高良を歩きました
2013年4月21日 Category: Myある記 Comment : 0
那覇市小禄の高良地区は、現在の姿からは想像できませんが、戦後、大勢の人でにぎわった場所です。
部落の北西に位置する小禄飛行場を米軍が接収したため、自分の土地に帰れない人々があふれたのです。
交差点の写真に写る、右側のビル(1階がローソン)はかつて風呂屋で、その奥には映画館がありました。
この交差点(高良交差点)から、東に続く「高良市場」周辺が戦後の中心地で、さまざまな物が売り買いされたほか、料亭や食堂などもあったようです。1954(昭和29)年当時、小禄村の人口1万4400人のうち、7割強が高良に住んでいたと字誌にありますから、いかに大勢の人が暮らしていたかが分かります。
しかし、他字の人々が「新部落」を建設し、移動しはじめた昭和30年ごろから人口が減り、交通網の整備や商圏の移動が進むと、高良はもとの静かな住宅地へ戻ったようです。
現在、戦後の姿をしのぶものは見当たりません。
バス停に残る市場の名と、狭くて曲がりくねった路地だけが、往時の混乱と喧騒を伝えているようです。
最後に、集落の南側の高台にある小禄南公民館・図書館(旧小禄村役場)を訪ねました。屋上緑化を先取りしたユニークかつエコな建物です。スタッフからは地域に寄せる愛情が感じられ、イイ感じだったことを付け加えます。
(三嶋)

キャンプ端慶覧とデイゴ通り
2013年4月15日 Category: Myある記 Comment : 0
普天間デイゴ通り(県道81号線)から、キャンプ端慶覧内の外人住宅街をスーミしてきました。2001年に撮影した当時と違い、返還に向けて、今はゴーストタウンになっているようです。
基地内には戦前まで、新城、安仁屋、喜友名といったムラがありましたが、戦後米軍に接収されたため、住民は金網の外から、変わり果てた集落跡を眺めたといいます。
ところで、このデイゴ通りには現在デイゴはほとんどありませんが、かつては400本もの並木が続いていました(ボクは見てないけど)。
それは、普天間から焼失した松並木の再生を願い、ジロー・ベーカリーの店主・照屋さんがみんなに呼びかけて植樹したもので、松のかわりに県花の候補だったデイゴが使われたと「沖縄タイムス」1965.5.14にあります。
デイゴの花が咲き乱れると、夏の到来を実感したものですが、害虫の被害が深刻なためか、最近はあまり見かけなくなりましたね。
(三嶋)

ウガン森の住人
2013年4月13日 Category: Myある記 Comment : 0
名護市許田のインターから、国道58号に降りてくるカーブの左側には、名護湾に突き出た森があります。
地元でウガンムイ(御願森)と呼ばれるこの森に、自分たちで家を建て、自給自足に近い形で住んでいる夫妻の話が新聞に出ていました(沖縄タイムス1960.07.24)。
人が住めるような所には見えないと思いつつも、以前から気になっていたので、浜降り(大潮)の翌日、現場に行ってみました。
で、海側から森を見上げながらグルッと一周したのですが、文字通り「取り付く島もない」状態。
どうすれば、あんな所で暮らせたのか・・・まあ50年以上前の話だし・・・今度は地元の方に聞きに来ようかと思いつつ、不完全燃焼のまま引き揚げました。
社会が豊かになりはじめた当時、世間の人たちとは逆にスローライフを志向した人がいたことに、ボクは軽い衝撃を受けたのですが・・・どなたか情報をお持ちの方はいないでしょうかね。
森の頂きに近い場所に御嶽があったので、撮影させてもらいました。
(三嶋)

沖縄の放送史
2013年4月3日 Category: Myある記 Comment : 0
「新都心かわら板」にNHK沖縄放送局の事を書くため、豊見城市高安に行ってきました。ここから、現在地(おもろまち)には、2006(平成18)年に移転したとHPにあります。
NHK沖縄放送局の前身は、戦時中、首里市山川町に造られたのですが、沖縄戦で廃局となったため、戦後沖縄の放送は、米軍と民間放送が牽引したようです。
沖縄人による戦後の放送は、1950(昭和25)年、川平朝申氏らが立ち上げた琉球放送局(AKAR)が、米国民政府民の監視のもとで、旧具志川村栄野比から流した「琉球の声」でした。
その後、いろいろあって1958(昭和33)年10月、琉球放送(RBC)が民間局として誕生し初放送。翌年には沖縄テレビがテレビ放送を開始。
また、1960(昭和35)年には琉球放送がテレビ、ラジオ沖縄(ROK)がラジオ放送を開始しています。
当時、NHKの番組は本土で録画したあと沖縄に空輸され、民間2局がスポンサー付で放映していました。朝ドラや紅白歌合戦にもコマーシャルが入っていたようですね。
戦後沖縄の放送に関しては、宮城悦二郎著『沖縄・戦後放送史』や、川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』などの資料がありますが、沖縄ならではの戦後史のひとつだけに、聞き取りや記録を急ぐ必要があると思います。
(三嶋)

サー(大宜味村塩屋区)を歩く
2013年4月1日 Category: Myある記 Comment : 0
名護博物館友の会主催、「サー(大宜味村塩屋区)を歩く」に参加しました。
朝から豪雨だったため、どうなるかとヤキモキしましたが、塩屋公民館に着くころには雨も上がり、その後の散策も調度いいぐらいの湿り具合で、無事に終了しました。
公民館では、ウンガミ(海神祭)のビデオを見ながら、地元の米須さんの話を聞き、その後やんばる特製「ブナガヤ弁当」を食べたり、塩屋公民館で収集している写真を見たりして楽しくユウンタク。
午後から屋古・田港・塩屋と散策しましたが、事前のレクチャーと米須さんのガイドがあったので、地域のつながりやウンガミについて、多少は理解できたような気がします。
雨に洗われた森の緑を眺め、せせらぎの音を聞きながら、心地いいムラ歩きが楽しめました。
塩屋区のみなさま、ありがとうございました。
(三嶋)
