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屋慶名ある記

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『しまたてぃ』(60号)の取材をかねて、屋慶名ある記を実施しました。

屋慶名というと、路線バスでよく見る地名ですが、屋慶名線(27番)を利用する人でも、終点まで乗ったという人は、そう多くないでしょう。
そこでこの際、意外に知られていない屋慶名をみんなで学ぼう!と、地元の上門(うえじょう)さん・森根さんの案内で、あちこち散策した次第。

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屋慶名港で話す上門(うえじょう)さん。色の黒さ(失礼)と、豪快な笑いが持ち味の、屋慶名を愛して止まない闘牛フリーク。

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屋慶名港の南西部に広がる農地。
何の変哲もない土地ですが、ここには1946年から翌年初めにかけて、金武村屋嘉の捕虜収容所から移動してきた、朝鮮人捕虜が収容されていました。

約1万坪の土地にいくつものテントが張られ、200〜300人の元軍夫が暮らしていたようですが、住民は具志川前原に収容されていたことから、接触したり目撃した人はいないとのこと。
しかし、収容所が撤去されたころ、上門さんのおじいさんが近くにあった祖先の墓に行ってみたところ、元軍夫と思われる遺骨5柱が置かれていたため、それから毎年、花や線香をあげて供養していたそうです。
そして27年後の1972年8月、来島した調査団関係者に遺骨は引き取られたのですが、この地にあった収容所の詳細は今もって分からないようです。
※参考:沖縄タイムス1972.8.28

DSCF7578
また、朝鮮人捕虜収容所跡地のさらに西側には、“チャイナ部隊”とよばれた中国軍(国民党)の陣地がありました。
地元以外ではほとんど知られていませんでしたが、昨年、識者による共同研究の成果が新聞で報道されてから、注目を集めるようになりました。

上門さんに案内された写真の場所がその跡地で、あたり一帯が陣地だったようです。
上門さんによれば、部隊の隊長の家がこの丘の上にあり、写真中央手前に見える、草に埋もれたコンクリートの箱のようなものが、その家の浄化槽だったそうです。

チャイナ部隊については、前述の朝鮮人捕虜収容所と同様、詳細が分かっていないため、これからの調査や研究が待たれます。
また、われわれも、お手伝い出来ることがあれば、参加したいものだと思いました。
※参考:沖縄タイムス2014.5.6、5.20〜5.22
(三嶋)

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旧正月だけど津堅島

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例年より遅い今年の旧正月、なぜか津堅島で散策となりました。
日曜日も重なって人が多いだろうとの予測通り、フェリーは満杯。
普段は本島などに居る島の出身者たちも、この日ばかりは故郷に帰って正月を祝うのでしょう。大きなバックや、お土産らしき荷物を抱えた人たちが多いようでした。


大漁旗も掲げられ、華やいだ雰囲気が島のあちこちにあふれていました。


港が見える小高い場所に、漁師のおじさんたちが集まっていました。
普段から波の様子を見に来る場所らしいのですが、今日は正月休みなので女性陣が料理を作っている間は、ここでビールを飲みながらユンタクしているとのこと。
そこへ見知らぬ女子大生が乱入したので、多少驚いたようでしたが、百戦錬磨(?)のお父さんたちは破顔一笑。自分の子どもほどの年娘たち相手に、大盛り上がり。
彼女たちも普段はあまり接することがない人たちだけに、仕事の話や島の暮らしに興味をそそられた様子で、質問の嵐。しかし、一番クイツキがよかったのは、「ここでは伊勢エビがいっぱい食べられるよ」との言葉。
島の未来を考えると、エビで嫁を釣る婚活もアリですね。


港から続く学校前の通り。
普段は人通りの少ない通りも、この日ばかりは通行人がぐっと増え、空気も華やいだよう。やはり、若者や子どもがいると、それだけで地域が明るくなります。


ロシアではありません。走れるかどうか疑問ですが、かなりイケテル感じの車。いいですね〜。
よく見ると、ワイパーには松の小枝が挟んであります。正月飾りですね。


民家の塀や門の上でよく見かけた、シャコガイの魔除け。
こっちは中身に魅かれます。食べたいですね〜。
(三嶋)

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津堅島ワークショップ報告

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今年度予定している「嘉保プロジェクト」の一環で、2回目となる「津堅島ある記」を実施しました。
今回は、「キリ学(沖縄キリスト教学院大学)」の学生約10人も参加して、お年寄りとの交流や島内散策を行い、有意義な時間を共有できたと思います。時おり大雨が降る生憎の天気でしたが、若い人の参加で周囲が明るくなり、大いに助かりました。
もう一つの目的であった、地域写真展のための情報収集は今ひとつだったので、次回も継続かと考えていますが、とにかく、(初対面にも関わらず)お年寄りと学生とがにぎやかに懇談できてよかったと思います。なかでも、若い人たちが「元気をもらえた」と喜んでいたのが印象的で、戦争を生き抜いたオバアちゃんたちのパワーに、彼女たちもタジタジになったようでした。


学生は雨もたいして気にせず楽しげです。(ジジくさい言い方ですが)若さの特権ですよね。


施設のお年寄りに集まってもらい、古い写真をみながらユンタク。限られた短い時間でしたが、いろいろな話を聞くことができました。


津堅小中学校。大きくて立派な校舎が、壁画の向こうに見えますが、現在の在校生は、小学生と中学生を合わせて30人ほど。
この学校出身の嘉保博道さんが、南極観測船「宗谷」で島の沖合を通過した1959 (昭和34)年11月4日朝、近くの山から見送った全校生徒の数が500人余と当時の新聞にありますから、いかに人口が減ったかが分かりますよね。
(三嶋)

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津堅島でチキンカツを食べる

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タウチナー口で“チキン”と呼ばれる、津堅島に行ってきた報告です(チキンカツもうまかったです)。
参加者が20名以上(子ども2名)あったので多少驚きましたが、ウチナーンチュにも結構新鮮だったかも。
いつでも行けるサ〜、と未経験者のあなた、今がお出かけには最高の季節ですよ(汗をかいて歩きましょう)。
それにしても、平敷屋で出会った人はみんな親切。コワイ顔のおじさんも話せば愉快で、笑顔も印象的でした。また、次回おじゃましましょうね。


津堅島には平敷屋の港から3、40分で到着。港の近くには、イイアンベーの陽を浴びて、デイゴがこれから花を咲かせようかというところ。害虫の蔓延で最近はあまり見ませんが、真紅の花が咲き誇るデイゴは、沖縄の夏に不可欠ですね。


津堅は言わずと知れたニンジンの島。今が最盛期ということで、大量のニンジンをあちこちで見ました。値段も驚くほど安いんですが量が多すぎて・・・ニンジン料理が何日も続くかと考えて、出した手を引っ込めました。


ニンジン畑で作業中の姿を撮影させてもらいました。鉄パイプを曲げて作った、細身のヘラが使われているのに興味を持ちましたが、邪魔してはいけないと思って次の宿題としました。
ここではかつて大根が名産で、“チキンデークニ(津堅大根)”は味がいいと評判だったようです。今ではつくられていないようなので、復活を期待したいところですが、素人が考えるほど簡単ではないんでしょうね。


集落の中で見つけた弾痕(と思われる)。津堅島は、1941(昭和16)年夏から中城要塞の重砲陣地となり、県下でもっとも早く軍事化された島でした。そのため多くの島民が軍に駆り出され(志願し)、激戦に身を投じることになったようです。
のどかなこの島で、69年前の闘いを想像することは難しいのですが、記憶を顕在化して次世代に架橋する努力を、狭間に生きるわれわれが成さなければならないと考えます。右傾化が著しい昨今、歴史を学び伝える不断の作業がいっそう必要だと思います。
(三嶋)

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『しまたてぃ』(65号)発刊

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 『しまたてぃ』(65号)が発刊されました。
 「戦後を歩く」シリーズでは、5月に行った旧石川市歩きをもとに、銀座通り・栄通り・南栄通りの歴史と住民の暮らしについて書いています。
 原稿がこちらの手を離れてから、あーすればよかった、こーすればよかったと後悔の念がわき上がるのはいつものこと。
 案内いただいた松田さんや、お世話頂いた宮里さんに喜んでいただけたので、ヨシとしたいのですが、甘い?

(三嶋)

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