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中村英雄さんと渡久地をあるく

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『しまたてぃ』の取材で、本部町健堅に住む中村英雄さんと、町の中心地である渡久地界隈を歩きました。
渡久地は、戦前から本部半島で一番のマチで、カツオ漁や町営市場、岸本食堂など、ネタはたくさんあります。
そこに、中村さんの体験談も加わるため、紙面に納まり切らないかも…と心配になりました。

本部に行く前に立ち寄った、名護市場にあるギャラリー「スケッチ」前の広場で食べた昼食。
隣の食堂から取り寄せた料理ですが、戸外でユンタクしながら、別け合って食べる味は格別でした。
※試みられる方は、ハンパナイ量なのでご注意を。

本部町市場の角に立つ復帰前の道標。起点羽地村、終点本部町とあり、側面にはR124(軍道124号)と刻まれています。
通りの向いの路地には、超有名店・岸本ソバがありますが、あいかわらず観光客でいっぱい。行列が途切れません。

ここから、中村さんと一緒に伊豆味線を歩き、満名川に出て、川沿いに市場に戻り、港まで往復というのがこの日のコース。
見どころ満載で、面白い所だらけという感じでしたが、88歳になる中村さんのシャベリと元気な姿が、一番の見どころだったかも。
ウミンチュのDNAか、追込み漁やダイビングで鍛えたせいか、丈夫な体と衰えない記憶力にはビックリでした。


渡久地港を歩く中村さん。
カツオ漁でにぎわった町も、今は1隻が漁を続けるのみとか。

マキが積み上げられた戦後の渡久地港(写真提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
漁港であると同時に貨物の中継港でもあり、やんばると那覇をむすぶ重要拠点として機能していました。

まだまだ続きます(たぶん)。
<三嶋>

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本部の撮影場所が分かる

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久しぶりに本部の中村さんを訪ねました。
すると、以前あずけておいた写真の、撮影場所がどうやら分かったとのことで、砂浜の位置や岩、家並みから、「塩川だろう」と地元の知り合いが話していたとのことです。
海岸道路が建設されてからのこの辺りの変わりようは凄まじく、採石工事で山も形を変えているため、確認は難しそうでが、この次に来る時に実行してみようと思います。

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撮影:H・テューン 1948(昭和23)年8月6日
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会

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中村英雄さんのサバニ

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本部町健堅の中村さんを訪ね、一緒に本部町立博物館へ行きました。
そこに展示されている、中村さんの兄さんが戦後、国頭村で造らせたサバニを見るためです。
中村さんは、兄や先輩たち6人でこの舟をかつぎ、名護の山を越えて東海岸に出ると、辺野古沖で漁をしたそうです。
え? 舟をかついで山を越え、大浦湾に……って、直線でも5〜6kmはありますよ! 簡単に言わないでください、とはじめて聞いた時は絶句したものです。

驚愕の苦労をしてまで山を越えたのは、本部周辺では砲爆撃で魚がいなくなっていたからで、辺野古ではスズメダイを大量に獲り、それをコメに変えると再び舟を担ぎ、本部に帰ってきたとか。
また、西海岸で漁が出来なくなる冬場には、塩屋湾から山を越え、東村川田の海で漁をしたこともあったとか(これも半端な距離ではありません)。
しかし、さすがにあまりのキツさに2年ほどで根を上げ、逃げ出したさと笑う中村さんでした。

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中村さんと博物館に寄贈されたサバニ。

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やはり中村さんが寄贈したカツオ漁に関する資料も、たくさん展示されています。
(三嶋)

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健堅に流れ着いた遺体

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本部町健堅に住む中村英雄さんのお宅で、聞き取り&ユンタクしてきました。
中村さんはさまざまな体験をされていて、興味をそそられる話が目白押しなんですが、今回は戦時中、近くの浜に流れ着いた日本兵の遺体について、現場を案内してもらいながら、お話を聞かせてもらいました。

それは1945(昭和20)年2月のことで、近くの渡久地港の入口付近で沈んだ輸送船「金剛丸」に乗っていた、陸軍の軍属らしいと中村さんは語っています。
遺体は駐屯していた宇土部隊の兵士が焼いて葬ったのですが、当時中学生だった中村さんも手伝わされたので、今でも覚えているようです。

しかし、戦後、中村さんが本土から戻ってみると、立てられていた墓標は米軍によって引き抜かれ、遺骨を埋めた場所は埋め立てられていました。
以来、遺骨のことは気になったものの、日々の生活に追われるうちに年月が経ってしまったとのこと。しかし、当時のことを知る人がいなくなった現在、自分が伝えなければ、あの兵隊たちは忘れられてしまうと危惧しています。
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『LIFE』1945年5月28日号に掲載された現場写真(資料提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
14名の墓標があり、陸軍軍属誰々と氏名も鮮明に見えます。向いは瀬底島。

IMGP4708
上記写真の場所を、海側から見た写真。
遺骨を葬った場所は土砂に埋もれ、樹木が覆っているため近づくことが出来ません。
IMGP4707
遺体が流れ着いたころは白い砂浜だった場所。
金剛丸に乗っていた方が戦後一人訪ねてきたそうですが、すっかり変わった景観に驚いていたといいます。

若い時分にはウミンチュ(漁師)だった中村さんによれば、この辺の海にはジュゴンも普通にいたそうですが、海洋博の工事が始まって姿が消えたということです。
戦争や開発によって汚れ、壊されてきた海を目の前に、日々を過ごす中村さんの胸中を思わずにはいられません。
<三嶋>

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迅鯨を訪ねて

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以前からお付き合いさせてもらっている大嶺昇さんと一緒に、本部町の中村英雄さん宅を訪ねました。

今年82歳になる大嶺さんは、昭和19年9月、那覇市立甲辰小学校6年の時、学童疎開で沖縄を離れました。その時、那覇港から鹿児島港まで乗った船が、潜水母艦・迅鯨(じんげい)でした。

迅鯨はその翌月、本部町と瀬底島との間の海で、米軍機による十・十空襲(10月10日)を受けて沈められ、乗員135名が戦死しました。
その時、燃え盛る迅鯨に駆けつけ、30名ほどの乗組員を救助した3人の若い漁師がいました。サバニに乗ってトビウオ漁に向かう途中に遭遇したもので、当時14歳の中村英雄さんも、そのなかの1人でした。

大嶺さんたちの学童疎開は、甲辰小学校の同級生たちも乗った対馬丸が、米軍潜水艦の魚雷で8月22日に沈められていただけに、大きな不安があったと思われます。が、迅鯨が「大きな軍艦だった」ということで、多少は安心できたのかもしれません。

命を預けたその迅鯨がこの海域で沈み、そこに中村さんが深く関わっていることを知った大嶺さんは、以前から訪ねたいと思っていたようです。この日の出会いで、胸のつかえが少しは下りたのであれば嬉しい限りです。

また、中村さんは、昨年、奥さん(節子さん)を亡くされていますが、その奥さんが大嶺さんの後輩にあたる甲辰小学校の卒業生と聞いて、不思議な縁も感じました。生前にお会いできていたらと残念ですが、迅鯨つながりで得られた出会いに感謝です。
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写真右下に見える、煙を上げている船が迅鯨。手前が瀬底島、対岸が本部半島。
中村さんの証言では、迅鯨は十・十空襲から5日ぐらい燃えていたそうなので、撮影はその間になされたもの。
写真はロバート・ロック氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

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水深が浅いため、船底が海底につかえたまま赤錆びる迅鯨(1945〜46年ごろ)。
船体は1952(昭和27)年7月25日、沖縄初の沈船引揚げで7年ぶりに浮上。下関に曳航されて解体されました。
写真はニール・H・ローレンス氏から、NPO法人琉米歴史研究会に寄贈されたものです。

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左から大嶺昇さん(82歳)と、中村英雄さん(85歳)。
中村さんは自宅近くのこの慰霊碑を毎日見守り、10月10日には慰霊祭も執り行ってきました。
(三嶋)

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