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「冨祖崎あるき」報告

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 南城市佐敷にある冨祖崎(ふそざき)で、定例のあるきを実施した。

 字誌の編集委員長を務めた楚南さんに、ガイドを引き受けていただいたので詳細な解説も聞け、たいへん充実したひとときだった。

天然記念物のハマジンチョウ群生地で

 冨祖崎は首里からのヤードゥイ(屋取)で、村立ては1740年という。平地に囲まれた地形の西側には海が広がり、水も豊富であるため1965(昭和40)年ごろまでは半農半漁のムラであった。

 小さな集落だが、それだけに住民は結束し、進取の気性とあいまって、さまざまな活動も積極的に展開されてきた。地域外からの居住者も増えているとのことで、一緒に歩かれた屋良区長の声も明るかった。

1960年代と思われる佐敷の風景。中城湾を挟んで馬天港と冨祖崎(画面右)が見える。
写真:沖縄県公文書館
前掲の写真の冨祖崎部分をアップするとこんな感じ。集合場所だった冨祖崎公園の駐車場や陸上競技場が、当時は樹木林(モクマオウだろうか?)だったことが分かる。
写真:沖縄県公文書館
1951年に米軍が編集した地図。現在の公園や陸上競技場も、当時まで砂地(SANDの表記)であったことが分かる。
沖縄県公文書館所蔵

 現在、冨祖崎公園となっている場所は砂地が広がる海岸で、戦前から塩づくりが行われていた。

 戦後になると、住宅再建(みんな焼けていた)で使うカヤ(茅)、と物々交換するために塩が作られたという。山がないため茅葺き屋根の材料がなかったからである。

 しかし、集落の家屋の屋根が葺き終わり、若者が仕事を求めて軍作業などに出るようになると、製塩を担う者がいなくなって廃れたようだ。

 また、海岸ではスンチャー(地引網漁)が盛んで、明治末期から戦前にかけて盛んに行われていたようだ。太刀魚などのほかに、5月にはタジク(キビナゴ)なども大量に獲れたという。しかし、戦後になると人手不足などで漁は途絶え、現在は海人もいない状況である。

奇跡的(?)に残っていたハマジンチョウの花。冬場の花だけに、諦めていたが、まさか咲いているとは・・・。
解説してもらった楚南さんによると、戦後、中学校の先生が発見し、多和田真淳氏に問い合わせして世に知られるようになったとか。近年はマングローブ林の勢力に押され、生息域が狭まりつつあると懸念されている。 撮影(佐藤)
本土では考えられないだろうが、もうヒマワリが満開。いい天気に恵まれて、気持ちのいい地域あるきとなりました。撮影(佐藤)

 小じんまりとした集落には、オシャレなアパートなども散見されたが、地域外から移住する人たちが住んでいるとか。不動産業者の営業もあって、環境のいいい冨祖崎周辺に住まいを構える人も増えているようだ。

 新しい道路も建設が進み、山の上に大型スーパーなどが開店すれば、環境と利便性を兼ね備えた新たな地域として、ますます注目されるのではないだろうか。

<三嶋>

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