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6月4日(日)、「渡久地あるき」をやります!

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このところ訪れる機会が多い本部町、せっかくなので、みなさんにもっと知ってもらおうと、沖縄ある記主催の「渡久地あるき」を実施することにしました。
梅雨に入ったし、本部町浜崎でハーリー大会もあるようなので、当日はどうなることか不安もありますが、何とか成功するよう応援のほどよろしくです。
って、ヒマな人は(そうでない人も)是非来てください。一緒に歩きましょう!


渡久地あるきチラシ

<三嶋>

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本部追伸

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『しまたてぃ』の追加取材と、場所がわからなかった琉米歴史研究会所蔵の写真のひとつを確かめようと、本部町に行って来ました。


背後に見える島が、右端の形から瀬底島ではないかと玉城一男さんが指摘していましたが、比べてみると見事、ピタリと一致しました。
ずっと恩納村の名嘉真ふきんではないかと考えていたので、けっこう驚きました。思い込みはいけないですね。
次に、写真左の松が生えた岩はどこだろうかと探した結果、次の場所ではないかと思い、撮影してみた次第(いまいち説得力に欠けますが)。


でも、現在の道路の右側が海だったことは、中村英男さんも話していました。
狭かった本部港南側の土地を拡大するのは住民の悲願であり、戦後の埋め立てが続いた結果、今の街並みが出来上がったことになります。


山の上から見た本部町谷茶。渡久地港の前にかかる本部大橋や、伊江島も一望できる場所。だからこそ、戦時中には、敵を監視する見張所(監視哨)が置かれたのでしょう。


ということで、お馴染みの中村英男さんに案内してもらい、監視哨を訪ねました。
中村さんは15歳の時、「十・十空襲(1944.10.10)」の前日、9日の夕方までこの場所で実際に勤務していました。
ここでは米軍機のシルエットを覚えたり、遠くに見える伊江島タッチューの高さを目安に、飛行機の高度を推定したりしていたそうです。

痛ましいのは、任務を引き継いだグループの中にいた同級生(比嘉君)が、空襲のさなかに亡くなったことで、一番若かった彼は、空襲で電線が不通となったため、敵機来襲を那覇に伝達する指示を受けて山道を駆け下り、近くの本部警察署を目指したのですが、その後、消息が途絶えてしまいました。
この同級生の死はほとんど知られておらず、今は語る者もいなくなったそうですが、その中村さんも「十・十空襲」で壮絶な体験をしたことは、以前ここで書いた(はず)と思うので割愛です。
<三嶋>

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渡久地をあるく2

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本部町渡久地のレポート第2弾。
今回は一人でぶらつきました。

細い通路で区切られた町営市場のなか。
薄暗くて、足を踏み入れるのに躊躇しますが、若者が立ち上げたとおぼしき小さな雑貨店などあって、掘り出し物を捜す人にはいいかも。
町の衰退を食い止めるべく、いろんな企画やイベントが行われている所なので、少しでも貢献したいところでしたが、この日は(も?)金がなかったので、ヒヤカシに終わってしまいました(トホホ)。

街のなかで見つけた戦後史を物語る塀。
丸い穴が規則的に並ぶこの鉄板は、たぶん米軍が使っていたもの。正式名称は知りませんが、ぬかるみや滑走路などで、足下を固めるために敷き詰めていたものですね。たぶん。

満名川に架かる第一渡久地橋(昭和50年3月竣工)。
本部市場から北に抜ける古い方の橋ですが、もとはこちらが大通りで、蔡温時代に最初の木橋が造られています。
戦災にもあわず、戦後も石橋が残ったのですが、橋の向こう側の急なカーブを、米軍の大型トレーラが曲がり切れずに転倒したそうで、その後、新しい橋が渡久地十字路から北に続く道に架けられました。

満名川河畔。
1946(昭和21)年9月、戦後初の水産関係教育機関、沖縄開洋高等学校が開校した所です。
バラック小屋が2〜3棟と、米軍払い下げのコンセットがあるだけの貧弱な校舎でしたが、沖縄各地から集まった60名の若者たちが、海の男になる夢をもって勉学に励んでいたそうです。
しかし、学校はその後、那覇市泊に移転、沖縄水産高校と改称して再出発します。
本部町民は期待を裏切られ、肩を落としたといいますが、幻の学校を知る人も、今となってはほとんどいなくなったようです。

今回はこれまで。次があるかな?
<三嶋>

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中村英雄さんと渡久地をあるく

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『しまたてぃ』の取材で、本部町健堅に住む中村英雄さんと、町の中心地である渡久地界隈を歩きました。
渡久地は、戦前から本部半島で一番のマチで、カツオ漁や町営市場、岸本食堂など、ネタはたくさんあります。
そこに、中村さんの体験談も加わるため、紙面に納まり切らないかも…と心配になりました。

本部に行く前に立ち寄った、名護市場にあるギャラリー「スケッチ」前の広場で食べた昼食。
隣の食堂から取り寄せた料理ですが、戸外でユンタクしながら、別け合って食べる味は格別でした。
※試みられる方は、ハンパナイ量なのでご注意を。

本部町市場の角に立つ復帰前の道標。起点羽地村、終点本部町とあり、側面にはR124(軍道124号)と刻まれています。
通りの向いの路地には、超有名店・岸本ソバがありますが、あいかわらず観光客でいっぱい。行列が途切れません。

ここから、中村さんと一緒に伊豆味線を歩き、満名川に出て、川沿いに市場に戻り、港まで往復というのがこの日のコース。
見どころ満載で、面白い所だらけという感じでしたが、88歳になる中村さんのシャベリと元気な姿が、一番の見どころだったかも。
ウミンチュのDNAか、追込み漁やダイビングで鍛えたせいか、丈夫な体と衰えない記憶力にはビックリでした。


渡久地港を歩く中村さん。
カツオ漁でにぎわった町も、今は1隻が漁を続けるのみとか。

マキが積み上げられた戦後の渡久地港(写真提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
漁港であると同時に貨物の中継港でもあり、やんばると那覇をむすぶ重要拠点として機能していました。

まだまだ続きます(たぶん)。
<三嶋>

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本部の撮影場所が分かる

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久しぶりに本部の中村さんを訪ねました。
すると、以前あずけておいた写真の、撮影場所がどうやら分かったとのことで、砂浜の位置や岩、家並みから、「塩川だろう」と地元の知り合いが話していたとのことです。
海岸道路が建設されてからのこの辺りの変わりようは凄まじく、採石工事で山も形を変えているため、確認は難しそうでが、この次に来る時に実行してみようと思います。

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撮影:H・テューン 1948(昭和23)年8月6日
写真提供:NPO法人琉米歴史研究会

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