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沖縄ある記

 

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名護ある記

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先月2月13日についで、復活地域ある記の第2弾、「名護ある記」を華々しく(?)実施しました。

ガイドは名護生まれの玉城一男さん。10年ぐらい前に帰郷して、ヤンバルに飽き足らずあちこち歩き回っているオジサンです。って失礼、ボクの大学の先輩だった(笑)。

名護は以前、仕事でよく来ていたし、このHPでも書いたことがあると思うが、歩くのは久しぶりでなんだか懐かしい。

あるきのコースは、漁港を出発して、そこから国道58号を横切って城に入り→名護市営住宅からみどり町を通り、→津嘉山酒造で説明を聞いたあと→十字路公民館そばを抜けて幸地川に出て、漁港に帰ってくるというもの。

名護はやはりヤンバルを代表する街のため、見どころは限りない。2~3時間ではやはりうわべだけの散策になったが、また来たくなったら第2弾、第3弾をやりましょう、と語り合った次第。

名護湾の美しさと、娘たちの情の深さを歌った「浦々の碑」のすぐそばには、城公民館。そのそばから北東に伸びる小道は、「会社通り」と呼ばれていたとか。
目の前に広がる名護湾にはかつて、那覇とむすぶ船が往来する港があり、周辺にはその倉庫や会社があったのだろう。その名残が「会社通り」なのだろう。
セメン瓦の民家もあるが、この瓦が台湾から名護に持ち込まれ、名護で生産されるようになったのは有名な話。
今も生産する工場が残っている。
会社通りから名護大通りに抜ける途中。ガイドの玉城さん(中央)も、この周辺で生まれたとか。かつては映画館が数軒あり、1957年にはそのうちの一つ、大丸映画館が焼失して大きな話題となっている。 しかし、現在、当時の繁華街の面影を残すものは見当たらない。
ヤギ肉の刺身や、ヤギ汁の自動販売機。600gで1500円とかが並んでいる。
ヒージャー好きにはたまらないでしょうね。
津嘉山酒造の屋敷内。昭和2年に建造された赤瓦の屋敷・工場で、今も昔ながらの泡盛「国華」がつくられているが、忙しい中、屋敷内を見せてもらい、解説を聞かせていただいた。少し前に国指定文化財に登録されて話題となったが、それだけの価値がある建物だと思う。
沖縄戦のころは米軍の司令部として使われたようで、その痕跡として柱に刻まれた「OFFICERS QUARTERS(将校宿舎)」の文字が残る。
沖縄県公文書館所蔵の、1945年当時の航空写真。中央下部に焼け残った津嘉山酒造が確認できる。周辺が焼き払われるなか、この建物が残ったのは、米軍が戦後処理の拠点とするためだったとか。抜け目のない米軍の思惑が、ここでは文化財の保護というイイ結果を産ん出したということだろう。

う~ん、名護はいろいろあり過ぎて、やっぱり見切れない感じ。

またやろうね、玉城さん。

<三嶋>

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糸満ある記

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コロナが少し弱まった感があるのでは、と勝手に解釈して、久しぶりの散策を行いました。

ヤーグマイ(家篭り)が続いて、結構キツかったため、お互い気をつけることを条件にすれば許されるかなと、大甘な解釈で踏み切りました(怒られるかな)。

でも、予想外に参加者が多くて、同じように考えている人が多いんじゃないかなあと、思いましたよ。

というわけで、今回は「糸満ある記」の報告です。

幸い、糸満市教育委員会にいた加島さんがガイドを引き受けて下ったので、嬉しい限り。

彼女は現在、「NPO法人ハマスーキ」という、ウミンチュ に関する資料保存や展示に関わっていて、その資料館もあるので丁度いいかとお願いした次第。

本部にいる中村英雄さんとも交流したいということだったので、今後も交流が深まればいいなと考えています。

散策のコースは、糸満海のふるさと公園から新しい道路を渡り→漁港、市場を抜け→ロータリー からサンティンモー(山巓毛)に登り→海人の住宅街を歩き→白銀堂にお参りして公園に帰り、最後にハマスーキが運営している資料館(海人工房)を見学するというもの。

天気もよく、気持ちのいい1日でした。


最近(でもないか?)できた新しい道路の下。見慣れないモダンなフォルムが新鮮でした。




糸満漁港。魚市場があった場所は更地になっています。
再開発なんでしょうが、少し寂しいですね。このあと行った市場も、古い建物がリニューアルされたりして綺麗になっていますが、昔やっぱり何だっか薄っぺらな感じが拭えない。住民の結論だから、外野があれこれ言うのも失礼ですが。

山巓毛(サンティンモー)に行ったが、そこで思い出したのが、琉米歴史研究会が所有する1950年に撮影されたとされるこの写真。戦前に使われていた梵鐘で、1958(昭和33)年5月8日付の沖縄タイムスが、「再びこの場所に吊るされる」と報じているが、写真は1950年撮影とされるため、食い違いがよく分からない。
知っている方がいれば教えて欲しいと公開した次第。

最後に訪れた「海人工房・資料館」の内部。
糸満は、ミーカガン(水中眼鏡)の発明やアギヤー(追い込み漁)で知られるように、漁業の町として黄金時代を築いた所。その漁具や漁法、地域ならではの暮らしや歴史など、次代に継承べきモノやコトはたくさんあふれている。海人の知恵や文化は沖縄の宝のひとつだけに、活動が今後いっそう発展するようエールを送りたい。

<三嶋>

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手元からなくなりました

 Category: 沖縄ある記  Comment : 0


昨年春から発売していた『沖縄の戦後を歩く』が、おかげさまで手持ちの分が完売いたしました。

ありがとうございました。

書店にはまだわずか残っていますので、購入希望の方はそちらでお求めください。

なんせ書籍販売はわれわれも初めてなので、当初は完売まで数年はかかるのではないかと心配していました。こんなに早く売り切ることが出来たのは、皆様のおかげでと感謝いたしております。

これに味をしめたわけではないのですが、たまたま次の出版計画も(嬉しいことに)持ち上がっていますので、それもまた、よろしくお願いしますね。

<三嶋>

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南海の塔

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今帰仁村湧川にある戦争慰霊碑「南海の塔」に行ってきた。

1963(昭和38)年5月10日の琉球新報に、大分に住む父親が嵐山で戦死した息子の供養に慰霊観音像を建て、息子と戦友の霊を弔ったという記事があったからである。

弔われているのは、1945年6月18日に戦死した大分県日田市出身の海軍中尉、武下一氏と12人の戦友。

南海の地に散った息子を偲ぶ親の心情や、その願いを受けて建立に動いた地元の方々の行動を、“心温まる話題”として記事は構成されている。

しかし、昭和20年春には、敗残兵となった日本軍兵士が、地元民の食糧強奪や虐殺といった事件を各地で引き起こしている。

調べていると、2005(平成17)年12月28日の沖縄タイムス朝刊で、米軍が記録した旧日本兵の軍用手帳に、「スパイ殺害」の記述があることが確認されたことを発見。その手帳の持ち主が「竹下ハジメ」だという。

スパイ殺害は昭和20年4月17日。八重岳から多野岳に移動中の出来事のようだ。

翌4月18日には、本部国民学校校長の照屋忠英氏が、スパイ容疑で日本軍に殺害されるなど、日本兵は各地で住民虐殺を行っているが、日本兵自身の記録が確認されたのはこれが初めてだという。

新聞掲載の写真では観音像の周りに何もないが、57年経った現在、周囲は雑木で覆われ、場所を探すのにも一苦労した。

台座には「南海乃供養塔」と刻まれている観音像

前回紹介した渡野喜屋や本部半島以外にも、日本兵による住民の「スパイ殺害」事件は各地で証言されている。

しかし、ネットにある「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ」を読むと、武下一中尉23歳は、意外にも礼儀正しく思いやりがある好青年で、人間的な魅力のある若者だと地元民から信頼されていたようだ。

また、一人息子を失った父親は、遺骨を集めてくれた湧川の青年団に感激し、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと南海の塔を建立したという。そして毎年、慰霊祭に訪れ、地元の小学校に書籍を寄贈するなど、地元の人たちと深く交流を保ったと記されている。

旧日本兵が沖縄各地で非道を重ね、住民に恐れられていたことは事実だ。

だがしかし、個人としての日本兵の平時の素顔は、平穏な日常を生きる庶民でもあったはずだ。

極悪非道な殺人鬼としてくくれるなら、分かりやすい話であるが、軍隊という組織に身を置き、戦争という極限状況に追い込まれた時、天使は容易に悪魔に変貌する。

そして、若くして逝った息子を弔う親の心情を思うと、戦争の非情さに改めて息苦しさを覚えたのである。

1945(昭和20)年9月3日。米軍に投降する第27魚雷艇隊(白石部隊)。
写真:沖縄県公文書館

米軍の攻撃ですべての艇を失った本部半島の海軍部隊は、海から陸に上がって宇土部隊の支配下に入った。

武下中尉らが支配下に入った第27魚雷艇隊(白石部隊)は、住民虐殺や食糧強奪を繰り返し、住民を恐怖に陥れていたが9月3日、名護市古我地において183名が投降した。

9月3日の白石部隊の投降に際し、数日前から日米両軍と調整し、通訳も務めた比嘉善雄・古我知村長。
写真:沖縄県公文書館

第27魚雷艇隊の投降をサポートした比嘉善雄氏は、戦後、沖縄文教学校外語部教師を務め、1947(昭和22)年7月には第1回世界キリスト教大会に出席するため、第1号となるパスポートを取得。

1952(昭和27)年に沖縄キリスト教連盟理事長に就任。志喜屋知事の専属秘書兼公式通訳官、比嘉秀平・当間重剛両主席のもとで、東京事務所長などを務めた。

1985(昭和60)年12月、81歳で死去している。

 

また、第27魚雷艇隊の人々は、1975(昭和50)年11月23日、湧川にある慰霊塔で30年ぶりに慰霊祭を実施した。

出席した生存者27人、遺族約40人は、そのあと湧川区民を招いて交換会を開催し、旧交を温めて当時を懐かしんだと書かれている。(沖縄タイムス1975年11月26日夕刊)

<三嶋>

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塩屋湾のムラ

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大宜味村の塩屋湾は、カキの養殖が試みられたほど、波の静かな美しい海だった。

しかし交通の便が悪く、名護から北上する人が対岸の塩屋に行くには、東に約8キロほど迂回して大保の橋を渡るか、南側の集落・白浜から渡し舟に乗るしかなかった。

白浜集落は渡野喜屋(とのきや)という名で、大宜味の間切番所があった塩屋とは縁が深く、客が3~4人集まると公民館西側の渡し場から舟を出していた。塩屋と白浜は、直線にすると約800メートルほどしかない距離である。

1958〜59(昭和33〜34)年。
写真:琉米歴史研究会提供

白浜トンネルの上から見た現在の白浜集落。

白浜から見た宮城島。1954(昭和29)年6月。
写真:琉米歴史研究会提供

この地で忘れてはならないもののひとつに、戦時中の旧日本軍が起こした住民虐殺事件(渡野喜屋事件)がある。

渡野喜屋事件は、1945(昭和20)年5月12日夜、10人の日本兵が、同地に避難していた那覇や中南部の人たち40~50人を広場に集め、その中に手榴弾を投げ込んで全員の殺害をはかったもの。35人が死亡し15人が負傷したが、そのほとんどは婦女子であった。

戦火を逃れ、飢えに苦しむ避難民は、「友軍」である日本軍にスパイの疑いをかけられたあげく、いきなり殺害されたわけである。

この事件は米軍の報告書でも記載され、確認されている(沖縄タイムス1985年3月12日)。

琉球新報(2008年6月22・23日)に紹介された体験者の話を読むと、命を奪われた無辜の人たちの姿が痛ましく、死を免れた人たちのその後の苦しみにも胸がふさがれる。

日本軍の起こした住民への虐待・虐殺は数多く記録されているが、この地の出来事も、忘れてはならない負の歴史のひとつである。

<三嶋>

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