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3体の和光地蔵

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宗教に特別な思いがある分けではないが、同じようなお地蔵さんを見かけたことから、何となくその由来が気になっていた。

すると、1953(昭和28)年7月の新聞で、大阪四天王寺が寄贈した和光地蔵3体が那覇に到着し、三和村(現糸満市)魂魄の塔入口・浦添城跡・那覇市内に安置する予定という記事を見つけた。

また、7月12日には、浦添城跡で地蔵尊の除幕式と浦和の塔慰霊祭が開催され、同年11月21日には那覇市波之上旭ケ丘で、戦没者慰霊祭と地蔵尊の除幕式が開催されたという記事も見つけた。

那覇市の波之上宮北側に立つ和光地蔵。

1964(昭和39)年頃の波之上。写真背後には辻町のホテル群が整備され始めているが、和光地蔵が立つ高台の手前、旭ヶ丘公園側は雑然としたまま放置されているようだ。
(写真:琉米歴史研究会)

浦添城跡内。浦和の塔近くに設置された和光地蔵。

糸満市米須の魂魄之塔に向かう交差点近くに立つ和光地蔵。

1958(昭和33)年頃に撮影された和光地蔵。
(写真:琉米歴史研究会)

これらの地蔵菩薩は、戦災で苦しむ沖縄の人々を慰撫するため、本土から贈られたものだった。

すると、ブログ「琉文21」の「06/06: 龍脈/沖縄の大本系の教団」で、新城栄徳さんが「1952年9月27日、出口常順大阪四天王寺管長は戦没者慰霊と伝道の目的で来沖。戦死した島田知事とは三高の同窓」と沖縄タイムスの記事を掲載しているのを見つけた。

地蔵菩薩は同級生だった島田叡知事への供養であり、沖縄戦の惨禍への葬いだったのである。

戦後の沖縄には、各地から多くの人々の励ましが届けられている。これもその一つであった。

が、残念ながら、その存在はあまり知られていないようだ。地蔵菩薩が沖縄であまり馴染みがないせいだろうか。最近、あちこちの拝所や戦跡で目につく、怪し気なモノではないと分かった以上、もう少し気に留めて、手を合わせてみたいと思った。

<三嶋>

 

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塩屋の戦後風景

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先日、大宜味村塩屋に行く機会があり、公民館で地元の方々と、戦後の写真を見ながらユンタクした。

いつも思うが、やはり地元のことは地元の方に聞くのが一番だ。得難いナマの声に接し、今後の資料にさせていただこうと思う。

小高い丘の上から塩屋湾を一望できるハーミンゾー(神門)。塩屋の聖地であるが、久しぶりに訪れた場所は周囲の樹木が伸び放題で、期待した眺望は望めなかった。

1949(昭和24)年撮影の上記と同じ場所。
(写真:琉米歴史研究会)

鳥居がある頂上付近で子供達が遊んでいるが、画像が小さすぎて氏名までは特定できなかった。

写真手前に写る曲線は、コンセットの支柱だろうと聞いた。戦後すぐの頃は、米軍がこの地に駐屯していたとのことで、その後、コンセットは住民に提供されたようだ。

ハーミンゾー(神門)から見た塩屋集落。

上記とほぼ同じ角度。ウンガミ(海神祭)が繰り広げられているのか、大勢の人が溢れている。背後の山が、頂付近まで耕作されていることが分かる。
(写真:琉米歴史研究会)

ハーミンゾー(神門)から北側の風景。現在はあちこち樹木に覆われているため、北側を撮影するにはこの角度からしか叶わなかった。

上記の場所とほぼ同じ所から見た1949(昭和24)年の風景。人家が多く立ち並んでいるのも、交通の要所だった同地区の特徴だろう。
(写真:琉米歴史研究会)

少子高齢化が著しいヤンバルでは、小中学校の統廃合が急速に進んでいる。塩屋湾に突き出すように建っていた素晴らしい佇まいの塩屋小学校も、2016(平成28)年3月で廃校となった。長い歴史を誇り、地域に愛されてきた小学校だっただけに、子供達の声が途絶えた建物の周囲を歩き、やるせない思いが溢れた。

塩屋は戦後間もない頃、東村とむすぶ米軍車両の通り道で、米兵からお菓子をもらうことも多かったようだ。米兵の姿を見ると、授業中でも外に駆け出したと体験者が笑っていた。

かつての元気な子供達の笑い声が、どこからか響いた気がしたが、照り返しに蒸された町に人影はまばらであった。

<三嶋>

 

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博物館の石灯籠

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現在の沖縄県立博物館・美術館入口におかれた石灯籠は、特に目を引く存在でもなく、所在なげにみえる。

しかし、ある時、戦後間もなく米軍が開設した東恩納博物館の庭園や、1958(昭和33)年頃に撮影された首里博物館の写真を見て、同じような石灯籠が写っていることに気がついた。博物館に確かめた分けではないが、たぶん同じものではないだろうか。

もともとどこにあったものか知らないが、どちらの博物館も首里城周辺からいろいろな品物を収集したというから、この石灯籠も、その中の一つだったのかも知れない。

現在の沖縄県立博物館・美術館に設置されている石灯籠

戦後間もない時期に設置された東恩納博物館の庭園。写真の右端に石灯籠が写っている。
東恩納博物館は、米国海軍政府のワトキンス政治部長・ハンナ教育部長らにより、1945(昭和20)年8月、沖縄陳列館として石川の東恩納に設立。翌年4月、東恩納博物館に改称された。
(写真:琉米歴史研究会)

1958(昭和33)年頃の首里博物館。写真左に同じ形の石灯籠があり、中央右に龍頭も見える。同博物館は、1953(昭和28)年5月に東恩納博物館と合併し、同時にペルリ記念館と一緒に龍譚池畔に新築移転した。
(写真:琉米歴史研究会)

何気なく撮影された写真をつないでみて、戦後史の一端を除いた気になったが、そこにどんな人々が関わり、どんないきさつがあったのかまでは分からない。

さまざまな出来事があって、過去は今につながっている。時間の波間にこぼれ落ちた事象が、再び浮かび上がって来れるなら、戦後文化の多様なありようにもっと光があたり、共感の幅も広がるだろう。ちょっとした気づきが、その入り口になることは間違いがないだろう。

(三嶋)

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ニシムイ(北森)の美術村

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今年に入ったある日、かつて首里儀保にあった「ニシムイ美術村」の跡地を、取材で訪れた。

大学卒業以来だから、計算すると実に41年ぶり。

学生だった1970年代、この地にはすでに環状2号道路が建設され、美術村は昔話となっていた。そしてボクをふくめた学生の多くは、周辺の戦後の状況やニシムイの足跡を知らなかった(はずだ)。

1945(昭和20)年2月撮影の首里城北側。
<写真:沖縄県公文書館>

現在は美術村を記念する小公園が設置され、複数の解説パネルが取り付けられている。

美術村一番といわれたアトリエでくつろぐ名渡山愛順。
<写真:沖縄県公文書館>

美術村が形成された頃は、戦前に東京美術学校で学び、敗戦後に帰郷した美術家が多く集まっていたが、私が学生だった当時、この地に残っていた人は山元恵一先生だけだった。バイパス道路の建設計画が進み、多くは立ち退きを余儀なくされたためである。

おぼろげに覚えているのは、今も残る山元恵一先生の自宅を訪ねたことと、地域の一番奥に位置する場所にあった大城志津子先生の作業場で、草刈りのアルバイトをさせてもらったことぐらい。ニシムイの話をほとんど聞かなかったのが、今となっては心残りである。

孤高を楽しでいる風の山元先生が、針金のようなやせ細った体にコウモリ傘を持ち、トボトボと歩いていた姿は今も目に浮かぶ。

若くして亡くなられた染織の大城先生は、自分とはほとんど接点がなかったが、ニコニコと笑う朗らかな人だった。そして、腹を空かしているこちらの哀れな状況を見かねてか、食事付きの条件で自宅周辺の草刈りのバイトをさせていただいた。沖縄の染織界を牽引した一人と知ったのは、不明にも卒業後。すでに鬼籍に入られていた。

後列左から名渡山愛順、一人置いて安次嶺金正、玉那覇正吉、安谷屋正義。子供達の中にいるのが山元恵一。
<写真:沖縄県公文書館>

沖縄美術村(ニシムイ)の話は、その後、世間でもあまり話題に上らなかったように思うが、県立博物館・美術館の建設が進み始めたころから、地元の美術史をきちんと調査研究しようという機運が盛り上がった。地域の先達を正確に記録し、評価しようという今に続く流れで、そのための展示会も度々開かれた。

しかし、美術村を経て琉大美術工芸科の教師となった人々が評価される反面、それ以外の道を模索した画家がいたことも、記憶しておく必要があるだろう。

「画家」としての生き方にこだわった、といってもいいかもしれないそれらの人たち(例えば名渡山愛順)に、ある種のシンパシーを覚えるのは、その道を踏み外した自分のルサンチマンかもしれないと考えたりするのである。

<三嶋>

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いつの間にか、知らぬ間に

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中学生のころ、なぜ戦争を止められなかった母に聞いたことがある。国民にも非があったのではないかという意をふくむ問いかけに、仕方がなかったと母は返したのだが、酷な質問だったと今にして思う。

昭和元年生まれの母は敗戦時20歳。生まれた時から戦争は身近にあり、思春期を戦争一色に塗りつぶされた世代。

写真:沖縄県公文書館

富国強兵を唱え、世界の一等国を目指して突き進む日本は、日清・日露の勝利に味をしめ、国内の困難の解を戦争に求めて、他国への侵略を拡大していった。

軍国主義に染まる時代の波は、国民に選択を問いかけることもなく、一人一人を災禍に巻き込んでいったが、戦争に協力的ではないにせよ、「いつの間にか巻き込まれた」と思う人々が多かったようだ。

回り続ける歯車を市民が止める手段はなかったのかと単純に思うのだが、蔓延する時代の空気を個人が払いのけるのは、極めて困難だったのだろうと思う。

ここに、旧佐敷村に残る「能久親王御寄港之地碑」を写した2枚の写真がある。

記念碑は1895(明治28)年5月26日、台湾攻略のため佐敷村馬天港に寄港した近衛師団長・北白川能久親王一行を記念して、1922(大正11)年に建立されたものだ。

1959(昭和34)年6月撮影
(写真:沖縄県公文書館)

2011(平成23)年12月撮影

旧佐敷村で歓迎された北白川宮は、1895(明治28)年台湾で死去した。6年後の1901(明治34)年11月7日には、その亡骸を祀る台湾神社鎮座式に出席した宮妃が、帰途佐敷村に立ち寄り、津波古の住民はこれを歓迎して棒術を披露した。

日清戦争に勝ち日露戦争直前の時期だ。社会は戦争ムードに覆われていたのだろう。「台湾掃討」を成した北白川宮を讃える声は社会を覆い、熱狂的な歓迎だったのだろう。

しかし、長い戦争の時代を経て人々は全てを失った。熱気は雲散霧消し、記念碑は行き場を無くしたまま戦後取り残され、今は旧佐敷町役場の駐車場だった場所の片隅に、放置されている。

社会の移ろいやすさは呆気ない。

民主主義の危機が叫ばれるなか、ボクらはどう生きるのか。

未来を見通すことは難しいが、目先のことにとらわれない慧眼を持つ勇気と、努力を自らに誓おう。きっと、過去の記録や証言が力を添えてくれるはずだ。

<三嶋>

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