琉米歴史研究会の資料寄贈
2022年4月20日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
以前からボクが関わっている(現在は理事)NPO法人琉米歴史研究会が、写真資料などを中城村と北中城村に寄贈しました。今後は、三者で保存・活用することになります。
4月18日には、そのための記者会見が、両村の村長や教育長なども出席して開かれました。
これで、琉米歴史研究会の喜舎場さんも、枕を高くして寝られるんではないでしょうか。
おもにアメリカの個人から預かった写真の、保存問題にはかなり頭を痛めていましたからね。
また、NPOと行政が一緒になって、資料のアーカイブ構築を行うのもあまり聞いたことがないので、おそらく新しい試みになるんではないでしょうか。
ボクはこれまで、琉米歴史研究会が持つ約1万5000点ほどの写真のなかから、1万点ほどを使って画像データベースを作って来ました。しかし、一人で出来ることは限られていますから、行政の人たちの知見が加えられると、いっそう充実するだろうと期待しています。
ただ、一般公開するまでには、まだ数年かかるんじゃないかと思うので、それまで待っててもらわなければなりませんね。
これらの写真は沖縄各地で撮影されたものだけに、前述の2村だけのものではなく、いわば沖縄全体の財産ともいえるものです。それだけに、これからは、もっと県民に広く使ってもらえるようなものになって欲しいと願うばかりです。
今後ともよろしくお願いします。

<三嶋>

「復帰」展示とフォーラム終了
2022年4月15日 Category: Myある記 Comment : 0
3月27日から4月9日まで、南風原文化センターで開催した「27度線をこえて~『復帰』をめぐる人々の足跡をたどる」が、終了した。
主催者である「沖教組資料調査会」のメンバーとして関わっていたので、展示会場作りや会場案内などでバタバタと慌ただしく、あっという間に終わった感じであった。
今年が復帰50周年のため、内外のマスコミも活発だったが、足元で復帰が遠かっていく印象があっただけに、自分も含めていい勉強の機会になったのではないだろうか。
なかでも、石垣島の出身で沖縄の状況を本土の人たちに知らせたいと、東京で7、8本の沖縄映画を作った安室孫盛氏や、その活動を支えた町田忠昭氏、中野区の市議でありながら沖縄復帰に尽力した中澤ひろや氏、その活動を記録した嬉野京子氏などについて知り得たのは、大きな喜びとなった。
これらの人々は、沖縄ではあまり知られていないが、その果たした仕事ぶりを知るにつけ、驚かされると同時にその熱意に頭が下がる思いで一杯になった。
会場では、中澤ひろや氏の遺品である復帰運動のノボリやタスキ、写真などが展示され、同時に安室孫盛の映画「パーランクーの響き」「石のうた」を上映したほか、土曜日と日曜日には、合計4回のフォーラムを開催し、お呼びした合計8人の方から当時の貴重な証言も聞くことが出来た。

1963年を第1回に始められ、1970年まで毎年開催された北緯27度線上の交換会。

中澤ひろや氏をはじめ多くの本土の人間が関わったが、本土における沖縄返還運動の実態は、沖縄ではあまり知られていないように思う。

荒々しい白黒画面の映像で、不鮮明な場面もあるが、抵抗せざるを得ない人々の熱意や情熱が痛いほど伝わり、迫力に圧倒される。そして誰しもが、「沖縄の現状は今もほとんど変わっていない」と思うだろう。

登壇された方々の中で、ボクが特に印象的だったのは、仲里効氏の「戦争責任を問うことと同じように『復帰責任』も問わなければならない」という言葉。「なるほどそうか」と会得したし、復帰運動の裏側を刮目する必要があると今更した。
「反復帰論」で知られる、新川明氏と仲宗根勇氏も登壇されたが、復帰協関係者も反復帰論者も一緒に(フォーラムは別の日だったが)、復帰を学ぶ機会になったのはよかったのではないか。過去にはそれぞれの立場で激しい論争もあったのであろうが、復帰事態が歴史的事象のひとつになりつつある今日、体験者の声を聞きながらもう一度、復帰と沖縄のこれからを考えてみるには絶好の機会になったのではないだろうか。
ボクも、イメージでしか捉えていなかった「復帰」が、にわかに蘇り、迫ってきたようで大変刺激を受けた。。一番聞いて欲しかった若い世代が少なかったのは、残念ではあるが。
<三嶋>

名護ある記
2022年3月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
先月2月13日についで、復活地域ある記の第2弾、「名護ある記」を華々しく(?)実施しました。
ガイドは名護生まれの玉城一男さん。10年ぐらい前に帰郷して、ヤンバルに飽き足らずあちこち歩き回っているオジサンです。って失礼、ボクの大学の先輩だった(笑)。
名護は以前、仕事でよく来ていたし、このHPでも書いたことがあると思うが、歩くのは久しぶりでなんだか懐かしい。
あるきのコースは、漁港を出発して、そこから国道58号を横切って城に入り→名護市営住宅からみどり町を通り、→津嘉山酒造で説明を聞いたあと→十字路公民館そばを抜けて幸地川に出て、漁港に帰ってくるというもの。
名護はやはりヤンバルを代表する街のため、見どころは限りない。2~3時間ではやはりうわべだけの散策になったが、また来たくなったら第2弾、第3弾をやりましょう、と語り合った次第。

目の前に広がる名護湾にはかつて、那覇とむすぶ船が往来する港があり、周辺にはその倉庫や会社があったのだろう。その名残が「会社通り」なのだろう。
セメン瓦の民家もあるが、この瓦が台湾から名護に持ち込まれ、名護で生産されるようになったのは有名な話。
今も生産する工場が残っている。


ヒージャー好きにはたまらないでしょうね。

沖縄戦のころは米軍の司令部として使われたようで、その痕跡として柱に刻まれた「OFFICERS QUARTERS(将校宿舎)」の文字が残る。

う~ん、名護はいろいろあり過ぎて、やっぱり見切れない感じ。
またやろうね、玉城さん。
<三嶋>

糸満ある記
2022年2月26日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
コロナが少し弱まった感があるのでは、と勝手に解釈して、久しぶりの散策を行いました。
ヤーグマイ(家篭り)が続いて、結構キツかったため、お互い気をつけることを条件にすれば許されるかなと、大甘な解釈で踏み切りました(怒られるかな)。
でも、予想外に参加者が多くて、同じように考えている人が多いんじゃないかなあと、思いましたよ。
というわけで、今回は「糸満ある記」の報告です。
幸い、糸満市教育委員会にいた加島さんがガイドを引き受けて下ったので、嬉しい限り。
彼女は現在、「NPO法人ハマスーキ」という、ウミンチュ に関する資料保存や展示に関わっていて、その資料館もあるので丁度いいかとお願いした次第。
本部にいる中村英雄さんとも交流したいということだったので、今後も交流が深まればいいなと考えています。
散策のコースは、糸満海のふるさと公園から新しい道路を渡り→漁港、市場を抜け→ロータリー からサンティンモー(山巓毛)に登り→海人の住宅街を歩き→白銀堂にお参りして公園に帰り、最後にハマスーキが運営している資料館(海人工房)を見学するというもの。
天気もよく、気持ちのいい1日でした。

最近(でもないか?)できた新しい道路の下。見慣れないモダンなフォルムが新鮮でした。

糸満漁港。魚市場があった場所は更地になっています。
再開発なんでしょうが、少し寂しいですね。このあと行った市場も、古い建物がリニューアルされたりして綺麗になっていますが、昔やっぱり何だっか薄っぺらな感じが拭えない。住民の結論だから、外野があれこれ言うのも失礼ですが。

山巓毛(サンティンモー)に行ったが、そこで思い出したのが、琉米歴史研究会が所有する1950年に撮影されたとされるこの写真。戦前に使われていた梵鐘で、1958(昭和33)年5月8日付の沖縄タイムスが、「再びこの場所に吊るされる」と報じているが、写真は1950年撮影とされるため、食い違いがよく分からない。
知っている方がいれば教えて欲しいと公開した次第。

最後に訪れた「海人工房・資料館」の内部。
糸満は、ミーカガン(水中眼鏡)の発明やアギヤー(追い込み漁)で知られるように、漁業の町として黄金時代を築いた所。その漁具や漁法、地域ならではの暮らしや歴史など、次代に継承べきモノやコトはたくさんあふれている。海人の知恵や文化は沖縄の宝のひとつだけに、活動が今後いっそう発展するようエールを送りたい。
<三嶋>

手元からなくなりました
2021年4月13日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
昨年春から発売していた『沖縄の戦後を歩く』が、おかげさまで手持ちの分が完売いたしました。
ありがとうございました。
書店にはまだわずか残っていますので、購入希望の方はそちらでお求めください。
なんせ書籍販売はわれわれも初めてなので、当初は完売まで数年はかかるのではないかと心配していました。こんなに早く売り切ることが出来たのは、皆様のおかげでと感謝いたしております。
これに味をしめたわけではないのですが、たまたま次の出版計画も(嬉しいことに)持ち上がっていますので、それもまた、よろしくお願いしますね。
<三嶋>
