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那覇新都心の町歩きが無事終了

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 参加申し込み者が少なく、どうなることかと心配していた「新都心ある記」が、無事終了しました。
 案ずるよりは産むが易し。何とかなるもんだ、とみなさまに感謝です(名護からは3人も参加がありました)。

 予定では、新都心南側のシュガーローフと黄金森公園付近から、北側に移動して、古墓などを見て博物館・美術館に帰るつもりでしたが、「シュガーローフの会」代表の具志堅青鳥さんが解説を買って出られたので、シュガーローフと周辺の散策時間を急きょ変更して拡大することに。
 おかげで、最近発見したという、日本軍のガマも確認することができ、当時の生々しい様子も追体験する事ができましたが、朝から照りつける強烈な日差しで、こちらも戦意喪失。
 時間も気になったので予定のコースを半分で切り上げ、美術館の裏に移動。そこに設置してある彫刻の作者、ゴヤ・フリオさんとの歓談を最後にお開きとしました。
 割愛した北側のポイントは、次回(いつかな?)にリベンジです!
 ボクの話をはじめ、反省点は結構ありますが、とりあえず面白かったので、よしとしましょうよ。

 なお、この歩きをネタに、今週のユンタク会(8月2日金曜日7時〜/バグハウス事務所)は、開催したいと思います。
 歩きに参加した人もそうでない人も、もう一度ふり返りながらユンタクしたいと思いますので、気軽にお越しください。
 また、いつものようにネットでも中継しますので、参加できない方はこちらでスーミーしてください。
http://www.ustream.tv/channel/okiaruki

※当日配布した資料が欲しい方は、お知らせください。
(三嶋)


旧日本軍の壕入口と思われる場所をさす、具志堅青鳥さん(シュガーローフの会代表)


壕の近くからしみ出す地下水。道路はかつての「マカン道」


自作の前で談笑するゴヤ・フリオ氏(右)

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那覇新都心の変遷

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 那覇新都心は、沖縄の戦後を象徴する場所だと思う。
 沖縄戦による破壊と、米軍による収奪をへて返還された土地は、基地の跡地利用の成功例といわれるまでに経済復興を成し遂げ、日々増殖し続けているようである。
 70年ほどの間に起こった、農地→戦災→米軍基地→都市という目まぐるしい変化は、土地や景観だけにとどまらず、居住する人々にも大きな変化を強いてきた。米軍基地の跡地に出現したキラビヤカナなこの街に、かつての住民の暮らしをしのばせる痕跡は消え失せている。
 那覇新都心の誕生が大きな経済効果をもたらし、那覇市だけでなく沖縄県全域に大きなインパクトを与えた事を否定する人はいないだろう。しかし、この全国標準の金太郎飴的な新しい街に、違和感を覚えるという声は少なくない。
 「ヤマト化」が完遂すると、その違和感も過去のものとなるのかもしれないが、土地に刻まれた歴史だけは消してはいけないことだろう。
 モノや形が失われたのなら、なぜそうなったのかという物語を語り継ぐ事はできるはずだ。

 古島団地(モノレール古島駅近く)から、ほぼ同じ位置で写した新都心方面の写真に、変遷を見ていただきたい。


1995(平成7)年5月。整備事業が動き始めて3年目、返還が決定してから10年後の風景


1999(平成11)年12月。前年に開校した県立那覇国際高校が中央に見える。新町名「おもろまち」が6月に決定している


2001(平成13)年1月。左右にのびる舗装道路が県道251号線(新都心中央線)。左に進むと、翌2002年に開店したサンエー那覇メインプレスにいたる


2003(平成15)年1月。ビル建設が急ピッチで進んでいるころ。2002年入居開始の県営天久高層住宅が、写真左側に位置する


2005(平成17)年4月。現在の街並みがほぼでき上がっている
(三嶋)

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平良橋が無くなります(たぶん)

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 首里の儀保と平良の境にある平良橋(太平橋)は、幾多の歴史が折り重なった橋です。
 1597年、尚寧王が浦添・首里間の道に石を敷かせた際に、アーチ式の石橋に改築され、名前も太平橋(たいへいきょう)に改められました。
 薩摩の侵攻を受けた1609年には、浦添から首里城を目指した薩摩軍と、琉球軍百余人がこの橋で激突。大将の首をとられた琉球軍が撤退したとされます。

 平良川(安謝川上流)にかかる現在の平良橋。
 写真を右に進むと、儀保から石嶺にいたる大通り(県道241号線)から、経塚方面に続く県道153号線が分岐する平良交差点。
 写真中央付近が西森(ニシムイ)の岩山で、現在の道路はその間を切り開いて儀保につながっています。


 平良交差点側から見た平良橋。右に曲がる坂道がかつての宿道。儀保坂(ジーブビラ)と呼ばれたこの坂道沿いに、かつては平良市場(テーラマチ)があったようです。


 1966(昭和41)年9月竣工、と欄干に刻まれています。
 現在、この橋のすぐ上流に「たいへいばし」が完成しているので、残りの工事が完了すると、写真の平良橋は壊されるでしょう。
 今が見納めですよ〜!
(三嶋)

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那覇市上之屋(うえのや)のこと

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 「那覇新都心かわら板」に連載中の、「新都心を歩く」に上之屋のことを書きました。
 那覇市上之屋は、北に隣接する字天久から1934(大正9)年に分離した字です。南は泊(以前は高橋町)、西は外人墓地の上あたり、東は安里と接する東西に細長い地域でした。
 現在の国道58号にある上之屋交差点付近から、200mほど南に下った辺りまでが中心地で、今より西側を迂回する戦前までの道路(県道)沿いに、いろいろな店舗が軒を並べていました。
 上之屋の繁栄は、久米と首里をむすぶ電車の開通を前に、潟原(現在の前島)にあった乗り合い馬車(客馬車)の駐車場が移転してきた、1913(大正2)年ごろから始まるようです。
 1915(大正4)年6月には、那覇と名護をむすぶ国頭街道が開通したので、那覇と中北部を往来する人々が増え、その客をあてこんだ人々も各地から集まるようになり、いっそうにぎわうようになりました。
 しかし、戦争の影が迫る頃から衰退しはじめ、沖縄戦と戦後の土地収用で、地域は破壊と混乱に見舞われました。
 現在は大きく様変わりした上之屋ですが、それにしても、沖縄にはそんな地域が本当に多いですね。
(三嶋)

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安謝トンネル

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「那覇新都心かわら板」に、安謝のトンネルのことを書きました。
 トンネル(といっても国道58号下の通路?のことですが)とその周辺は、地域の戦後史が垣間見える場所です。
 このあたりは、戦前まで安謝川の河口から続く湿地帯、原野だったようです。
 戦後、米軍が旧県道(現国道58号)をかさ上げして、軍道(1号線)を建設した際、東西に分断された部落をつなぐ必要からトンネルが造られました。現在の安謝市営住宅付近から琉球新報社あたりにかけては、戦前まで往来する荷馬車には辛い急坂だったため、所によっては10mほどもかさ上げされたようです。
 町としてのにぎわいは、皮肉にも1953(昭和28)年4月に米軍が安謝の土地接収を強行したことに始まります。安謝小学校の南側などに居住していた人々が、周辺にあふれるようになり、小学校前の通りに商店街が形成されるほどになったのです。
 トンネルの中にはマチヤグヮー(雑貨店)もでき、行き交う人々に親しまれていたそうですが、現在の高架橋が造られた1991年ごろ、店じまいしています。
 寂しくなってしまった商店街を歩くと、かつて響いたであろう売り込みの声や笑い声が、かすかに聞こえるようでした。
(三嶋)

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