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大山ターンムを味わう

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 「大山田芋ファンクラブ」の仲村さん夫妻に誘われて、2回目のターンム畑散策を行いました。 
 参加者が集まるか気になっていましたが、結果的には50人ほども集まっていただいたので一安心。前回の南側半分に続いて、今回は残りの北側を散策しました。
 また、前回、「実際にターンムを食べたい!」と無茶振りしていたところ、見事に応えていただき感謝。蒸かしたばかりの熱々のターンムを頬張り、ムジ(田芋のクキ)汁に舌鼓を打ってみんな大満足でした。
 案内は前回同様、宜野湾市文化課の呉屋義勝さんと生産者の伊佐實雄さん。
 地元ならでは、生産者ならではの、とっておきの話を披露していただき、面白可笑しく体験することができました。
 感謝です。

生産者の方にも声をかけてもらい、話をすることもできました。


ホテルやら商業施設やらがすぐ近くに迫っていても、一歩足を踏み込むと、自然いっぱいの別世界。


熱々のムジ汁が体に染みました。伊佐さん手づくりのターンムを提供していただいたとか。

 年々、小さくなっている田芋畑ですが、実際に畑を歩き、生産者の話を聞くと、いろいろ分かってきました。長い年月をかけて畑に注がれた知恵や工夫、愛情といったものは、単純に経済性だけでははかれないほど重く、尊いものだと思います。
 また、地域の自然と、人々がいかに折り合いをつけて暮らしてきたのかを学ぶことは、これからの環境を考える上でも重要でしょう。
 まだまだ奥が深い大山の田芋畑。これからも、いろんなことを学び、楽しみたいと思いますが、そのためにも、何とか残して欲しいものです。
(三嶋)

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「大山ターンムfanクラブ」の散策に参加しました

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 ひょんなきっかけで、「大山田芋(ターンム)fanクラブ」という、宜野湾市大山のターンムをこよなく愛する人たちと一緒に、現地を散策してきました。この場所はバードウォッチングに凝っていた10年ほど前、しばしば訪れた所ですが、周囲に建物が多くなったこともあって何となく足が遠のいていました。
 しかし、今回はfanクラブの仲村さんの呼びかけで、宜野湾市文化課の呉屋課長と生産者の伊佐さんという強力なガイド付きでしたので、楽しみながら学ぶ散策ができたと思います。
 お二人から聞く地元に伝えられている話や当事者ならではの体験談は、面白いだけでなく、地域への愛情があふれていて気持ちが和むものでした。当事者の話を現場で聞くことの醍醐味と重要性をあらためて感じますね。


 かつては海岸線だった場所。写真右側部分が1974(昭和49)年から埋め立てられた部分。両者の間は現在、コンクリートで三面が固められた溝(川)となっています。川沿いに続く護岸は、現在のような立派な道ではないものの戦前からあったようです。


 護岸に残る戦前の石積みと、戦後になって積まれたコンクリート・ブロックの境が分かる部分。


 ブルーのシートの向こう、木が生い茂っている付近にあるヒージャーガーから流れる水を利用して、階段状に開かれたターンムの畑(水田)。
 水のない溝(水路)が近くで確認できましたが、それは大雨の際、上部にある土を低い土地に運ぶための工夫だったとのこと。代々にわたって土を守り、土地(水田)を守ってきた人々の知恵と努力の跡ということです。
 何気なく見ていた畑ですが、上部から下流に流れる水を巧みに利用しながら、棚田として長年にわたって整備されてきたことに驚かされました。

 周辺の宅地化にともなって耕作地は年ごとに狭まっているようですが、畦道沿いの水路は清らかで、カニやメダカ(?)、昆虫や野鳥などもチラホラ。今でもまだこれだけの環境が残されているのは、ある意味「豊か」なのかも知れませんが、見渡せばすでに引き返せないラインを越えているのではないかと素人的には思えます。
 だからといって自然を残せ、農業を守れと無責任に言うこともできませんが、こういった問題を、これまでのように経済性優先の価値観で捉えていては、やがて究極の選択を迫られないとも限らないでしょう。
 そうならないためにも、生産者だけでなく、この地が置かれている状況を地域の問題として捉え、経済とは別のカテゴリーの中に新たな価値を見出すオルタナティブな実践が必要ではないかと考えます(言うのは簡単ですけどね)。

 fanクラブの仲村さんから当日いただいた地図に、情報を付け加えた改良地図を作りましたので、参考にしていただければ幸いです。
※地図は厳密なものではありません(修正点をご指摘いただければ助かります)


PDFを表示

(三嶋)

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普天間報告会ユンタク会ビデオ

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キャンプ端慶覧とデイゴ通り

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 普天間デイゴ通り(県道81号線)から、キャンプ端慶覧内の外人住宅街をスーミしてきました。2001年に撮影した当時と違い、返還に向けて、今はゴーストタウンになっているようです。
 基地内には戦前まで、新城、安仁屋、喜友名といったムラがありましたが、戦後米軍に接収されたため、住民は金網の外から、変わり果てた集落跡を眺めたといいます。
 ところで、このデイゴ通りには現在デイゴはほとんどありませんが、かつては400本もの並木が続いていました(ボクは見てないけど)。
 それは、普天間から焼失した松並木の再生を願い、ジロー・ベーカリーの店主・照屋さんがみんなに呼びかけて植樹したもので、松のかわりに県花の候補だったデイゴが使われたと「沖縄タイムス」1965.5.14にあります。
 デイゴの花が咲き乱れると、夏の到来を実感したものですが、害虫の被害が深刻なためか、最近はあまり見かけなくなりましたね。
(三嶋)

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普天間一区の取材

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 「しまたてぃ」の追加取材で、普天間一区に行ってきました。
 普天間三差路から沖縄市側の地域で、戦後一番早く米兵相手の繁華街が形成された場所です。
 町はその後、南に位置する本町通り沿いがにぎやかになり、やがて普天間大通りから西側の地域が開放され(1953年)、本格的な都市計画が進められました。
 一区はいわば普天間の戦後の出発点といえるのですが、現在その痕跡はほとんどありません。
 「ふてんま公園」という高台に登って北側を見ると、いつも日米の国旗がたなびいている、キャンプ端慶覧の在日米海兵隊司令部が屋根ごしに見え驚きました。
(三嶋)

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