南城市佐敷で「冨祖崎あるき」
2024年5月1日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
原則、毎月第2土曜日に行っている「定例あるき」について、お知らせします。
今回は5月11日(土曜)、南城市佐敷の冨祖崎(ふそざき)です。
日時:5月11日(土曜)。午前9時30分〜11時分
集合場所:南城市佐敷冨祖崎の運動公園駐車場(公民館の駐車場が狭いため)
※国道331号を佐敷から来る場合、シュガーホールに曲がる信号の一つ先の信号(バス停「佐敷」の手前)を左折して、真っ直ぐ北に進むと公民館があります。そこを過ぎてさらに進むと、陸上競技場や公園の駐車場となります。
冨祖崎は海に面した小さな集落ですが、それだけに住民の結束が固く、地域活動も活発に行われているようです。
当日は、首里の屋取だったという歴史や、海との関わり、集落の変せん、天然記念物ハマジンチョウなどの話などが中心になると思いますが、ボクのように「難しい話はパスしたい」という人は、ユンタクだけでも構いませんので、みなさんで楽しみましょう!
当日は雨も心配ですが、大雨でなければとりあえず実施しますョ(迷う場合は電話ください)
以上よろしくお願いします。

宇加地を歩きました
2024年4月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
一年ぶりに行う、恩納村の地域あるき。今年は村で一番西に位置し、読谷村と境を接する字、宇加地(うかじ)である。
東に行くと塩屋、真栄田と続くが、もともと真栄田だったものが、1949(昭和24)年に塩屋とともに別れ、現在の姿になった。そのなかには与久田(よくた)、美留(びる)という集落もあり、前者は宇加地、後者は塩屋にぞくしている。

また、宇加地は恩納村の中でも一番面積が小さく、一番人口も少ない地域だが、それだけに顔の見える付き合いが日常的な、結束の固い地域といえるだろう。
当日も、想定以上に多くの住民の参加があり、楽しいユンタクをしながら歩くことができたが、声を掛ければみんなが集まる、まとまりの良さに感謝である。
地元の方と直接触れ合う機会は少ないだけに、他所から訪れた者には嬉しいひと時であるし、地域の方にも刺激になったのではないだろうか。


ナーグシクの中腹にはコージガマがあり、沖縄戦の時には100人ほどの住民が避難した。そして全員助かったことから、今でもこのガマは大切にされ、子供たちの平和学習などにも利用されている。

国吉家は、牛や馬などを売買するバクロー(馬喰)で財を成し、ヤンバルいちえんで知られたエーキンチュ(財産家)。今は広い跡地に草が生い茂っているが、近くの石切場から運んだ石で造られたワーフールや、カーがわずかに残り、当時の栄華をしのばせる。
また、1960年代に41連勝し、沖縄の闘牛史に名を残す名牛「ゆかり号」を育てた家でもある。県道を渡った先にある砂浜は、かつて闘牛が開かれた場所で、多くの人が見物に訪れていたという。

干潮時にしか現れない石切場は、かつて「鳩の家」を意味するホートゥヌヤーと呼ばれていた(そんなにハトが多かったんですかね)。
写真では、石切場の向こうに残波岬の一部が少し見えるが、その先端部(右端)にはかつて米軍のミサイル基地があり、発射実験の際には住民もこの場所から見ていたそうだ(危ないな~)。

ソーシのテラは、与久田の海近くにある聖地。海から流れ着いたという二つの石が守り神として祀られている。
子どもの健康や旅の安全を守る神といわれるが、「何にでも効果がある」との区長の説明には、参加者は怪訝な顔。だが、周辺地域や村外からも拝みに来るそうなので、あながち笑ってもいられないだろう。
今回の「宇加地あるき」は、地域住民の参加も多く、本当に楽しく、無事に終えることができた。ユーモアたっぷりの徳村区長にも楽しませてもらい、感謝である。宇加地のみなさん、ありがとうございました!

<三嶋>

3月30日(土)、恩納村宇加地を歩きます
2024年3月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
3月30日(土曜日)に、恩納村宇加地(うかじ)で「宇加地あるき」を開催です。
宇加地は、読谷村長浜の東隣に位置する小さな地域です。馴染みがない人もいるかもしれませんが、足を踏み入れると、あ〜ら不思議、面白い!となること間違いなし。
区長さんにガイドをお願いしているので、地元で知り得ないネタも教えてもらえますよ。地元の方も多少参加参加されるでしょうから、みなさんでユンタクしながら楽しんでください。
天気もたぶんいいでしょうから(それはそれで水不足が心配ですが)、みなさんたまには恩納村まで遠出してみませんか?
日 時:3月30日(土曜) 午前9時30分集合、10時出発
集合場所:宇加地公民館(道路に案内板があるので分かりやすいです)
*詳細はチラシをご覧ください
*小雨決行です


具志頭あるき
2023年10月31日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
朝晩はいくぶん涼しくなり、歩くにはいい季節と思うこの頃。どこへ行こうかと悩んでいたが、あまり馴染みのない所を勉強しようと思い、八重瀬町の具志頭を選択。間違いやすいが、旧具志頭村の中心地である字具志頭である。

ハナンダー(自然橋)や屋冨祖ガーなどを訪ねたあと、具志頭城址公園に行く。
摩文仁の平和祈念公園にくらべると、訪ねる人は少ないが、住民が建立した魄水之塔のほか、甲斐之塔、土佐之塔という慰霊碑が建ち、周辺には住民が避難したガマも多数残っているようだ。
沖縄戦における具志頭の経過は、いくつかの書籍などをみると、以下のようになるようだ。
地域の人々は、1945(昭和20)年3月23日の空襲、24日の艦砲を受け、ようやく北部への避難が増加。具志頭村民の一部、約300人は金武村に集団移動する。
地上戦が激しくなるのは6月5日。与那原・大里方面から南下した米軍が、具志頭付近に侵入。布陣する日本軍の独立混成第44旅団と、激しい戦闘が繰り返された。
6月11日には、字具志頭・安里付近が米軍の猛攻を受け、玻名城東方の91高地を米軍が占領。抵抗する独立混成第15連隊第1大隊の大隊長以下20余名が、斬り込みを敢行するが、そのほとんどは戦死したという。
そして、米軍は6月14日、八重瀬岳(米軍呼称ビッグアップル)頂上部を確保。17日には与座岳~八重瀬岳傾斜地における高地全部を支配した。


口を開けているガマは、人家の真下に伸びている。日常の中に、普通の姿で今も戦争が残っているのである。
以前調査したというSさんの案内で、恐る恐る足を踏み入れた。石灰岩から落ちる水でぬかるんでいる所もあり、足場も不安定なため転びそうになる。割れた茶碗などが見える。戦時中は役所が書類なども運び込んだようだ。
20メートル程行き、道が左右に別れている地点で引き返したが、Sさんによれば、左にまだ続いているとのこと。
短時間のガマ体験だったが、ジメジメとした暗闇の中での生活は、想像を絶する。頭の理解と肌感覚の相違に、今更ながらあきれ絶句した。

<三嶋>

津嘉山あるき
2023年9月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今回お邪魔したのは南風原町津嘉山。だが、地元の知り合いもいないため、いくばくかの文献資料や観光パンフなどが頼り。
津嘉山は、沖縄戦では第32軍の司令部壕があり、多くの避難民が命を落とした山川橋(宇平橋)もあるため、以前から気になっていた。しかし、壕は(予想通り)何の痕跡もなく、山川橋までは距離があって歩くのは酷かと断念。

津嘉山は、津嘉山ムラに仲間(名嘉真)ムラが合併されたのち、1700年代に玉那覇ムラが合併した地域のようである。
戦後は、集落の西側を走る通り(国道507号)沿いに発展。那覇市に隣接するベッドタウンとなり、現在の人口は町内最大で、唯一1万人を超えている。
また、近年は集落東側に津嘉山バイパスが開通したため、地域北西部の開発がいっそう活発で、都市化が急速に進展している。
沖縄戦当時、首里城地下に第32軍司令部があり、摩文仁に撤退するまで使用されたことはよく知られているが、首里城に構築される前、津嘉山に司令部壕が造られていたことは、あまり知られていないようだ。

津嘉山の第32軍司令部壕は、津嘉山北東部の高津嘉山とチカシ毛と呼ばれる小高い丘に、1944(昭和19)年夏頃か建設が始まった。
完成時には高さ・幅2メートルで総延長1.5~2km。手掘り壕の中では県下最大の規模だったが、十・十空襲を受けて強度に不安が生じたことや、眺望の良さから首里城地下が司令部として選択され、津嘉山は軍事物資や資金管理部が置かれるだけとなった。
しかし5月27日には、首里城地下から撤退した第32軍の牛島満司令官をはじめとする首脳部が立ち寄り、5月30日に終焉の地・摩文仁に向かうまで、この壕に宿泊している(1泊の説もあり)。


沖縄では、いっそう進む都市化(ヤマト化)の陰で、かつての暮らしや戦争の痕跡が、見えづらくなっている地域が増えているように思う。しかし、あれだけの戦禍を負い、体験者もまだ残っている沖縄であればなおさら、地域の歴史を正しく伝えることが不可欠だろう。
津嘉山指令部壕の跡地は現在、表に何も残されていないが、当時の遺構や遺骨が、地下には今も眠っていることを忘れてはならない。首里城地下の司令部壕にくらべ、あまりにも存在が薄いこの地に、光が当てられることを願う。

<三嶋>
