アメリカ人の沖縄戦
2015年9月6日 Category: Myある記 Comment : 0
デール・マハリッジ著『日本兵を殺した父』を読み、いろいろ考えさせられました。
著者は父親の死を契機に、父が体験したガダルカナル〜沖縄の戦いを長期にわたって調べ、帰還した兵士たちと家族の戦後に肉薄します。
彼らの多くは戦争後遺症(PTSD)で苦しみ、その家族にも陰鬱な陰を落としますが、赤裸々にあばかれるそんなアメリカの戦後は、これまであまり語られなかったのではないでしょうか。
戦争に勝利して帰還した兵士たちが、ほんとうに戦場で経験したことや、彼らが家に戻ったあとのことは無視されてきた、と著者は書いています。
戦争に勝者はいないということです。
著者は父親の死後、戦友だった人たちをアメリカ中から探し、訪ね、彼らの戦争を追体験します。
12年をかけて行われたその追跡で、著者の家族を含めた兵士たち(ほとんど労働者階級出身)の、戦争に翻弄された人生や戦後の実像が明らかになります。
戦勝国の英雄譚や美談ではなく、あくまでも真実に迫ろうとする真摯な態度は、悲惨や怨嗟に満ちた戦争関連の書籍と一線を画すように思います(もちろんそれらの書籍に意味がないということではありません)。
著者の父親と同じく、兵士として戦ったボクの父親も心に闇を抱いたままだったか、何も語らないままずいぶん前に他界しましたが、どんな思いで戦後と向き合ってきたのか気になります。
そして、その体験を聞いていなかったことが悔やまれます。
<三嶋>

1万ドルの貝
2015年9月5日 Category: Myある記 Comment : 0
「生きている化石」といわれる幻の貝、リュウグウオキナエビスをヤンバルで見ました。
1978年10月26日、沖縄で初めて捕獲された個体です。
場所は伊江島沖で、水深120mの地点でした。
調べてみると、1969年8月には、同種の貝がフィリピンと台湾の間の深海で採れ、沖縄の青年が持ち帰って、「世界でわずか3個」と新聞で話題になっています。
また、記事中には、世界で2個目といわれる個体が、日本の水族館に1万ドルで買い取られたとあって、注目されました。
面白いのはそのあと、同年9月4日の琉球新報夕刊に掲載された、「ちっとも珍しくない“幻の貝”」「台湾漁民が大量採取」との記事。
それによると、前出の新聞を読んだ沖縄在住のコレクターが、自分も1個(もらったものを)持っていると名乗り出たほか、高値で売れた情報を知った台湾漁民が「それっ!」と採りに出かけると、たちまち200個以上が捕獲され、そのため相場が急落したとあります。
その後、沖縄初となる写真の個体が生きたまま捕獲されると、再び注目されるようになったので、今でも貴重な「幻の貝」であることは間違いないようです。台湾での価値がどうなったのか、はよく分かりませんが。
<三嶋>

アワセ・ゴルフ場跡
2015年9月4日 Category: Myある記 Comment : 0
アワセ・ゴルフ場跡に出来た、噂の巨大ショッピングモールに遅まきながら出かけ、評判通りのスケールに驚かされながら、結構楽しんできました。
しかし、この地が戦後すぐに造られた米軍のゴルフ場だったことや、「ライカム」が、Ryukyu Command(琉球軍司令部)に由来することも、いずれ忘れられるんでしょうか。
金太郎飴的なビジネス展開で、全国を席巻するショッピングモールでは、地域性は考慮されませから、自分たちの歩いてきたワダチ(轍)は、自分たちで残さなければ消えてしまうでしょう。
そのことを憂慮します。
昭和30年頃、キャディーを務める少年。(写真提供:琉米歴史研究会)
戦前は北中城村比嘉の集落があった場所に、泡瀬ゴルフ場(アワセ・メドウ)が造られたのは1948(昭和23)年。約12万坪のコースは米人専用でしたが、その後は会員になれば日本人でも利用できるようになったようです。
写真のように、キャディーやボール拾いのアルバイトをする中学生は、一時100人もいたようで、学校でも問題になったと当時の新聞(沖繩タイムス1953.08.17)にあります。
道を隔てたフェンスの中は、別世界が広がっていました。1996(平成8)年5月
建設工事が始まった頃。2013(平成25)年6月
土地の記憶は、失われたあとに概して気づくもの。
自分たちの土地で、いつ、何があったのか。記憶を記録することが未来を創ると信じます。
<三嶋>

古い船(日本)を動かせるのは、若い水夫ですね
2015年8月30日 Category: Myある記 Comment : 0
戦争を知らない世襲議員たちが進める、この国の未来は危機的な状態ですね。
拓郎の歌(知ってるかなあ)ではないけれど、未来の舵取りは古い水夫には無理でしょう。国の未来を決める制度設計に、もっと若い人がコミットできる状況をつくることが、潔い老人の態度ではないでしょうか。
てなことを思いながら、この日は、那覇市の与儀公園で行われた、安保法案と辺野古の新基地建設反対集会&デモに出かけました。
最近の集会では、若い人や子供連れの人たちが増えているように感じます。
組織に属さない個人や仲間が、手作りの主張をするのもいいですね。
与儀公園から国際通りをデモ行進。
与儀公園といえば、復帰運動の頃(自分はいなかったけど)の熱気を、思い出した人も多かったのではないでしょうか。
あれから40年以上を経て、いまだ沖縄は日米両政府に振り回される、植民地状態が続いています。
治外法権下の沖縄が憧れ、「本土復帰」の推進力ともなった平和憲法が、今まさに瓦解しようとしています。
<三嶋>

手登根エイサー
2015年8月29日 Category: Myある記 Comment : 0
ウークイの翌日行われる、手登根(南城市佐敷)のエイサーに出かけました。
古式ゆかしいエイサーと聞いていたので、堅苦しいものを想像していたのですが、公民館に集まってきた区の人たちは普段着のままでリラックスムード。ん(?)
開始予定の4時を過ぎ、20数人が集まったころヌール殿内に移動して開はじまり、そのあと6箇所ほどの拝所を回って、1時間半ほどで終了となりました。
実は1年ごとに規模の大小があるとのことで、今年は控えめ目な年だったようです。
手登根エイサーの所作には気負いがなく、子どもから年よりまで誰でも自由に参加できるので、何となく本土の「盆踊り」を思わせます。
素朴で地味ですが、身近な死者の魂を鎮め、供養することがエイサーの起源だと考えれば、他者に見せる/見られるものではない、本来の姿が残っている、と同行した桜沢有理さんに教わりました。なるほど。目からウロコです。
その日は、手登根在住の元ジャーナリスト、宮城鷹夫氏にもお会いすることができ、しかもご自身が昨年出版されたばかりの『時代の風音』(ボーダーインク発行)を頂いたのですが(ラッキー!)、その本によれば、手登根では戦前まで、「エイサー」のことを「ヤイサー」とか「ニンブチャー ベーシ(念仏囃子)」と呼んでいたそうです。
また、歌の始まりから念仏を唱え、それを4回もくり返す例は他にあまり例がない、と書かれています。元々は三線を使わず、カネ・太鼓・小太鼓・おどけ役のパーランクーでリズムを取りながら、男女が手踊りをしたそうなので、先祖供養であるエイサーの原型が、やはりここに残っているといえるようです。
<三嶋>
