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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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繁多川のカーと真珠道

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 那覇市繁多川は、首里城の南を流れる安里川を挟んだ反対側の高台で、識名霊園を少し含む地域です。
 水が豊富な所として知られ、そのため昔から豆腐屋さんが多かったようです。
 この日は、識名宮の近くにあるウフカー(大川)と、ボージガー(坊主川)に立ち寄りました。ボージガーでは、ザリガニや魚捕りに夢中の子供たちに遭遇。今では珍しい光景ですね。
 カーの前の道は、守礼門から金城町を下り、識名坂を登って続く旧道、真珠道(まだまみち)。外敵の侵入に備えるため、那覇港と首里城をつなぐ軍用道路として整備されました。
 大通りを横切り、識名霊園の方に向かって小道を進むと、三差路に解説板を発見。住民の地域に対する愛着がうかがえてイイものですね。
 繁多川に関する記事は新聞でよく見かけますが、地域活動が盛んな所で、伝統文化の継承や在来種の再生などに積極的な印象です。教えられる事が多いので、これからも注視していきたいと思います。
(三嶋)

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高良を歩きました

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 那覇市小禄の高良地区は、現在の姿からは想像できませんが、戦後、大勢の人でにぎわった場所です。
 部落の北西に位置する小禄飛行場を米軍が接収したため、自分の土地に帰れない人々があふれたのです。
 交差点の写真に写る、右側のビル(1階がローソン)はかつて風呂屋で、その奥には映画館がありました。
 この交差点(高良交差点)から、東に続く「高良市場」周辺が戦後の中心地で、さまざまな物が売り買いされたほか、料亭や食堂などもあったようです。1954(昭和29)年当時、小禄村の人口1万4400人のうち、7割強が高良に住んでいたと字誌にありますから、いかに大勢の人が暮らしていたかが分かります。
 しかし、他字の人々が「新部落」を建設し、移動しはじめた昭和30年ごろから人口が減り、交通網の整備や商圏の移動が進むと、高良はもとの静かな住宅地へ戻ったようです。
 現在、戦後の姿をしのぶものは見当たりません。
 バス停に残る市場の名と、狭くて曲がりくねった路地だけが、往時の混乱と喧騒を伝えているようです。
 最後に、集落の南側の高台にある小禄南公民館・図書館(旧小禄村役場)を訪ねました。屋上緑化を先取りしたユニークかつエコな建物です。スタッフからは地域に寄せる愛情が感じられ、イイ感じだったことを付け加えます。
(三嶋)

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甲辰橋と甲辰小学校

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 甲辰橋は、モノレール県庁前駅の西にある小さな橋で、1959(昭和34)年11月に完成しました。
 54年前の橋が、沖縄の中心地に今も現役で存在していることに驚きますが、欄干はさすがにあちこち傷んで、痛々しい感じ。
 橋を渡って「パレットくもじ」に向かうと、地下駐車場の入口右に「甲辰尋常小学校・甲辰国民学校跡」という石碑が、ひっそりと建っています。
 甲辰小学校は、1904(明治37)年の甲辰(こうしん・きのえたつ)年に設置され(開校は翌年)た学校で、校名は日露戦争開始を記念して名付けられました。
 国民の熱狂的な支持を受けた日露戦争は、沖縄では立派な日本人になるための「踏み絵」のような役割を果たしました。出兵者の約1割が死傷したものの、この戦争を契機に県内の就学率が上昇し(昭和2年に99%に達した)たことからも、皇民化教育が「成果」を挙げたことがうかがい知れます。
 県外からの転勤族の子弟も多い甲辰小学校は、県内有数のエリート校でしたが、昭和19年8月には疎開船「対馬丸」に乗船した学童100人余が犠牲となり、那覇市の9割が焼失した同年10月の「十・十空襲」で完全に校舎を失ったまま、現在まで再建されることはありませんでした。
 戦争の時代につくられ、戦争とともに消えていった学校の名は、社会や政治の要請によって教育や学校が、容易に変質してしまう事を今に伝える意味でも、忘れてはいけないでしょう。
 甲辰小学校は二重の意味で「悲劇の小学校」ではないでしょうか。
(三嶋)

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泉崎橋

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 久美橋に続いては、その南に架かる泉崎橋。
 もともとは琉球王国時代に造られた石橋で、中国風の三連のアーチ橋は、葛飾北斎の「琉球八景」にも描かれた名橋として知られていました。
 しかし、沖縄戦で破壊されたため、現在のコンクリート橋は戦後、1958(昭和33)年8月になってようやく完成しました。
 中央が膨れた太鼓型の形状は、石橋だったころのスタイルを踏襲したと思います。
 現在の橋が完成した際の新聞を見つけたので、現在の姿と比較(反対側からですが)しました。真ん中が盛り上っているのが分かりますね。
 しかし、完成当時、高圧線の鉄塔(米軍使用の)がすぐ側を走っていたことから、橋はできても通れないと大きな問題になりました(無茶苦茶だ)。
(三嶋)

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久美橋

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 最近、沖縄島北部の橋が、次々に架け替えられています。
 ヤンバルは、戦前・戦後のコンクリート橋が数多く残っている地域ですが、その姿をかなり減らしつつあります。
 もう少し事前に、広く知らせて欲しかったなあと残念です。
 「公共工事」が叩かれないためにも、土木事業が地域に果たしてきた役割や歴史もろもろを、地域住民や子供たちに分かりやすく伝える努力が、日ごろから必要ではないでしょうか。住民と行政がよりよい関係を築くためにも、ソフトな交流が必要だと思うんですよね。
 そんななか、がぜん希少価値が高まるのが、那覇市の真ん中を流れる久茂地川に現存する、1950年代の4つの橋(仲良橋・久美橋・甲辰橋・泉崎橋)! ではないでしょうか。
 1959(昭和34)年7月5日竣工した久美の、コンクリートの欄干や水面に映える曲線はなかなかの味わいでは?
 久茂地町と美栄橋町の名から、一文字づつとって名付けられた昭和の橋の頭上を、モノレールが行く風景も面白いと思います。が、車体の絵が汚い点はいただけません。
 「育てたい まちなみ」と書かれていますが(首里城の絵が描かれた車体もあります)、街並みを汚している当事者のように見えてしまうのは、ボクだけでしょうか。
(三嶋)

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