高校生と一緒にやんばるの沖縄戦を学ぶ
2015年6月13日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市教育委員会主催の、「高校生とともに考えるやんばるの沖縄戦」という催しに参加しました。
今年のテーマは、「旧久志村にあった避難民収容地区と今」。
住民の収容地区となった久志・辺野古・瀬嵩をまわり、現場を確認しながら体験者の話などを聞きました。
高校生を対象としたこのワークショップへの参加は初めてですが、今年で21年目と知って驚きました。また、朝8時半から5時までの長丁場にもかかわらず、多くの高校生の真剣な眼差しにも正直いって感心しました。

辺野古地区で、戦中・戦後のようすを学ぶ。

久志浄水場近くの伊江村民収容地跡。
伊江島では、激しい戦闘に参加して多くの住民が犠牲となっています。生き延びた伊江村民は、1945年6月、大浦崎収容所(現在のキャンプ・シュワブ)に強制収用され、同年9月に現在の久志浄水場近くの山中に再移動を命じられました。人々は、食料難やマラリアで多くの命が奪われるなか、1947年3月までこの地に留め置かれたそうです。

大浦湾をはさんで辺野古と向かい合う瀬嵩海岸で、対岸に見えるキャンプ・シュワブの現状を学ぶ。
このところの、辺野古や安保法制案などをめぐる政治のありようは、目茶苦茶としか言いようがありませんが、そんな大人の不甲斐なさを尻目に、彼ら・彼女らはしっかりと70年前の出来事を学び、当時のようすや人々の姿を懸命に想像していました。
それにしても、若者を戦場に送るかもしれないような事態に、再び直面することを想像した人がいたでしょうか。戦後、人々の胸に去来したものは、決して戦争をしてはならないということだったはずです。そして、それはすべての国民が共有してきたものだったはずです。
わずか70年で、戦前への回帰を志向する人々が跋扈するようになるとは……何とわれわれは愚かで、歴史に学ぼうとする謙虚さに欠けているのかと、嘆かずにはいられません。
(三嶋)
名護博弁当会
2015年5月22日 Category: Myある記 Comment : 0
久しぶりにヤンバルの蔓草庵をたずね、帰りに名護博物館(友の会)恒例の、金曜弁当会に乱入。行くたびに、初めての方と知り合えるユンタク会ですが、今日も楽しいひと時を過ごしました。

名護博物館は、施設内(中庭に面した半戸外)で自由に飲食できるという、奇特な場所。
手づくりのテーブルが2つとイスがあるだけですが、誰かれとなく訪れては、打合せをしたりユンタクしたりしています。
こんなにユルく、誰もが自由に使えるオープンスペースがある公共施設は、今どきほんとに奇跡的だと、行くたびにボクは(嬉しくて)笑ってしまいます。
博物館を訪れた人は、ついでに誰かを見つけて声を掛けてみましょう。
予期せぬ出会いが待っているはずですよ。
そして、「地元の人」が何よりの“おもてなし”であり、なおかつ最も興味深い“展示物”であることに気づくはずですよ(たぶんだけど)。
(三嶋)
屋慶名ある記
2015年5月21日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』(60号)の取材をかねて、屋慶名ある記を実施しました。
屋慶名というと、路線バスでよく見る地名ですが、屋慶名線(27番)を利用する人でも、終点まで乗ったという人は、そう多くないでしょう。
そこでこの際、意外に知られていない屋慶名をみんなで学ぼう!と、地元の上門(うえじょう)さん・森根さんの案内で、あちこち散策した次第。

屋慶名港で話す上門(うえじょう)さん。色の黒さ(失礼)と、豪快な笑いが持ち味の、屋慶名を愛して止まない闘牛フリーク。

屋慶名港の南西部に広がる農地。
何の変哲もない土地ですが、ここには1946年から翌年初めにかけて、金武村屋嘉の捕虜収容所から移動してきた、朝鮮人捕虜が収容されていました。
約1万坪の土地にいくつものテントが張られ、200〜300人の元軍夫が暮らしていたようですが、住民は具志川前原に収容されていたことから、接触したり目撃した人はいないとのこと。
しかし、収容所が撤去されたころ、上門さんのおじいさんが近くにあった祖先の墓に行ってみたところ、元軍夫と思われる遺骨5柱が置かれていたため、それから毎年、花や線香をあげて供養していたそうです。
そして27年後の1972年8月、来島した調査団関係者に遺骨は引き取られたのですが、この地にあった収容所の詳細は今もって分からないようです。
※参考:沖縄タイムス1972.8.28

また、朝鮮人捕虜収容所跡地のさらに西側には、“チャイナ部隊”とよばれた中国軍(国民党)の陣地がありました。
地元以外ではほとんど知られていませんでしたが、昨年、識者による共同研究の成果が新聞で報道されてから、注目を集めるようになりました。
上門さんに案内された写真の場所がその跡地で、あたり一帯が陣地だったようです。
上門さんによれば、部隊の隊長の家がこの丘の上にあり、写真中央手前に見える、草に埋もれたコンクリートの箱のようなものが、その家の浄化槽だったそうです。
チャイナ部隊については、前述の朝鮮人捕虜収容所と同様、詳細が分かっていないため、これからの調査や研究が待たれます。
また、われわれも、お手伝い出来ることがあれば、参加したいものだと思いました。
※参考:沖縄タイムス2014.5.6、5.20〜5.22
(三嶋)
県民大会は熱かったぜえ!
2015年5月10日 Category: Myある記 Comment : 0
ピーカンのクソ暑い天気のなか、倒れそうになりながら、「止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」に参加してきました。

旭橋あたりから会場のセルラースタジアムまで、途切れることなく続いた人の波
この種の集会では、高齢者の頑張りにいつも驚かされますが、今回は子供連れの家族もけっこう目に付きました。一段とキナ臭くなった気配に、若いお母さんたちも敏感にならざるを得ない、ということなのでしょうか。
現在は「戦争間期(前の戦争と次ぎの戦争の間)」という、嬉しくない指摘に頷いてしまいそうになりますが、だからといってそれを認めてしまえば、「仕方がないもんね」的なムードを、自分も媒介してしまうことになります。
対立を前提に思考するのではなく、連帯や協調が横溢するような空気感を、社会が取りもどすよう努力するべきでしょう。優等生的で面倒臭い話かもしれませんが、しょうがないですよね。
(三嶋)
不思議な実と神谷げんまい
2015年5月10日 Category: Myある記 Comment : 0
玉城さんとその仲間が手登根を散策するというので、ボクも佐敷まで行ってきました。
生憎のぐずついた天気でしたが、歩けないほど降ることもなる、ワイワイとみなさん楽しんだようです。
特に面白かったのは、道の途中で見つけた雑草の実。

黄褐色の地に、焦げ茶の細かい斑点がある7〜8mmほどの実が、びっしりと付いているんです。何かな〜と見ていると、参加者の一人が、「子供の時によく食べたよォ」と言うので、恐る恐る口にしてみると……。フワフワとした不思議な食感のあと、かすかな甘味と酸味がやって来るではありませんか。
「ん〜、意外といけるかも」と、口にした人たちも同じような意見。
だがしかし、肝心の名前を聞くと、誰も知らないとのこと。「え〜!」
先輩たちが子供のころは、とにかくお腹を満たすのが先出、名前を覚えるどころではなかったのかとも思いますが……。
ちなみに、今はヤギのエサとか。

手登根の神谷さんのお宅で見せてもらった、「神谷げんまい」の空き瓶(汚れたままでスミマセン)。
この商品は神谷さんのお父さん、神谷秀亀氏が「神谷牛乳」とともに生産していたもの。かつては佐敷周辺のみならず、那覇の公設市場でも売られていたそうです。
昨年、95歳で天寿をまっとうされたお父さんは、戦後、素人ながら手登根で牛を飼い始めたことでも分かるように、かなりユニークな方だった様子。お元気な時にお会いしたかったですねえ。
それにしても、ユニークな人物やエピソードが、まだまだあちこちに埋もれています。やっぱり地域は面白いですねえ。
(三嶋)
