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ヤンバルの「山野草観察&試食会」

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名護博物館友の会主催の「山野草観察&試食会」に参加し、春の新鮮な緑を、目と胃袋で味わってきました。
県営中城公園学芸員の比嘉正一さんと、名護博物館友の会理事で栄養士の、宮城都志子さんという専門家お二人も一緒なので、心強いこと。
この際なのでイロイロ聞こうと思ったのですが、何を訪ねていいのか分からないことに気づき、これほどまでに自然との距離が遠のいているのかとアキレた次第。

草花の名前や役立ち情報をそのあと教えてもらって大変面白かったのですが、草木の名前などをすぐ忘れてしまい、情けないことこの上なし。記憶力の衰えもさることながら、薄っぺらな知識はやはり身に付かないということでしょうか。

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教えられるまま、手近な草を食べたりしながら、源河川周辺を楽しく歩きました。

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面白い話を山ほどお持ちの比嘉正一さん(県営中城公園学芸員)。

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摘んできた草や葉を使い、旧源河小学校の教室で調理。

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真ん中のパスタはホウビカンジュとクワの葉入り。右下はシャケとツルナの混ぜご飯。
左手前はタラの葉とクワの葉の天ぷら。奥に見える緑はオオタニワタリの味噌炒め。
その他ツワブキのフキ味噌もあって、野草パーティーは盛り上りました。
<三嶋>

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嘉陽の褶曲観察会

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名護博物館友の会主催「嘉陽の褶曲(しゅうきょく)観察会」に参加してきました。
素人一人では、何だか危ない気配があったので、これまで行ったことがなかったのですが、友の会の皆さんも一緒ということなので安心した次第。

特に今回は、県立博物館・美術館の学芸員、仲里健さんにガイドしてもらい、素人にも分かりやすく解説してもらったので、いっそう楽しかったですね。
「いやあー、やはり専門家の解説があると分かりやすいなあ」という声がしきりでした。平易な言葉で、熱く語りかける氏の態度に、ボクも含めて皆さんも感動を覚えていました。
知識ではなく、モノの見方や世界の捉えかたを現場で体感する喜びは、バーチャルでは味わえないでしょう。そして、汗をかいた記憶が知識欲を起動させることも、間違いないと思います。

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名護市天仁屋の国道331号から50mほど入った道の脇にある褶曲。
ここでは、海底にたまった砂と泥が交互に縞をつくり、隆起した姿を安全に見ることができます。

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天仁屋川河口には、大小の石がゴロゴロ転がり、一般的な沖縄の海岸とはかなり異なっています(本土の海岸に近い感じ)。
この海岸沿いに南に歩きバン崎をめざします。

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ビーチロック。サンゴの死骸などが炭酸カルシウムとなって化学反応し、セメントのように固まったもの。「岩石ではない岩石」と言われるとか。

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次第に大きな褶曲が、はっきり分かるようになりました。
いく筋もの地層が折り重なり、一定方向に曲がるさまは迫力があります。
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過去の生物の痕跡が残った岩石。生物の化石ではなく、生物がはい回った跡で、「生痕化石」と言うらしい。このあたりには多いようです。

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あたりの岩壁は、みんなグニャグニャと曲がった黒い地層。
どんだけ大きな圧力よ! と、自然の力に呆れるしかないですね。

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バン崎に到着。崩れたバームクーヘンのように、巨大な地層があちこちで折れ曲がっています。
ここは天仁屋川の河口から1.3kmぐらいの地点。南西方向に直進すると、約10kmで辺野古にいたります。
琉球列島の成り立ちや地層の形成などが、数千万年という単位で語られる時、基地の問題や政治のいがみ合いはいかにも小さく見えてしまいます。東京で何でも決められると思っている人たちには、一度この場所に立ち、地球サイズで島の誕生や未来を考えることをおすすめします。
「国益?」「安保法案?」 小ちぇ、小ちぇ。
(三嶋)

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名護琉米文化会館のデイゴ

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大嶺昇さんと本部に行った帰り、名護市役所に立ち寄りました。
像設計集団が設計した現在の庁舎は、風土に根ざした設計思想とユニークなデザインで内外に知られていますが、そこに名護琉米文化会館があったことを知る人は、案外少ないようです。

同会館があった場所は、現市役所の東側あたり。
今は当時とまったく異なっていますが、北側の道路に面した門に、当時のデイゴが今でも残っています。

名護琉米文化会館は、1951(昭和26)年1月26日、名護文化情報会館としてオープンし、本土復帰の前年1971年6月に閉館。
監督官として来沖した日系2世、グレース・横内氏の精力的な働きもあり、名護・やんばる全域で、社会教育や生活改善などに大きな成果をあげました。

大嶺さんは、横内さんのサポートおよびスタッフとして、1951年春から53年10月ごろまで勤務したあと、那覇琉米文化会館に移動しています。

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写真中央が、名護琉米文化会館がオープンした当時に植えられたデイゴの木。
当時を物語る貴重な物証といえるでしょう。
デイゴの後に見える建物の位置に、かつて横内さんが住み込んだ家屋があり、その脇の小さな道を抜けると、目の前に名護湾が開けたそうです。名護湾が埋め立てられる前の話ですね。

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開館当時植えられ、今も残るデイゴと大嶺さん。

文化会館
北から見た名護琉米文化会館。
白く輝く未舗装の通りと、赤瓦のコントラストが美しかったと想像されます。
撮影は大嶺昇氏。1953(昭和28)年。
(三嶋)

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戦争体験者の講演

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名護市屋部出身で、民俗芸能などに造詣の深い宜保榮治郎さんが、沖縄戦当時の体験を語る集まりに参加してきました。

沖縄戦というと、終焉の地となった本島南部に話が集中しがちですが、やんばる(本島北部)でも戦闘があったことや、中南部から避難してきた人々が、命をつないだ場所がこの地であったことは、記憶に留めておくべきです。

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名護博物館で行われた講演会「軍国少年が見たやんばるの沖縄戦 イクサの記憶」

人口が集中する中南部で消費される、燃料や建材などの供給基地として、それまでもやんばるは重要な機能を果たしてきました。
また、戦後、本島の「水がめ」として多くのダムが造られ、都市部の暮らしを支えている構造は今も続いています。
広大な米軍演習場の存在もふくめて、中南部から見えづらいこの「南北格差」状況が、普天間移設にも伏流していることを自覚させられます。
(三嶋)

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高校生と一緒にやんばるの沖縄戦を学ぶ

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名護市教育委員会主催の、「高校生とともに考えるやんばるの沖縄戦」という催しに参加しました。
今年のテーマは、「旧久志村にあった避難民収容地区と今」。
住民の収容地区となった久志・辺野古・瀬嵩をまわり、現場を確認しながら体験者の話などを聞きました。

高校生を対象としたこのワークショップへの参加は初めてですが、今年で21年目と知って驚きました。また、朝8時半から5時までの長丁場にもかかわらず、多くの高校生の真剣な眼差しにも正直いって感心しました。

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辺野古地区で、戦中・戦後のようすを学ぶ。

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久志浄水場近くの伊江村民収容地跡。
伊江島では、激しい戦闘に参加して多くの住民が犠牲となっています。生き延びた伊江村民は、1945年6月、大浦崎収容所(現在のキャンプ・シュワブ)に強制収用され、同年9月に現在の久志浄水場近くの山中に再移動を命じられました。人々は、食料難やマラリアで多くの命が奪われるなか、1947年3月までこの地に留め置かれたそうです。

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大浦湾をはさんで辺野古と向かい合う瀬嵩海岸で、対岸に見えるキャンプ・シュワブの現状を学ぶ。

このところの、辺野古や安保法制案などをめぐる政治のありようは、目茶苦茶としか言いようがありませんが、そんな大人の不甲斐なさを尻目に、彼ら・彼女らはしっかりと70年前の出来事を学び、当時のようすや人々の姿を懸命に想像していました。

それにしても、若者を戦場に送るかもしれないような事態に、再び直面することを想像した人がいたでしょうか。戦後、人々の胸に去来したものは、決して戦争をしてはならないということだったはずです。そして、それはすべての国民が共有してきたものだったはずです。
わずか70年で、戦前への回帰を志向する人々が跋扈するようになるとは……何とわれわれは愚かで、歴史に学ぼうとする謙虚さに欠けているのかと、嘆かずにはいられません。
(三嶋)

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