年忘れある記
2014年12月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
今年は糸満市内で忘年会を開催するので、その前に南城市を歩こうと、佐敷小谷からジャンクビリ道を登って、稲福集落跡などを歩いてきました。
山の上と山の南側に位置する大城、稲福、真境名へは、このところよく来ていますが、歩きのコースを組み立てたことはなかったので、ちょうどいいシミュレーションになったように思います。
で、やはり、この周辺は魅力的だし、あまり知られていないのが残念だと思った次第。
ジャンクビリ道は、小谷から10分ほどで山の上まで登れます。
道も広くて安全ですし、途中にはガジュマルの大木や、いろいろな樹木もあって、自然観察にはうってつけ。夏場に草が繁茂することや、虫やカ、暑さ対策など、いろいろ課題はあるでしょうが、何とか継続的な利用ができるようにしたいですね。
正月前の草刈りで、稲福の尾根を走る旧道も姿を現しています。
正面に見える建物は、日本刀鍛錬所「兼工房(かねるこうぼう)」。
このあと突撃訪問することになったのですが、大晦日の忙しい時間にもかかわらず、親切丁寧に対応していただき恐縮しました。
しかし、(図々しくも)本物の日本刀を持たせてもらい、得した気分。本物の持つ重量感と迫力、美しさに圧倒され、『バカボンド』の世界観が脳裏を駆け巡りました。
(三嶋)

仲泊ワークショップ報告
2014年12月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
恩納村仲泊で開催したワークショップが、無事終了しました。
恩納村教育委員会と仲泊公民館の協力で、地元の方にも大勢足を運んでもらい、好評だったように思います。
特に地元のお年寄りや、関係者の声を直接聞くことができたのは、有意義だったのではないでしょうか。現場まで同行してもらい、そこで体験した話や伝承を聞く機会は、地域の方でもそう多くはないでしょう。ましてや、われわれのような外部の人間はなおさらです。
地域散策は、ともすれば難しい歴史や文化財情報などを、一方的に聞かされがちですが、参加者と地域の方が一緒に学び、楽しめるような流れをつくることが、重要ではないでしょうか。
そういう意味では、今回ガイドをお願いした玉城さんのような、事前調査と地元の方との懇談を重ねた上で当日にのぞみ、島クトゥバを駆使しながら状況に応じて参加者の話を引き出していくスタイルは、われわれが目指す新しい形なのではないかと思いました(すこしホメすぎですが)。
仲泊公民館そば。撮影:玉那覇善秀
四つ角に立ち止まり、いつから、何のために建っているのか分からない“メントー”という不思議な石について、仮説や思い出などをみんなで語りあう。
93歳でもみんなと一緒に歩き、たくさん語ってもらったおばあちゃんの笑顔が、参加者の気持ちを代弁したいたのではないでしょうか。
(三嶋)

久しぶりのFMレキオ「沖縄ある記」
2014年12月19日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
FMレキオで毎月第3金曜日、午後3時〜4時に放送している「沖縄ある記」に久しぶりに出演。
現在は國吉宏昭氏と玉那覇善秀氏が、毎回行き当たりばったりのトークを繰り広げて奮戦中(なので、みなさん聞いてあげて下さい)
しかし、今年最後となる今回は、2014年をふり返るということで、三人集まってあれこれユンタク。先輩二人の前で、多少言いすぎたかとチョッピリ反省しましたが、まあいいかあ。
来年もよろしくお願いします。
(三嶋)

大謝名取材記
2014年12月6日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』の取材で大謝名を歩きました。
案内は、地元の天久さんと同級生の崎間さん。大らかな天久さんとツッコミの崎間さんは、博識かつ名調子の絶妙のコンビ。楽しく学ばせてもいながら、大謝名三差路や市場通り、メーヌカー、黄金宮等々を歩く事が出来ました。
メーヌカーの解説板の前。パイプラインと、大謝名小学校の間にはさまれた空間は、通りの喧騒を忘れさせるオアシスです。勢いよく水が流れ落ちるカーは、子供たちの生きた教材として多様な利用が可能でしょう。
かつてはガジュマルの大木が木陰をつくったと聞きましたが、現在はありません。
天久さんの門中墓と、その近くにある旧日本軍陣地跡(写真中央右の穴)。沖合の艦船を攻撃する大砲もあったとの話ですが、詳しくは分からないようです。
この墓の南側には、沖縄戦における激戦地のひとつ嘉数高地があるので、この陣地はその前哨戦となった場所ではないでしょうか。
天久さんは、米軍が沖縄本島に上陸した1945(昭和20)年4月1日が、嘉数国民学校への入学式だったとのこと。しかし、その予定がかなうわけもなく、弾雨の中を逃げまどって嘉数高地手前のガマで捕虜になったとのこと。戦後、収容所から帰村して、小学校に通えるようになった時には、4年生になっていたそうです。
天久門中の墓から見た海。かつては水田が広がる先に海岸が見えたのでしょう。
米軍に捉えられ、ガマから出てきた天久さんは、沖合を埋めつくす米艦船の数に圧倒されたと語っていました。
旧県営鉄道(ケービン)嘉手納線の路線跡。国道58号と並行して走る、県営大謝名団地横の小道。写真右手前に大謝名駅があったとのことですが、当時を物語るものは何も残っていません。
戦前に那覇までケービンに乗ったことがあるという天久さんも、汽車のスピードに驚いた記憶しかなく、駅舎の形などまったく覚えていないとのこと。鉄道ファンならずとも、その片鱗でも聞けたらと思いましたが、残念。
詳しい話は『しまたてぃ』に書きましたので、そちらを読んでください(出し惜しみしてスンマセン)。
(三嶋)

佐敷と大里をつなぐ道
2014年11月23日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
徒歩が当たり前の時代、南城市佐敷小谷と山の反対側の旧大里村大城区に住む人たちは、よく往来していたそうです。
「ジャンクビリ道」と呼んでいたこの道を、小谷や隣の新里の人たちは、地域の特産品である竹細工(バーキ)をかついで登り、糸満まで歩いて売りに行っていました。
しかし、車社会が到来すると(1960年代)、山越えの道は忘れられ、人々の交流も途絶えがちになっていました。
昨年、小谷でそんな話を聞き、体験者がまだいるにも関わらず当時の記録や記憶が伝えられていないことに、何とも残念な気がしていました。
が、南城市商工会や地元の方たちが一緒になって、かつての道が改修され、立派な山道が復活することとなりました。
今後はこの道を利用し、以前のように、山の西側に位置する大城地区(稲福・真境名をふくむ)との往来も活発化していけば、地域間の交流が復活し、相互の活性化が期待できるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、大城区のあちこちを回ってきたので、少しだけここで紹介しようと思います。
小谷から大城に続く山越えの「ジャンクビリ道」。復元された山道は思ったより道幅が広くてきれい。「自然観察の森」として、一時期は整備されていたせいかもしれません(その後、ほったらかされた?)。
大きなガジュマルや各種の樹木、古いお墓なども見ながら、小谷から10分ほどで頂上に到着します。尾根を走る立派な道路は、東に行くと「ユインチホテル」につながります。山の西側が大城区となります。
尾根を走る道路沿いにある「大城按司の墓(ボーントゥ墓)」ふきんから見た、大城城跡(シマ言葉では「ウフグスクグスク」とちょっと面倒臭い)。写真の一番奥に観える山の頂上に、大城グスクはありましたが、現在は何も残っていません。
尾根を走る道路を西に進むと、かつて稲福集落があった場所に続きます。
写真の石碑は、集落の戦争慰霊碑が置かれた森の中に立っています。手書きで刻んだと思われる文字は「ブラジル再渡航記念/大前小(屋号) 玉城福吉 1978 9月」と読めます。周辺には、ブラジルとアルゼンチンに渡る別の方が、それぞれ建てたと思われる石碑もあります。
森の中に眠るこれらのコンクリートの柱を建てた人たちは、どんな気持ちでこれを残したのでしょう。また、その後、どんな人生を歩んだのでしょうか。
真境名樋川(まじきなヒージャー)。稲福の西隣に位置する真境名集落に残るカー。すぐそばには殿やいくつもの御嶽が集中し、一帯は村一番の聖地にふさわしい厳かな雰囲気が漂っています。
向かって左側の角ふきんはヌル(ノロ)が座る場所で、「ヌルのお座敷」と呼ばれる石が今も残っています。
(三嶋)
