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今帰仁村の中心はどこでしょう?

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今帰仁村といえば今帰仁グスク、古宇利島、仲原馬場などが浮かぶと思いますが、その中心は村役場がある仲宗根、なかでもAコープや大井川橋ふきんになります。
知ってました?
知らなかった人も、知ってた人も『しまたてぃ』No.74の、好評(ほんとか)連載中「沖縄の戦後を歩く」シリーズを読めば、いろんなことが分かりますよ〜と宣伝です。
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今回取り上げた大井川橋周辺は、再開発事業が進行中の場所。
昭和の街がどんな風に変わるのか興味津々ですが、地域の歴史や人々の思い出は大事にして欲しいもの。
ツルンと小奇麗なだけの街にはして欲しくないんですが、そうなるんだろうなあ、おそらく。
<三嶋>

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今泊の散策会

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名護博物館友の会(今年は会費を払ったのでボクも会員)の行事に参加し、今帰仁村今泊を歩いてきました。
今回は、今帰仁グスクを学ぶ会の大城さんの案内で、同地の歴史を知ることができ、勉強になりました。
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志慶間川沿いの道。右側にはかつて、田んぼが広がっていたそうです。
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美しいフクギ並木や石積みが残る今泊の集落内。清潔で整然とした落着きを感じるのは、今帰仁グスクと歴史をともにしてきた故でしょうか。
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以前から気に入っている今帰仁グスク交流センターのトイレ。
外の木々を目の前にした半屋外の空間には、感動すら覚えます。
沖縄でもっとも好きなトイレかもしれません。
女子の方がどうなっているか気になりますが、そこまではねえ。
<三嶋>

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スクガーで植物観察会

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スクガー(南城市知念)集落跡で、植物調査を実施しました。
参加者は「キバナノヒメユリを守る会」のメンバーに、いつもの顔ぶれ。先生は樹木医の屋比久勉さん。スクガーに最後まで住んでいたという照喜名さんも一緒です。

目的は、来月に予定されるスクガーマーイに合わせたマップ作成のため、その調査・下見というところ。
植物名を書いたプレートを取り付けようとの声も上がっていたため、情報収集でもあったのですが、こちらの思惑はあっさり撃沈。
山に入るとみんなバラバラに動き、勝手に喋り、人の話を聞かないんですよ。
ひっきりなしに思い出話も飛び出ると(しかも面白い)、ついついこちらも引き込まれ、聞いているうちに記録をとる気も失せてしまったのです。

また、植物名もなかなか覚えられず、覚えた名前もすぐ忘れるし。あっちで見た木と、こっちの木が同じか違うか分からなくなりテンヤワンヤ。
方言名は入り乱れ、食い違い記憶違いで情報は錯綜するし、もう喧々諤々がエンドレス。とほほな体験学習だったのですが、みんなが楽しそうだったのでまあいいか。
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いろんな樹木の話が飛び出すものの、実物と名前を一緒に覚えるのが難しい。
記憶力の衰えに愕然とします。
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子供のころは、根っ子の丸い玉のような部分をかじって水の代わりにしたと年輩者の話。
地域には、地域ならではの自然との付き合い方があったはずです。が、そこにあったはずのジンブン(知恵)は、ほとんどが過去形になったのではないでしょうか。
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スクガーの植物相などの解説を、屋比久さんから教えてもらって勉強会はお開き。

学術的な話ではなく、暮らしに根ざしていた植物や自然環境の話が興味深く、面白く感じますね。身の回りにある素材を上手に取り込みながら、自然と共生してきたのが日本の生活文化といえるでしょうし、その土地と環境に合わせた暮らしや文化が、かつては各地に根付いていたはずです。
今日の私たちの社会では、自然と暮らしが分離してしまいましたが、かつての暮らしをノスタルジーで語るのではなく、防災や環境保護に活用していくような、新しい視点や実践が今こそ必要な時期ではないかと感じます。
<三嶋>

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健堅に流れ着いた遺体

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本部町健堅に住む中村英雄さんのお宅で、聞き取り&ユンタクしてきました。
中村さんはさまざまな体験をされていて、興味をそそられる話が目白押しなんですが、今回は戦時中、近くの浜に流れ着いた日本兵の遺体について、現場を案内してもらいながら、お話を聞かせてもらいました。

それは1945(昭和20)年2月のことで、近くの渡久地港の入口付近で沈んだ輸送船「金剛丸」に乗っていた、陸軍の軍属らしいと中村さんは語っています。
遺体は駐屯していた宇土部隊の兵士が焼いて葬ったのですが、当時中学生だった中村さんも手伝わされたので、今でも覚えているようです。

しかし、戦後、中村さんが本土から戻ってみると、立てられていた墓標は米軍によって引き抜かれ、遺骨を埋めた場所は埋め立てられていました。
以来、遺骨のことは気になったものの、日々の生活に追われるうちに年月が経ってしまったとのこと。しかし、当時のことを知る人がいなくなった現在、自分が伝えなければ、あの兵隊たちは忘れられてしまうと危惧しています。
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『LIFE』1945年5月28日号に掲載された現場写真(資料提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
14名の墓標があり、陸軍軍属誰々と氏名も鮮明に見えます。向いは瀬底島。

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上記写真の場所を、海側から見た写真。
遺骨を葬った場所は土砂に埋もれ、樹木が覆っているため近づくことが出来ません。
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遺体が流れ着いたころは白い砂浜だった場所。
金剛丸に乗っていた方が戦後一人訪ねてきたそうですが、すっかり変わった景観に驚いていたといいます。

若い時分にはウミンチュ(漁師)だった中村さんによれば、この辺の海にはジュゴンも普通にいたそうですが、海洋博の工事が始まって姿が消えたということです。
戦争や開発によって汚れ、壊されてきた海を目の前に、日々を過ごす中村さんの胸中を思わずにはいられません。
<三嶋>

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よみがえるアカバンタ

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南城市佐敷の手登根(てどこん)にある、アカバンタに初めて行ってきました。
この場所は、長いあいだ草木に覆われて踏み込めない状態だったのですが、昔のような絶景ポイントとして復活させようと地域の有志が集まって整備したもの。
9月26日の夜には、「アカバンタ毛遊び復活祭」を開催する予定でしたが、台風の影響で直前に急きょ使えなくなり、一同ガックリ。公民館に場所を移して祭は行われたものの、関係者はショックを引きずっているようでした。
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アカバンタからの眺望。目の前に中城湾。西原・中城が近くに見えます。
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9月26日、手登根公民館に場所を変えて行われた「アカバンタ毛遊び復活祭」。
月見を兼ねた祭が実現できずみなさん悔しがっていましたが、祭にかける区民の団結力と熱気には驚かされますね。

琉球王国時代、首里王府では最高位の神女である聞得大君が新たに決まると、首里から知念の斎場御嶽までおもむき、任命式を執り行っていましたが、その途中にあって多くの神女たちが往来した場所がアカバンタでした。
アカバンタは知念と佐敷をむすぶ古道の一部であり、歴史の舞台となった道でもある分けです。

また、戦後になっても、知念から佐敷・与那原に抜ける近道だったという話も、複数の方から聞きました。
知念に住む70代の方は、毎日この道を通って手登根に下り、知念高校(与那原)までバスで通ったと語っています。
直線距離では約3kmぐらいですが、山を一つ越える通学は容易ではなかったはずですが、海岸沿いに知念半島を回るより時間と運賃を節約できた分けですから、そちらを優先させたということですね。
しかし、帰りは通らなかったというので分けを聞くと、ハブのせいだそうです。
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すぐそばにある風力発電施設がアカバンタの目印。
<三嶋>

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