惜しいように思います。
新聞
1965年9月10日付の沖縄タイムス「おらが村の特産盛衰記(1)」では、上記写真とともに、糸満町(現糸満市)兼城では、イグサがキビにつぐ換金作物と紹介しています。
しかし、このころから生産に陰りがみられるようになり、その後、同地からムシロつくりは消滅しました。
<三嶋>

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なつかしのスキヤキ

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常連となりつつある知念の「いろは食堂」。
ふと、スキヤキがあるのに気づき、学生時代を思い出して思わず注文しました。

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甘目の醤油味の野菜炒めに、タマゴを乗せたスタイルは、かつて食べた首里の食堂とほぼ同じ。
でもスヌイ(モズク)、スープ、ご飯が付いて500円だから、学生時代より割安な感じですね。
当時は贅沢メニューのひとつだったので、あまり口にできませんでしたが、これならいつでも食べられるなあと嬉しくなったのですが、気がつけば、今度は胃袋が若いころのようには食べられないと言っています。
<三嶋>

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【ご案内】「藁算」ワークショップの開催のご案内

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下記の通り、「藁(わら)算」ワークショップの開催のご案内を致します。
参加・告知方、よろしくお願い致します。

■開催日時: 2015年11月14日(土)13:30~15:00
■場 所:浦添大公園内「南エントランス多目的室」
■参加対象:大人 ■参加定員:30名 (※定員に達し次第閉めきります)
■参加料 :1000円(資料、保険料込み)
■講 師:島袋美由紀(藁算研究会)・後藤健志(藁算研究会)

内容
浦添大公園「南エントランス管理事務所」付近はかつて豊かな田畑が広がっていました。
田んぼでは稲が栽培され、前田ではその稲藁を編んで大きな綱を作り、大綱引きが行われていました。また、稲藁は、日々の生活に必要な様々な道具を作る素材としても利用されてきました。琉球王国時代から明治の初めごろまでは、庶民の間では文字を使える人は少なく、米の収量や物の貸し借りを記録するのに藁で作った「藁算」という沖縄独特の民具が使われていました。今でも沖縄に残る藁算について、講話とワークショップを楽しみます。

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