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佐敷と知念をつなぐ道

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このところ通っている、南城市佐敷の手登根(てどこん)の続報。
手登根の背後に連なる丘陵地帯は、旧知念村知念との境になります。
かつては両者をむすぶ山道がいくつかあったのですが、がけ崩れが多い地帯なので現在それらの道は閉ざされ、新しく造られた車も通れる農道が1本あるだけとなっています。
国道331号を海沿いに走るよりかなり大幅にショートカットできるため、ボクもこの道はよく利用していますが、琉球王国時代の王女も通って斎場御嶽や久高島に詣でた話も残るだけに、かつての歴史をふりかえりながら歩くイベントが出来ないかと考えます。
中城湾に面した佐敷から、太平洋に面した知念にいたる古代のルートを体現し、地域をまたいで往来していた人々の暮らしや、価値観を学ぶ機会になると思うんですよね(距離もあるし高低差もあるのでシンドイでしょうが)


山側から見た手登根の集落。中城湾に面した平地には、1950年代まで水田が広がっていました。


知念側から見た佐敷側に下りる道。手登根と接する字伊原(いばら)・字屋比久(やびく)の集落が見えます。
ガードレールの右側の谷が、かつてスクガー(底川)集落があった場所。1960年代まで居住した人によると、ここから佐敷側のバス停まで歩き、知念高校に通ったとのことでした。


スクガー(底川)を守る会の拠点、「木創舎(きづくりや)」から見た佐敷方面の景観。
左端に見える風車があるあたりが通称“アカバンター”で、尚巴志王の弟にあたる手登根大比屋(てどこんウフヤー)という人が、ここから海岸ふきんまで石を投げたという伝説があり、それが次の写真ですね。


これが、手登根の海岸近くに突き刺さったとされる“フッチャー石”。
山の上からここまで投げたんですねえ、って、んなアホな!
港が近い場所なので、交易船がバランスをとる重りか碇にしたのではないかという説もあり、そちらの方が説得力がありますが、畑のなかに唐突に石が立っている光景は確かに不思議。
一体なんなんでしょうね。
(三嶋)

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シンタの復元もアリでは?

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旧大里村真境名(まじきな)は、かつてシンタ作りで知られた集落です。
シンタとは島尻周辺の呼び名で、他の地域ではカマンタと呼ぶことが多い鍋のフタ。一番大きなシンメーナービなどでイモを蒸す時など、蒸気がいい具合に抜けて重宝したそうです。おもにススキの葉を使い、かつてはあちこちの家で作っては那覇や糸満に売ったそうですが、最後まで頑張っていたおばあちゃんが作れなくなったので、途絶えるのではないかと危惧していました。
が、公民館で聞いてみると、何と、自分が作れると言うおじいちゃんがいるではないですか。何ということでしょう。ビックリです。聞いてみるもんですね。
今すぐ計画がある分けではありませんが、もう一度作ってもらい、材料や技術を若い人たちに伝えられたらイイんですけどね。資料としてももちろんですが、かつては地域を代表する技(わざ)ですし、特産品だった分けなので、消えてしまうのはもったいないですね。
今風にアレンジしたり、何とかならないかなあ。


真境名公民館に置かれた、大小二つの“力石”。
かつての村の青年たちは、近くのカンナムイと呼ぶ場所で、「イッパー」と呼ばれるこの石を持ち上げて力競べを行っていたそうです。


メーチヂグヮーと呼ばれる現在のゲートボール場。
今ではちょっと想像できませんが、以前は小高い森になっていて、子どもたちの遊び場だったそうだ。夜になると、ここから南の方角に“火の玉”が見えるという場所でもあり、子供たちが肝試しをしたとのことです。
そんな思い出を、楽しげに語るお年寄りの笑顔は何とも魅力的で、接するこちらも楽しさが伝染しますが、考えると、彼らは沖縄戦を幼少に経験し、戦後を必死で生きてきた人たち。その軌跡や労苦に思いを馳せると、笑顔も特別のものに感じられたのでした。
(三嶋)

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手登根は寒かった

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って、どこも寒かったんですが。
昨日の名護に続いて今日は南城市。ご無沙汰していた佐敷の手登根で、調査歩きの第2弾といったところ。


写真だけ見るとここはどこ? 沖縄ではないみたいですね。
天気もいまいち、風もあって少々つらい歩きとなりました。


山側の道。
今は途切れていますが、かつては首里・佐敷から続く道が手登根から山頂に続き、反対側の知念につながっていたようです。 これが“ユックイヌヒラ(日暮れ坂)”と呼んだ道の一部かもしれませんが、他にも道があったそうなので、確証はありません。いずれも、当時の人は山頂部(アカバンタと呼んだ)まで登ると、一休みして知念に下って行ったんでしょうね。
今では樹木に覆われてはっきりしませんが、「掃除すると通れるはず」とのことなので、古道が復活すると面白いでしょうね。って、言うのは簡単ですが。


集落内で見つけた家の柵(?)。再利用で、ビール缶も浮かばれるのではないでしょうか。
こういった、暮らしの中から生み出されるアイデアやジンブン(知恵)、自由な手づくり感が、沖縄らしいところでは。何でもアリだし、何をしても許されるっていう解放感がありますね。
う〜ん、ビール缶恐るべし。
(三嶋)

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年忘れある記

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今年は糸満市内で忘年会を開催するので、その前に南城市を歩こうと、佐敷小谷からジャンクビリ道を登って、稲福集落跡などを歩いてきました。
山の上と山の南側に位置する大城、稲福、真境名へは、このところよく来ていますが、歩きのコースを組み立てたことはなかったので、ちょうどいいシミュレーションになったように思います。
で、やはり、この周辺は魅力的だし、あまり知られていないのが残念だと思った次第。


ジャンクビリ道は、小谷から10分ほどで山の上まで登れます。
道も広くて安全ですし、途中にはガジュマルの大木や、いろいろな樹木もあって、自然観察にはうってつけ。夏場に草が繁茂することや、虫やカ、暑さ対策など、いろいろ課題はあるでしょうが、何とか継続的な利用ができるようにしたいですね。


正月前の草刈りで、稲福の尾根を走る旧道も姿を現しています。
正面に見える建物は、日本刀鍛錬所「兼工房(かねるこうぼう)」。
このあと突撃訪問することになったのですが、大晦日の忙しい時間にもかかわらず、親切丁寧に対応していただき恐縮しました。
しかし、(図々しくも)本物の日本刀を持たせてもらい、得した気分。本物の持つ重量感と迫力、美しさに圧倒され、『バカボンド』の世界観が脳裏を駆け巡りました。
(三嶋)

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佐敷と大里をつなぐ道

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徒歩が当たり前の時代、南城市佐敷小谷と山の反対側の旧大里村大城区に住む人たちは、よく往来していたそうです。
「ジャンクビリ道」と呼んでいたこの道を、小谷や隣の新里の人たちは、地域の特産品である竹細工(バーキ)をかついで登り、糸満まで歩いて売りに行っていました。
しかし、車社会が到来すると(1960年代)、山越えの道は忘れられ、人々の交流も途絶えがちになっていました。
昨年、小谷でそんな話を聞き、体験者がまだいるにも関わらず当時の記録や記憶が伝えられていないことに、何とも残念な気がしていました。
が、南城市商工会や地元の方たちが一緒になって、かつての道が改修され、立派な山道が復活することとなりました。
今後はこの道を利用し、以前のように、山の西側に位置する大城地区(稲福・真境名をふくむ)との往来も活発化していけば、地域間の交流が復活し、相互の活性化が期待できるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、大城区のあちこちを回ってきたので、少しだけここで紹介しようと思います。


小谷から大城に続く山越えの「ジャンクビリ道」。復元された山道は思ったより道幅が広くてきれい。「自然観察の森」として、一時期は整備されていたせいかもしれません(その後、ほったらかされた?)。
大きなガジュマルや各種の樹木、古いお墓なども見ながら、小谷から10分ほどで頂上に到着します。尾根を走る立派な道路は、東に行くと「ユインチホテル」につながります。山の西側が大城区となります。


尾根を走る道路沿いにある「大城按司の墓(ボーントゥ墓)」ふきんから見た、大城城跡(シマ言葉では「ウフグスクグスク」とちょっと面倒臭い)。写真の一番奥に観える山の頂上に、大城グスクはありましたが、現在は何も残っていません。


尾根を走る道路を西に進むと、かつて稲福集落があった場所に続きます。
写真の石碑は、集落の戦争慰霊碑が置かれた森の中に立っています。手書きで刻んだと思われる文字は「ブラジル再渡航記念/大前小(屋号) 玉城福吉 1978 9月」と読めます。周辺には、ブラジルとアルゼンチンに渡る別の方が、それぞれ建てたと思われる石碑もあります。
森の中に眠るこれらのコンクリートの柱を建てた人たちは、どんな気持ちでこれを残したのでしょう。また、その後、どんな人生を歩んだのでしょうか。


真境名樋川(まじきなヒージャー)。稲福の西隣に位置する真境名集落に残るカー。すぐそばには殿やいくつもの御嶽が集中し、一帯は村一番の聖地にふさわしい厳かな雰囲気が漂っています。
向かって左側の角ふきんはヌル(ノロ)が座る場所で、「ヌルのお座敷」と呼ばれる石が今も残っています。
(三嶋)

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