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塩屋・奥を歩きました

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久しぶりとなった第2土曜日の定例活動。名護の宮城一夫さんの案内で塩屋を歩き、辺土名で昼食後、奥の村を前区長の島田さんの案内で歩きました。
地元の方との同行は今さらながら面白く、「ここだけの話」もあるので油断がなりません。ピーカンの天気にかなり疲れましたが、タダで楽んで申し訳ないほど充実した1日でした。

もうひとつ気になっていたのは、座津武(ざつん)橋。1936(昭和11)年5月に架けられたコンクリート橋を、みんなで見ようと思っていたのです。
ところが! 
現在、国頭の国道58号線は護岸を強化するのか、どこも道路工事中。立ち入り禁止でもあり、車を止めることもかなわず、まだ架かっていることを車上から確認しただけでした。
でも、すぐ北側には新しい座津武トンネルも建設されていたので、たぶんこの橋も新しく掛け替えられるのではないでしょうか。
(ということは、この姿が見られるのは今だけか?)
海風にさらされながら、完成後70年以上が経過したこの橋を惜しむのは、ボクだけでしょうか(嗚呼)
(三嶋)

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フリオさんの彫刻

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「新都心かわら板」9月号で、那覇国際高校にあるゴヤ・フリオさんの彫刻を紹介しました。
周辺がまだ原野だった1998(平成10)年に開校した同校の、校門右にある鉄のオブジェです。
以下、「新都心かわら板」の「新都心を歩く-7」から。

「~この高校にある現代彫刻に気がついた方は、さほど多くないでしょう(学生や保護者以外は入れない感じですしね)。ゴヤ・フリオ氏の「道化の箱船」という、金属作品で、開校した年に制作されたものです。
フリオ氏は1953年アルゼンチンのブエノスアイレス生まれ。両親が西原町出身の移民二世です。1985年来沖して以来、多くの作品を制作し、数多くの受賞歴をもつ作家です。県立博物館・美術館の中庭にある、赤と青の大きな作品も氏の手によるものです。沖縄人の陽気な気質に、アルゼンチンで培われた大らかな感性が融合して、ダイナミックかつ柔らかな(鉄を使っても)作品が生み出されているように思われます。」
(三嶋)

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ハーフムーンヒルが無くなりました

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5月30日付ブログの続編です。
新都心周辺を通る方はお気付きでしょうが、“ハーフムーンヒル”として知られる森が、道路建設によって完全になくなりました。
写真(1997年撮影)に写る姿は何の変哲もない森ですが、昭和20年5月下旬には、すぐ西に位置するシュガーローフとともに日米の兵士が死闘をくり広げた場所です。
日本軍はここに昭和19年夏ごろから陣地壕(真嘉比壕)を構築し、陸軍独立混成15連隊砲中隊102人が駐留したようですが、93人が死亡したという以外、詳しい情報はあまり知られていないようです。戦後には3ヶ所あった壕の出入口もふさがれ、厚生省の遺骨収集が1997年に初めて行われるまで、ほとんど忘れられていたと思われます。
行政の対応にも呆れますが、那覇新都心の復興事業と連動した交通混雑緩和のためか、道路建設ありきともいえる流れでこの山が削り取られていく様は、見ていてたいへん辛いものでした。
心ある人たちが遺骨収集を継続していたものの、まだ遺骨が残っていただろう土を削り、埋め固めて道路が造られたと思うと、やるせない気持ちがあふれてきます。
ここから松川方面に抜ける道路はそろそろ開通します。
せめてこんな山があったことは、忘れたくないものです。
(三嶋)

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神風特別攻撃隊「草薙隊」のこと

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とある事情があり、愛知県豊田市に行ってきました。
名鉄豊田線の浄水駅で降りると、駅前に「神風特別攻撃隊草薙隊之碑」を案内する石柱があり、気になったので捜してみました。
すると、神社のそばに石碑や戦争遺品などがあり、新しいマンションやビルの建設ラッシュのようにみえる一帯が、かつて海軍航空隊の基地で、ここから鹿児島の国分基地を経て、沖縄本島西方の米艦船に突入した部隊(草薙隊)があったことを知りました。驚きました。
石碑によると、昭和20年4月6日から28日にかけて行われた3次にわたる突入で、戦死者56名を出したとあります。
スピードの出ない旧式の99式艦上爆撃機に乗った若者達は、おそらく米軍のレーダー網に補足され、最新の戦闘機や強力な艦船の砲弾を浴び、次々に散っていったはずです。

作家・城山三郎は、『指揮官たちの特攻』の取材で伊平屋島を訪れた際、島に渡るフェリーの上から、特攻で亡くなった数多くの兵士が周辺の海をさまよい、海坊主のような姿で現れる幻影をみたと書いています。
本土各地から集められ、特攻に赴いた若者たちは、はたして沖縄の海にたどり着いたのでしょうか。その目に、沖縄はどう映っていたのでしょうか。そして、その魂は今もさまよっているのでしょうか。
この日は偶然にも、8月15日でした。
(三嶋)

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琉米文化会館のサービス

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 1951(昭和26)年から復帰前まで、那覇にあった琉米文化会館の閉館時間は、夜9時半だった。
 誰もが日々の暮らしに追われていた時代、実生活をしばし忘れ、読書や文化・芸術に癒されたいと望んだ人は多かっただろうし、明るい未来を夢見て勉強に打ち込んだ学生も多かっただろう。そんな人には、夜遅くまで開いている同館の存在は、とてもありがたかったはずだ。
 敗戦からわずか6年後に開館したそこは図書館であり、ギャラリーであり、人々が集える総合文化センターであった。米軍の住民統治の装置だという話がささやかれたが、かつて働いていた大嶺昇さんによれば、地域の人々へのサービスを第一に考え、住民のために汗を流すことをいとわずスタッフは働いていたという。

 琉米文化会館の話を思い出したのは、あちこちの図書館で最近、自動貸出しを目にする機会が増えたからである。
 コスト削減がその理由だろうが、経済効率優先の考えを持ち込む発想には、人間を相手にしているという自覚が欠如しているように思えてならない。読書の楽しさや集積された知の体系に誘う図書館の役割は、利用者との触れ合いが基本であり、貸し出し業務は、そのきっかけだと考えるからである。
 経費削減のおり、「忙しいし人がいない」という答えが聞こえてきそうであるが、宮古・八重山の県立図書館分館廃止などを断行した先に、どんな未来があるというのか。予算・人員が確保できれば・・・といわれても、縮小経済が続くなかそれは望めないだろう。
 だとすればどうするのか。行政と住民との共生が残された道ではないか。
 もはや行政がすべて賄うことはできないからこそ、行政批判をくり返してきた住民もふくめて、地域のことは地域で解決するための仕組みを構築するのである。みんなで応分の汗をかくことをモットーに、コストをかけない地域の交流拠点として、図書館や文化施設を使い倒すのである。
 焼け跡から文化復興を成し遂げた人たちに習い、ボクらも行動する時を迎えているのではないだろうか。
(三嶋)

※写真は昭和30年代の那覇琉米文化会館。提供は大嶺昇さん

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