迅鯨を訪ねて
2015年6月30日 Category: Myある記 Comment : 0
以前からお付き合いさせてもらっている大嶺昇さんと一緒に、本部町の中村英雄さん宅を訪ねました。
今年82歳になる大嶺さんは、昭和19年9月、那覇市立甲辰小学校6年の時、学童疎開で沖縄を離れました。その時、那覇港から鹿児島港まで乗った船が、潜水母艦・迅鯨(じんげい)でした。
迅鯨はその翌月、本部町と瀬底島との間の海で、米軍機による十・十空襲(10月10日)を受けて沈められ、乗員135名が戦死しました。
その時、燃え盛る迅鯨に駆けつけ、30名ほどの乗組員を救助した3人の若い漁師がいました。サバニに乗ってトビウオ漁に向かう途中に遭遇したもので、当時14歳の中村英雄さんも、そのなかの1人でした。
大嶺さんたちの学童疎開は、甲辰小学校の同級生たちも乗った対馬丸が、米軍潜水艦の魚雷で8月22日に沈められていただけに、大きな不安があったと思われます。が、迅鯨が「大きな軍艦だった」ということで、多少は安心できたのかもしれません。
命を預けたその迅鯨がこの海域で沈み、そこに中村さんが深く関わっていることを知った大嶺さんは、以前から訪ねたいと思っていたようです。この日の出会いで、胸のつかえが少しは下りたのであれば嬉しい限りです。
また、中村さんは、昨年、奥さん(節子さん)を亡くされていますが、その奥さんが大嶺さんの後輩にあたる甲辰小学校の卒業生と聞いて、不思議な縁も感じました。生前にお会いできていたらと残念ですが、迅鯨つながりで得られた出会いに感謝です。

写真右下に見える、煙を上げている船が迅鯨。手前が瀬底島、対岸が本部半島。
中村さんの証言では、迅鯨は十・十空襲から5日ぐらい燃えていたそうなので、撮影はその間になされたもの。
写真はロバート・ロック氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

水深が浅いため、船底が海底につかえたまま赤錆びる迅鯨(1945〜46年ごろ)。
船体は1952(昭和27)年7月25日、沖縄初の沈船引揚げで7年ぶりに浮上。下関に曳航されて解体されました。
写真はニール・H・ローレンス氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

左から大嶺昇さん(82歳)と、中村英雄さん(85歳)。
中村さんは自宅近くのこの慰霊碑を毎日見守り、10月10日には慰霊祭も執り行ってきました。
(三嶋)
戦争体験者の講演
2015年6月20日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市屋部出身で、民俗芸能などに造詣の深い宜保榮治郎さんが、沖縄戦当時の体験を語る集まりに参加してきました。
沖縄戦というと、終焉の地となった本島南部に話が集中しがちですが、やんばる(本島北部)でも戦闘があったことや、中南部から避難してきた人々が、命をつないだ場所がこの地であったことは、記憶に留めておくべきです。

名護博物館で行われた講演会「軍国少年が見たやんばるの沖縄戦 イクサの記憶」
人口が集中する中南部で消費される、燃料や建材などの供給基地として、それまでもやんばるは重要な機能を果たしてきました。
また、戦後、本島の「水がめ」として多くのダムが造られ、都市部の暮らしを支えている構造は今も続いています。
広大な米軍演習場の存在もふくめて、中南部から見えづらいこの「南北格差」状況が、普天間移設にも伏流していることを自覚させられます。
(三嶋)
タイムラプス動画 嘉数高台公園
2015年6月17日 Category: Myある記, 活動クリップ Comment : 0
梅雨が明けたら試してみようと思っていたタイムラプス動画。
慰霊の日も近いので、近場の嘉数高台で撮影してきました。
タイムラプス動画とは一定間隔で撮影した写真を高速再生した動画です。
ちなみに今回は2秒ごとに30分ほど撮影した900枚の静止画を30秒の動画にしてます。
(入りのシーンはiPhoneで、左に旋回しているシーンはGoProです。)
試しで撮ったので、あまり時間をかけていないけど、時間をかければもっと面白い動画が作れそうです。
(下地)
高校生と一緒にやんばるの沖縄戦を学ぶ
2015年6月13日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市教育委員会主催の、「高校生とともに考えるやんばるの沖縄戦」という催しに参加しました。
今年のテーマは、「旧久志村にあった避難民収容地区と今」。
住民の収容地区となった久志・辺野古・瀬嵩をまわり、現場を確認しながら体験者の話などを聞きました。
高校生を対象としたこのワークショップへの参加は初めてですが、今年で21年目と知って驚きました。また、朝8時半から5時までの長丁場にもかかわらず、多くの高校生の真剣な眼差しにも正直いって感心しました。

辺野古地区で、戦中・戦後のようすを学ぶ。

久志浄水場近くの伊江村民収容地跡。
伊江島では、激しい戦闘に参加して多くの住民が犠牲となっています。生き延びた伊江村民は、1945年6月、大浦崎収容所(現在のキャンプ・シュワブ)に強制収用され、同年9月に現在の久志浄水場近くの山中に再移動を命じられました。人々は、食料難やマラリアで多くの命が奪われるなか、1947年3月までこの地に留め置かれたそうです。

大浦湾をはさんで辺野古と向かい合う瀬嵩海岸で、対岸に見えるキャンプ・シュワブの現状を学ぶ。
このところの、辺野古や安保法制案などをめぐる政治のありようは、目茶苦茶としか言いようがありませんが、そんな大人の不甲斐なさを尻目に、彼ら・彼女らはしっかりと70年前の出来事を学び、当時のようすや人々の姿を懸命に想像していました。
それにしても、若者を戦場に送るかもしれないような事態に、再び直面することを想像した人がいたでしょうか。戦後、人々の胸に去来したものは、決して戦争をしてはならないということだったはずです。そして、それはすべての国民が共有してきたものだったはずです。
わずか70年で、戦前への回帰を志向する人々が跋扈するようになるとは……何とわれわれは愚かで、歴史に学ぼうとする謙虚さに欠けているのかと、嘆かずにはいられません。
(三嶋)
名護博弁当会
2015年5月22日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりにヤンバルの蔓草庵をたずね、帰りに名護博物館(友の会)恒例の、金曜弁当会に乱入。行くたびに、初めての方と知り合えるユンタク会ですが、今日も楽しいひと時を過ごしました。

名護博物館は、施設内(中庭に面した半戸外)で自由に飲食できるという、奇特な場所。
手づくりのテーブルが2つとイスがあるだけですが、誰かれとなく訪れては、打合せをしたりユンタクしたりしています。
こんなにユルく、誰もが自由に使えるオープンスペースがある公共施設は、今どきほんとに奇跡的だと、行くたびにボクは(嬉しくて)笑ってしまいます。
博物館を訪れた人は、ついでに誰かを見つけて声を掛けてみましょう。
予期せぬ出会いが待っているはずですよ。
そして、「地元の人」が何よりの“おもてなし”であり、なおかつ最も興味深い“展示物”であることに気づくはずですよ(たぶんだけど)。
(三嶋)
